クラス
「俺は二年前まで、奴らの実験対象だったんだよ」
レプトは単刀直入に告げた。自分こそが、エボルブの非人道的な実験の被害者であったのだと。カスミはそれを聞くと、目を見開いてレプトのことを見た。
彼は部屋の奥にある窓に顔を向けている。窓の外は暗く先が見えない。建物のシルエットが少しだけ見える程度で、その先を探ることができないほどの暗闇だ。街灯は、部屋の位置が悪いのか全く視野に入ってこない。
レプトはそのまま続ける。
「ひどい日々だった。決まったインターバルで白衣の連中がやってくる。奴らに刃を身に入れられたことも、仕組みが何一つ分からない機械につながれたこともある。そんな時間を長く過ごして、もうああなる以前に自分が何をしていたかも覚えてない。いつから自分がこんな顔になったのか、どこに帰るべきで、誰が自分を知っているのかも分からない」
レプトはそこまで言って、空気を重くしないよう軽い調子で言う。
「そんなこんなで過ごしている内に、逃げる機会が訪れて、無事こうして自由を手に入れた。でも、俺は大分人気だったらしくてな。今でも追手がついてるってわけだ」
レプトは説明しきると、カスミの方へと顔を戻して小さく笑う。彼は恐らく、自分が話したことを重く考えすぎないでほしいという意図で笑っているのだろう。だが、今はそれが逆効果だ。彼がそのつもりであろうとなかろうと、無理に笑っているように見えてしまう。
カスミはその笑みを見て、レプトから目を逸らして俯く。
「笑えないわよ。……よく、普通にしていられるわね」
「……まあそうだな。でも、俺にはジンがいたから。逃げ出してすぐは顔を上げられなかったけど、今じゃ冗談だって言えるくらいには立ち直ってる。いらない気は遣うなよ」
明かりの光に包まれる部屋の中で、レプトは声を上げて笑うのではなく、カスミに向かってニッと口角を小さく上げてみせた。それに合わせて彼の両の目も歪む。人の目と人でない目が同じように歪む様は異色と言わざるを得なかったが、それでもカスミは彼の意図を感じ取る。
「……そう、分かったわ」
カスミは小さく頷いた。それを見たレプトも満足したようにふうと息をつく。
そして、話に一区切りついたかと思ったその時だ。レプトが思い出したように高い声を上げる。
「あっそうだ。カスミ、俺とお前で似てるところが一つあるぜ」
「私とアンタで? どこが似てるって言うのよ」
「目的さ。お前は家族の元に帰りたい、だろ?」
「追手から逃げるのとどこがどう似てるって?」
「それじゃねえよ。俺の旅にはもっと別の、大きな目的がある」
レプトはカスミの言葉に大きく首を振って訂正する。そして、彼はもう一度窓の外に目を向け、一息に宣言した。
「母さんを助け出すこと、それが俺の目的だ」
「母親を? 助け出すっていうのは……」
カスミが聞き返すと、レプトは順を追って説明する。
「俺と母さんは“クラス”と呼ばれてエボルブの連中に同じ扱いを受けていた。他にも何人か俺達と同様にそう呼ばれていた奴らもいたけど、そいつらとは顔も合わせたことがない。ただ、俺と母さんはずっと同じ場所にいた。多分、区分けか何かが同じだったんだろう」
「アンタの母親も、アンタと同じ状況だったわけね」
「そうだ。でも、さっき言った逃げ出す機会の時……」
レプトはそこで言葉を詰まらせる。彼の表情には、壁にしみついて離れない汚れのような、拭えない悔やみがあった。それを見たカスミは、彼の言葉の続きを察する。
「一緒には逃げられなかった?」
「……そうだ。母さんは、俺や他のクラスが逃げる時間を稼ぐために……」
レプトは指を眉間に当て、顔を深く俯ける。そのまま、息を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。彼にとっては、思い出すだけでも心に負荷をかけるようなことだったのだろう。
だが、カスミに深く気を遣わせないためか、彼はすぐに顔を上げて話を再開する。
「だから、今は母さんを助ける手段を探すために旅をしてる。それに、俺自身が力をつけるために。今のままじゃ、母さんを助けることはできないだろうからな。あの時は運よく逃げられたけど、今回は自分の力と策で母さんを助けなきゃならない」
話し終えると、レプトは伸びをしてから欠伸をする。人ではない部分があっても、人間と同じように彼も夜には眠くなるようだ。
「目的は似ているかもしれないけど……私とアンタのじゃその道のりが違い過ぎない? それに、私は結構な大事に巻き込まれたのね」
レプトの背を見ながら、カスミは呆れたように笑う。確かに、家族に再会しようという一点は似ているが、それに至るまでに必要なことが二人では違いすぎる。
しかし、そんなことは関係ないと言わんばかりの明るい笑みをカスミは浮かべる。
「まあでも、いいわ。昼間に言った通り、力になる。私が家に帰るまで、なんて言わないわ。もしその時が来たら、手を貸す」
そして、喧嘩を始める時のように指の骨を鳴らして「私の力は分かっているでしょ?」と自分の有用性をアピールする。そんな様子を見て、レプトはフッと笑って礼を言う。
「ありがとう」
素直な礼を受けるとは思っていなかったカスミは、居所がなくなったかのようにそわそわしだす。そんな様子の彼女を見て、レプトは小さく笑う。彼の笑い声を耳ざとく聞きつけたカスミは、顔を薄ら赤くして文句を言う。
「何よ、別に笑うことじゃないでしょうが……」
口をとがらせるカスミを見てもう一度軽く笑い、レプトは立ち上がってフードをかぶる。そして、部屋の出口に向かいながら背の方にいるカスミに早く休むように告げる。
「今日は色々あったし、明日は多分、今日やったことのせいでもっと色々ある。早く休めよ。んじゃあ、俺は人の居ない時間見計らって風呂入ってくるから」
「あっ、レプト……」
「ん、なんだ?」
カスミに呼び止められてレプトは振り向く。何かを思い出して声をかけたらしいカスミは、レプトが自分の方を見ているのをしっかりと確認すると、真っ直ぐ彼に向かって口を開く。
「昼、アンタにしたこと。その、アンタの事情を知らずに言うことを聞かず、無理矢理顔を見て、本当にごめん」
カスミがレプトのことを呼び止めたのは、昼に彼にしてしまったことを改めて謝罪するためであった。だが、レプトはそれを受けると、別に何でもないと言う風に首を振った。
「ああ、そんなことか。別に気にしてないって。顔を隠すのは俺を怖がる奴がいるかもしれないからだし、お前は割とそういう感じじゃなかったから寧ろ嬉しか……」
「でも、私がやったのはアンタのことを考えてない最低なことだった。謝らせてよ」
「……おう」
「それと……」
レプトが安心させようとするのを断固として受け入れず、カスミはそのまま続けた。
「一人でなんとかできたとか、そんなことを言ってちゃんと言えてなかった。そういう問題じゃないのにね。……助けてくれて、ありがとう」
カスミが口にしたのは、人攫いから自分を助け出してくれたことへの礼だった。最初は自分一人の力で抜け出すことができたと言っていたが、彼女は以前の自分の言を否定し、改めて礼を言う。その言葉には誠実さがあった。
今日という一日の間に十何人もの人間を助け、しかし、ついには一人からも礼を受けることができなかったレプト。彼はここまできてやっと、ありがとうと言われることができた。
「あ、ああっ……」
一瞬、何と言われたかを頭の中で咀嚼する時間を挟んだ後、彼はまるで酔っ払いがするような形の崩れた笑みを顔に浮かべる。そして、口調までベロベロになってカスミの礼に対して言葉を返す。
「い、いんやぁ~別に、大したことしてねえって、へへ……」
彼は気持ちの悪い笑みを浮かべたままカスミに近付き、彼女の肩をバシバシと叩く。
「これからは何でも言ってくれよ? できることなら何でもやるからさ、ん? なんだって任せてくれな」
「え、えぇ……」
今までの彼からは全く想像できない様子のふにゃふにゃした感じに、カスミは思わず顔を青ざめさせる。だが、レプトの方は全くそれに気付かない。そのままカスミに一方的に言葉を投げた後、スキップをしながら部屋から飛び出していった。
「……」
今までに見ていなかったレプトの一面を見たカスミは、呆気に取られてしばらく動けないでいた。驚きで頭の中が真っ白になったのだろう。そうしてしばらく、冷静になった彼女の頭の中には一抹の不安が残るのだった。
「私、とんでもない奴らについていくことになったのかも……」
カスミの呟きは誰に届くこともなく、部屋の中にしんと染み入っていく。
窓外では、暗闇を照らすように街灯がぽつりぽつりと灯りを灯し始めていた。




