旅の再開
通りに人の流れができてくる朝と昼の間の時分、レプトにカスミ、ジンの三人は現在、昨日に泊まっていた宿を出て外を歩いている。昨日と変わらずレプトとジンはフードをかぶり、カスミは普通に顔を曝け出していた。一行全体がフードをかぶっているならまだしも、今は顔を隠している者とそうでない者が混在しているため、周囲からの目立つ度合いは先日よりも更に増している。
「まったく、昨日はよくも無理矢理あんなことしてくれたわね」
カスミは傍から見てすぐに分かるほど不機嫌な様子だった。彼女がため息混じりに文句を言う相手は、横を歩いているジンだ。カスミは昨夜のことを引きずっているらしい。つまり、二人に同室で泊まるのを強いたことだ。
「……すまない。昨日の俺はどうやら分別を欠いていたらしい」
彼女の言葉を受けると、ジンは抵抗なく素直に謝った。どうやら昨日のことは彼の中でも気にかかっていたらしい。
そんな二人の様子とは反して楽観的なレプトは、呆けた声を上げて二人の気を緩めようとする。
「まー俺は別に良かったけどなぁ。今となっちゃ別にそんな嫌がることでもなかったような気がするよ。話もできて退屈しなかったし、気にすることもあんまねえからなぁ」
「私の方は気にすることがあんのよ……」
緩み切った様子のレプトに、カスミはため息と共に呆れの感情を吐き出す。随分と疲れがたまっているようだ。ただ、そんな彼女の様子には全く気付くことなく、何か思い出したようにレプトはジンに声をかける。
「そういやジン。今朝、宿を出る前に地図を借りてたよな。なんでだ?」
「ああ、それは……」
レプトに問われると、ジンは話に出てきた地図を懐から取り出して説明する。
「カスミの住んでいた街がどの辺りにあるのか、それを確認しようと思ってな。この辺り一帯の地図を買った」
「私の……ありがとう」
ジンの言葉を聞くと、先ほどまでの態度を正してカスミは礼を言う。そんな彼女を一瞥してからジンは話を続けた。
「大丈夫だ、俺達の旅は特定の場所に行きたいとかそういうものではないからな。で、肝心の位置だが……カスミ、お前の暮らしていた街の名前は“シャルベス”で間違いないな?」
「うん、そうだけど」
「残念だが、この地図にそんな街は載ってないな」
「……えっ?」
街の位置などの内容が話されると思っていたカスミは、予想外なジンの言葉に気の抜けた声を上げる。次いで彼女の心に発生したのは不安だ。その感情のまま、カスミは身を乗り出してジンに問う。
「ちょ、ちょっと、ちゃんと探したの? 地図に載ってないなんて、そんな……」
「安心しろ。お前の街にたどり着く手立てがないわけじゃない」
「そっ、そうなの? ならよかった……」
「ただ……」
帰る方法がないわけではないと言われて安心しかけたカスミだったが、彼女が息をついて間もなく、ジンが顔をしかめる。
「この地図はこの辺り一帯を示すものだ。徒歩で行ける距離の街ならばここに記載されているはずだが、シャルペスという街は載っていない。つまり……」
「めっちゃ遠いってことか」
ジンの言葉から先に結論を察したレプトがそれを口に出す。反射的に出した言葉だったために、彼の言葉は全く気遣いというオブラートには覆われていなかった。悪い状況を示す言葉が、カスミの胸に容赦なく突き刺さる。
「め、めっちゃ遠い……」
少なくとも今のままでは家に帰るのは現実的ではないと知り、カスミは大分ショックを受けたらしい。顔を下に向け、頭を抱えてうなり始める。
そんな彼女の様子を見たジンは咄嗟にレプトの言葉に付け加えて言う。
「めっちゃ遠いと言っても、さっき言った通り手立てがないわけじゃない」
「……でも歩きじゃ無理なんでしょ?」
「そうだな」
「はぁ……」
「早まるな。希望がないとは言ってないだろう」
ジンは強い憂いから深くため息をつくカスミに勝手にあきらめるなと釘を刺し、これからどうするかの説明をする。
「まずは移動手段を手に入れる。車だ」
「でも、この辺りじゃそんなもん手に入れるのは難しいんじゃねえか? 俺達金をいっぱい持ってるわけでもねえしよ」
「大丈夫だ。車を持っている知り合いがいる。そいつから借りればいい。それに、その知り合いがいるのはこの地図に載っている範囲、それも遠くはない。かかって三日かそこらだろう。街を一つか二つ経由してそこに行く。シャルペスに本格的に向かい始めるのはそこからだ」
ジンの計画は、遠方にあるだろう場所に向かうのに適していた。彼の話に希望を見出したらしいカスミは、重くなっていた頭を持ち上げ、ジンの言葉に耳を傾け始める。
「確かに、それなら行けるのかも。ありがとう。そこまで考えてくれて」
「大丈夫だ」
「でも平気なの? 車って安く見積もっても結構なお金のかかるものだし、その人が貸してくれないかも。そもそも、私はその人がどんな人なのかも分からないから……」
自分のためにこれからの動向を考えてくれるジンに礼を言いつつ、カスミは彼の計画の不安点を口にする。実際、彼女が口にしたことはジンの計画の要であり、不透明な部分でもある。彼の知り合いという人物がもし彼の意向通りに動かなければ、計画は破綻することになる。
「…………」
自分が知り合いだと言った人物について言及されると、ジンは露骨に口を一文字に結んで黙り込む。先頭を歩くジンの足取りが重くなると、後ろの二人は彼を心配した。
「大丈夫なのかよ。すげえ不安そうな顔してるけど」
レプトはジンの顔を前から覗き込んで彼の様子をうかがう。フード奥のジンの顔は緊張によってか、眉間に深いしわが刻まれていた。そんな彼の表情を見ようと、レプトと同様にカスミもジンの前に回って彼の顔を覗き込んだ。すると、彼女は思いがけずある事実を知る。
(あれ、ジンってレプトと同じ感じじゃないんだ……)
ジンの顔は、全体が薄橙色に覆われていた。人の肌と見て間違いないだろう。彼の顔は、レプトとは違い完全に人のものであった。レプトと同じように顔を隠していたため似た状況なのだろうと考えていたカスミは少し驚いて目を見はる。
しかし、カスミがそれついて深く考え始めるより前に、彼が先に固まっていた口を開く。
「そいつは、少なくとも悪い奴じゃない。それに、ほぼ確実に頼みは聞いてくれるだろう。ただ……」
ジンは額を抑えて、実に憂鬱そうに言葉を吐き出す。
「本当に最悪な別れ方をした。この世で一番とか、まあそのくらいなんじゃないかというくらいには最悪な別れ方だった。正直、会いたくはない」
ひどく思いつめた様子で彼はうなり声を上げた。聞くに、会うには充分な覚悟のいる相手らしい。
「どんな別れ方だよ。不倫相手とデートしてる現場に現奥さんと居合わせてそのまま破局、とかか?」
その内容が気になったレプトはジンに冗談交じりで問いかける。だが、彼はそれに対して一切不真面目な要素なく言葉を返す。
「……あるいは、それ以上かもしれん。決して違うと否定しておくが、お前の例えに乗るのならば、俺と不倫相手が現妻と別れる算段を付ける話をしている最中に三人が居合わせてそのまま別れる、くらいか。いや、もっとかも」
「お、おぅ……マジかよ」
真面目にそれ以上という返答を受け、レプトは驚く。冗談を否定する余裕もないほど、その者と会うのは気が進まないらしい。
そんなジンの様子を見かね、カスミは彼の計画を無理して断行することはないと話す。
「そんなにその人と再会したくないんだったら、別の方法でも大丈夫よ。私は助けてもらってる側だし……」
「……いや、構わない」
カスミの言葉にジンは少し迷ってから首を振った。
「そいつとは、いつか会って話さなければならないと思っていた。今、丁度機会が来ただけだ。俺はこのことを前向きにとらえているから、心配しなくてもいい」
ジンの声色は、無理をして言葉をひねり出しているという感じではなかった。言いながら彼は、カスミの方を見下ろして小さく笑みを浮かべる。口角を少しだけ上げる彼のその笑みは、カスミの心にゆとりをつくり、彼女もまた少し笑う。
「じゃあ、それで。頼むわ」
「ああ」
計画を受け入れたカスミの言葉を聞き、ジンは一段落だと息をつく。そうする頃には彼の歩調は元の早さを取り戻した。
真面目な話が一通り片付いたと見ると、レプトはわざとらしく心配そうな声をつくって言う。
「そうだよな、そんな別れ方なら示談とか話し合わなきゃいけないだろうからな……」
「おい、それは違うと言っただろうが」
レプトが茶化してくるのをジンはわざわざ後ろに振り返って全力で否定する。真剣な表情をするジンに、そんなマジになるなよ、とレプトは笑って言った。二人の様子を目に、隣でカスミも小さく笑う。ジンは彼女のその笑いにも反応し、何が可笑しいと呟きながら腕を組むが、彼の表情には本気の不機嫌のようなものはない。三人の足取りは、目的や辿る道の遠さと険しさに比べて軽かった。
そんな時だ。
「止まれ」
三人の背の方から声が聞こえる。男の声だ。




