小汚い策
ジンが懐から取り出したのは複数の紙の束だった。全ての指を密着させて手を広げた状態と同程度の長方形の紙が束ねられている束だ。枚数を数え切ることはできないが、ざっと一束が指三本を並べたほどの厚さがある。フェイは遠目からその存在を警戒しながら見つめていたが、すぐにそれが何であるか気付く。
(金か?)
ジンが取り出した紙は紙幣だった。加えて、薄い銀色で絵の描かれているその紙幣は、この国の中で最も高価なものであるともフェイは気付く。同時に、周囲で一連の様子を見ていた野次馬達もそれに気付き、騒ぎだした。
「おい、あれって……」
「一万ルゴドー……それも束じゃねえか」
ジンとフェイの争いを興味本位で見守っていた野次馬達の感情に、好奇心ではなく欲望が入り込んでくる。喧噪ではなく、互いに隠す気のない欲を囁き合うような人々の声を聞いたフェイは、ジンがこれから何をしようとしているかの大方の見当がついた。意図に気が付くと、彼はすぐにも離れたジンに攻撃を仕掛けようとする。
(まずい……!)
しかし、気付いた時には既に遅かった。ジンはどこからでも見やすいよう紙幣の束を高く掲げ、一言だけフェイに残す。
「残念だが、今のお前では無理だ」
言い切ると、彼は大きく振りかぶって手に持っていた札束をフェイの方へ投げつけた。空中に投げられると、札束は空気の抵抗を受けて大きく広がり、紙吹雪となってフェイの視界を奪う。一瞬、彼の視野に宙を漂う紙が横切り、その間だけジンが見えなくなる。
「くっ……」
札が舞う限られた視野の中で、フェイはジンが立っていた位置へと鎖を放つ。だが、彼の攻撃は空を突いた。しかし、狙いを見誤ったような手ごたえはない。
(狙いは正確だった、なら……)
思考が答えを出すのと同じタイミングで、フェイの耳に男の悲鳴が飛び込んでくる。その声は彼にとって聞き覚えのある部下の声だった。
(ルドーの方に逃げたのか)
彼は部下の悲鳴からジンの大まかな位置を察知し、そちらへ攻撃をしようとする。だがその直前、彼の攻撃の軌道上を見知らぬ男が通る。
「金、金だ!」
「っ……」
フェイはすぐに攻撃を中止し、周囲を素早く見回した。すると、彼の周りはジンが投げた紙束に群がる市民達で溢れかえっていた。四方を何の関係もない一般人に囲まれ、これでは満足に攻撃することなどできない。
矢継ぎ早に状況が転々としていく中、フェイは本丸であるジンのことを目に捉えようと辺りを見渡す。だが、彼の姿は既に通りから消えていた。
(遅かったか……)
フェイはジンにうまくしてやられたことを状況から知り、苦い顔をする。ジンの策に全く為す術もなく逃がしてしまった現在の状況に、彼は自分の力不足を感じて歯ぎしりをした。
「フェイさん!」
そんな彼の元に、周囲の人混みをかき分けて近付いてくる一人の男がいた。その男はフェイのすぐそばまで辿り着くと、汗を額に浮かべて早口で言う。
「ジ、ジンさんを取り逃しました……」
「分かっている。俺の責任だ」
フェイはジンが消えただろう路地の方へ目を向け、彼の策を思い返す。
「目くらましと、その後、俺達に攻撃できない状況を作った。ジンさんの姿を捉えていたとしても、市民に当たる可能性があって攻撃できない。俺達はあの人に全く損失を与えることもできなかった」
フェイは深くため息をついて、未だに宙に舞っている紙の一枚を手に取る。そんな彼に、部下の男は楽観的な口調で言う。
「でも、あの人にこれだけお金をばら撒かせたんですよ? ざっと見て、普通の生活ならしばらくは働かないで暮らせる額です。きっとすぐに逃げる費用がなくなって追い詰めることができるはずですよ」
「いや」
だが、男の言葉に対し、フェイは手に掴んだ紙を見て首を振る。
「あの人が俺達から逃げるためにそんな高上りなことをするはずないだろ」
「えっ?」
「見ろ、これは金じゃない」
フェイは部下の男に自分の持っている紙を示して言う。
「あっ、これ……」
「出来の悪い偽物だ。端っことかガタガタだし……気になるな」
二人の周囲を漂っているおびただしい枚数の紙は、紙幣ではなくただの紙だった。本来の紙幣は決められた絵が決められた色や形式で描かれているものだが、ジンが散らせた紙はそんなものには則っていなかった。一枚一枚が全く違う紙の形をしており、そして一枚一枚似ているようで違う雑な絵が描かれている。形や大きさ、絵はそれぞれ実際の紙幣に似せようとしているのだろうが、その出来はかなりお粗末だ。フェイは手に持つ紙の端を指でなぞりながら言う。
「大きさや形、絵を遠くから見たらやっと分からないくらいの最低限で似せたんだろう。大方、さっきの紙束は一番上と下だけが本物で、中全部がこれだったんだ」
フェイの言葉に反応するように、ジンが散らした紙を拾っていた周囲の人々が不満の声を上げ始める。内容は大体が拾った紙が偽物であることへの文句だ。
フェイは地面に数え切れないほど捨てられている偽札を見て、呆れたように言う。
「こんなもん、どんな店で使っても一発アウトだな」
「ええ……。というより、意外です。ジンさんって、こういう策を使うんですね」
「あの人は割とこすい手を使う。ただ実際、小学校の図画工作の授業二回分くらいの労力で、俺達はしてやられたんだ」
フェイはジンを捕まえることができなかったどころか、ほとんど損害を与えることもできなかったことを悔やむ。顔を地面に向け、手首に絡めている鎖を堅く握りしめた。
だが、彼の切り替えは早い。すぐにも俯くのをやめ、状況を整理する。
「まあいい。ともかく、今はジンさん達を追うことに集中するぞ。この街はそこそこの広さだ。まだ脱してはいないだろう」
「では、ジンさんが逃げた方向に向かいますか?」
「いや、ただ直線的に向かっても見つからないだろう。奴らは二手に分かれ、二方向に逃げた。合流地点はその二方向の間辺りのはずだ」
状況の確認を進めている内に、周囲から一般人達は消え、動ける状態のフェイの部下が彼の周りに集まっていた。フェイは彼ら一人一人に目を配りながら指示を出す。
「お前達は三人一組に分かれ、奴らが逃げた二方向の間を探せ。もし見つけたら、すぐに全体へ報告を頼む。攻撃はしなくてもいい。位置を報告し、全員が集まるまで待て。分かったな?」
短く指示を出し、フェイは早急に行動を起こすよう部下に伝えた。命令を受けると彼らはすぐに頷き、分かりましたと返事をする。そして、通りに集まっていた男達は順次バラけ始める。フェイは自分の部下達が散っていくのを見送ると、自身も動き出す。
「絶対に連れ戻す」
呟いて、彼は右手の鎖をすぐ近くにある建物の屋上近くの壁に放つ。鎖の先端の刃はコンクリートの壁に深く突き刺さった。次いで、その鎖はフェイの体を強く引っ張るように短くなっていく。彼はそれに合わせて地面を蹴り、空中に飛ぶ。脚力と自分の操る鎖の引力で、彼は安々と二階もある建物の屋上に着地した。
「あなたを助けるために」
また一言だけ呟いた後、彼は街の屋上を駆けていった。




