人の不幸
「よお。誤魔化しばっかの魚臭い陰気女」
シフと顔を合わせるなり、メリーはそう口にした。酒瓶を持った左手を振りながら、嘲笑を隠さない顔と口調で。
「……」
暗い公園、海を背にして立つシフは、メリーの言葉を受けると離れた所にいる二人にも分かるほど大きく目を見開く。だが、そのすぐ後に彼女は顔を俯かせる。
シフのその様子を前に、そして何より、メリーの棘を前面に出した言葉を耳にしたレプトはすぐ隣の彼女の肩を強く小突いた。そして小さい声でメリーの行動を諫める。
「おいっ! 急に何てこと言ってんだ。分かってんだろ、気の乱れが……」
「分かった上でだ。信じてくれ」
「…………」
メリーは揺るぎのない言葉でレプトの言葉を拒絶する。その目には誰かを傷つけようという悪意のようなものはない。レプトはそのメリーの目を見ると、先までのやり取り、そして昼間の彼女との会話を思い出し、一歩下がる。
「任せるぞ」
「……ああ」
後ろにレプトが引いていったのを目の端に、メリーはシフの方へと進み出る。対するシフは、メリーが前に出てくると顔を上に上げる。そこには笑みがあった。
「昼の時はごめん。まだちゃんと謝れてなかったね。……本当に」
「口だけの謝罪はよせよ。さっきお前、私に消えろって思ったろ? 人の気持ちも考えられないクズ女が、消えろ……ってとこか?」
メリーは右の指で挟んでいる煙草の先をシフに突き付ける。その顔には歪んだ笑顔があった。神経を逆撫でしようと思っている風にしか見えない彼女に対し、シフは愛想笑いを口から漏らしながら落ち着いた声で返す。
「はは……そんなことは思ってもないよ。さっき、黒い感情が一つもなかったっていうと嘘だけどさ。本当に悪かったと思ってるよ」
「…………」
(……駄目だこいつ。遠回しに進めようとしても撒かれるだけだな。……直球で行くか)
シフの流すような謝罪を耳に、メリーは白けた目をして煙草を口に咥える。長く話すことになるだろうと考えた彼女は、酒瓶を地面に置き、公園の地べたに胡坐をかいて座った。そして、懐から灰皿を出し、煙草の灰を落としながら話を続ける。
「聞いたぞ、お前の事。長くないそうだな」
「レプトからかな。それとも自警団の皆か」
「誰でもいいだろ。重要なのは、今お前がどういう状況か、だ」
「君には関係ないと思うけど」
「フッ……関係ない、ね」
「何が可笑しいの?」
シフは揺れを見せない口調で問いかける。それに、メリーは煙草の吸殻を灰皿の底に圧しつけながら片手間に返す。
「おかしいさ。私には、じゃないだろう。他の誰も、僕以外に関係する人はいない……が正しいんじゃないか?」
「何が言いたいのか、よく分からないな。分かりやすく言ってよ」
「お前を助けてくれようとする仲間達のことを止めたそうじゃないか。それは、その仲間達が自分とは関係ないと思っているからだろ? そうじゃなきゃ、そんな自分中心の判断はできない」
「……ふ、違うよ。確かに僕自身のためでもある。でも、ジルア達にこれ以上迷惑をかけたくなかったんだ。そうでなくともこの街は、前まで海賊やらで大変だったからね」
「じゃ、今はどうなんだ? 勘違いで何の非もない人間を押さえつける暇があるんだったら、助かる手段を探すべきじゃないか? それとも、お前の仲間は自分の友達が助かる手段を探すのさえ嫌がる冷たい奴なのか……」
メリーの言葉に、シフは鉄仮面のように動くことのなかった表情をぴくつかせる。メリーの今の言葉はどう返そうが、ジルア達への否定か、自分の判断を自分中心のものだと認めるか、どちらかになってしまう。シフは即座にそれを察し、自分だけに聞こえる舌打ちをして、誤魔化すようにメリーから目線を外す。
「ともかく、これは僕の問題だ。君に気遣ってもらう必要はないよ。だから……」
「ちょっと待ってくれ」
シフの言葉に、メリーは割り込んで手を上げる。暗い公園に分かりやすく、彼女の手に持つ煙草の火がチカチカと明滅していた。
「私はお前を気遣ってないぞ。だって気遣われるほど不幸じゃないだろ?」
「……は?」
メリーの一言に、シフは明確に表情を崩した。まるで、信じられないものが目の前に出てきて、驚くよりも前に思考が疑問に覆われてしまったかのようだ。そこにあるのはまっさらな疑問だけ。舌が固まってしまった様子のシフに、メリーはそのまま言葉を続ける。
「何を不思議がっているんだ? まさか、自分のことを不幸だなんて思ってたのか?」
「……っ。悪いのかな」
「……ぷっ……く、くく……はは」
シフは虚偽を選択するのではなく、誤魔化すような言葉を選んで口に出した。その言葉を聞くと、メリーは抑えきれないというように息を漏らし始める。高く声を上げて笑いこそしていないが、そこにある嘲り、嘲笑の感情は誰から見ても明白だ。
シフは翳りの奥で鈍く光る目を見開いてメリーを見据える。
「何が可笑しいんだ??」
「いや、傑作だと思ってね。お前の境遇は分かってるつもりだったが……その程度で、不幸……く、クク……別に大したこともないだろうに」
メリーは笑いを抑えるように煙草を口に咥えた。そんな彼女に、シフは内にある感情の揺れを出さないように平静を保った声を出す。
「……好きに思ってくれて構わないけど。君はやっぱり僕のことを知らないよ。知ってたら……」
「いや、知ってるさ。知ってて言ってるよ」
メリーは不意に立ち上がる。彼女の手元の煙草は燃え尽きそうになっていた。
「身を切られ、肉を抉られ、中身の分からない薬を体に投与される度に視界が揺れ、音が音でなくなる。異物を吐き出すなんて珍しくもない、そんな毎日を死に物狂いで抜け出した先で待っていたもの……それは期限付きの自由。記憶もなければ、頼れる相手もいない。残されたのは、露ほどの時間を謳歌する自由だけ……。こんなところか?」
「…………」
メリーの言葉は紛れもなくシフのこれまで過ごしてきた人生そのものだった。暗い夜の海を抜け出した先に待っていたのは沈没を待つ小舟。穴から小舟に水が入っていくのを見ているほかはない。シフはメリーの言葉を受け、押し黙ってしまう。
「でもな……やっぱりお前は不幸じゃないよ」
シフの過去を知っていると示しながらも、メリーは彼女を不幸じゃないと言った。そして、火の消えた煙草を灰皿に投げ捨て、シフに言い放つ。
「今の状況は、お前の甘えだよ。自分が恵まれてることに気付きもしないお前の視野が狭す……」
瞬間、シフは背の槍を手にし、地面を蹴った。暗夜に青い光が一閃する。




