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ヘキサゴントラベラーの変態  作者: 井田薫
ひねくれ魚人と逡巡の女研究者
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異形と乖離

 レプトとリュウは並んでワテルの街を走り抜ける。しばらく先を走っているジルアの背を追い、二人は人気のない路地の方まで向かった。行きついたのは、背の高い建物に両脇を挟まれた影の差す袋小路だ。

 最後の角を曲がる時、ジルアは先の構造がどうなっているのかを知っていたのか、直前で手を広げて後ろの二人を止める。そして、振り返ってリュウとレプトのそれぞれの顔を見た。


「来なくていいって言ったのに。えっと……さっき遊んだ……なんだっけ」

「リュウだよ」

「リュウ。アンタはあたしがいいって言うまで絶対に先には来ないで。それと、レプトだっけ。アンタは……何も言わずに手を貸して」

「そのつもりだけどよ……」


 元々シフを助けるためにここまで来たレプトは、その目的こそ一切揺らぐことはなかったが、彼女自身が一体どういう状況なのかを一切つかめず、戸惑いを隠せずにいた。ただ、ジルアの方はその疑念を一切察することはなく、レプトを連れて先の角を曲がった。


「…………っ」


 袋小路の先、陽光の差さないその暗がりにいるものを見て、思わずレプトは自分の目を疑う。一瞬、彼は鵺のことを思い浮かべた。彼はレプトと大きく考え方の違いがあれど、両者の体の状態に大きく差があるわけではなかった。その前例から、レプトはシフも同様のものだと考えていた。そこに疑いはなかった。しかし、目の前にいるものを見て、彼の考えは大きく覆されることになる。そこにいたのは、レプトや鵺、そして彼の母親とも大きく違うものだった。


「おぉ……あ、あぁ……が、ああぁ」


 行き先も人気もない暗がりにいたのは、人でも亜人でもない異形だった。藍色の魚鱗に全身を覆われ、背骨が異様な形に折れ曲がったそれは、人間と魚類を強引に縫合したかのような形をしていた。そこに、人であった時の骨格は存在しない。体格自体が大きく変容しており、両手両足と思われる部分の関節の数が倍以上存在している。ぐねぐねと曲がりくねるそれは、何を掴むでもなく、ただ助けを求めるように至る所へ伸ばされていた。顔も、人のものをベースにした土台に魚眼を無理矢理当てはめたような歪みのあるものに変容している。


「シフ……落ち着いて」


 その異形を、ジルアはシフと呼ぶ。そして、迷うことなく彼女はその異形へと歩み寄っていった。その背をレプトは驚きを隠せない目で凝視する。


(……あいつが、シフ。……いや、間違いない。感覚はある。だが、こんなのは……)


 何よりレプトの中にある感覚が、目の前の異形がシフであることを明確に示していた。だが、レプトは未だそれを信じられずにいた。自分に全く起きていない変容がシフには起きている。同類だと思っていた者が、その実全く違う性質を持っていた。シフのそれが、自分の顔にあるものとは根を異質にすることをレプト自身がよく分かっていた。


「おあああぁぁッ!!」


 レプトが一歩を踏み出せずにいる内に、事態が変化した。静かに歩を進めるジルアに、異形と化したシフが低い叫び声を張り上げながらその腕を振り下ろしたのだ。獣のような直線的なその攻撃を、ジルアはすぐ横に移動することで難なく避ける。鞭のようにしなるシフの腕はそのまま空を切り、石畳に凄まじい勢いで叩きつけられた。同時に、耳を刺すような音を立てて路地の地面にひびが走る。明らかに人が出せる力ではない。


「こんなことが……くっ」


 レプトはシフの攻撃の苛烈さを目にすると、冷静さを取り戻し、剣を抜き放ってジルアのすぐ隣に立った。そして、何とかシフの異常を戻そうと焦りを隠さない声で彼女に問う。


「おい、シフはどうやったら元に戻るんだよ。こんなん、いつまでも躱せるわけじゃねえぜ」

「……? いや、少し様子を見たら戻るよ。発作みたいなものだから。ってか、なんで同類のアンタが知らないわけ?」

「それは……」

「ともかく、攻撃なんてしなくていいから。剣はしまってよ」


 ジルアはすぐ脇に立つレプトに顎で示し、攻撃は必要ないと示す。レプトはそれに応じ、手に持った剣を鞘に納め、異形と化したシフに向かった。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





 ジルアとレプトは異形と化したシフの攻撃を避け続けた。形も、人格も失った彼女は一切の遠慮なく友人と同類を攻撃した。だが、その単純な攻撃が戦い慣れている二人に当たることはなかった。彼女が人の姿を失ってからしばらく、四、五分ほどもその暴走は続いた。

 その後だ。揺らぎながらも止まることのなかったシフの攻撃の調子が崩れる。攻撃の頻度が下がり、鞭のように振るわれていた彼女の両腕は頭痛を抑えるようにその頭を抱え込み始めたのだ。


「お、おぉ……ぐ、あああぁぁ……は、はぁ……」


 低い苦悶の悲鳴を上げながら、異形はその体の関節を折り、地面に倒れ伏す。それを見たジルアは、攻撃を躱すために力を入れていた体を楽にし、息を吐く。


「済んだみたい。今回は……前よりちょっとマシだったかな」


 言いながら、ジルアは地面に横たわる異形へと歩み寄る。それに呼応するように、異形の体を覆う藍色の魚鱗が波の満ち引きのようにさざめき始めた。どういう原理か、その波が辿った後のシフの肌は、魚鱗ではなく人の肌に戻っていく。その変化と並列し、彼女の体の骨格はどんどんと人のものへと戻っていった。水を大量に吸ったスポンジがしぼんでいくかのように、大きく膨張していたシフの体は人間大にまで十数秒の時を経て戻る。路地の暗がりにはいつの間にか異形の姿はなくなり、魚類の特徴を一部に持つ元のシフが戻ってきた。


「くっ……う……じる、あ。それに、レプト……? ごめん、僕……」


 人間の体に戻ると、すぐに意識が戻ったのか、彼女は頭を押さえながら膝を地面につく。記憶が混濁しているのか、周囲を見渡し、独り言を呟いて状況を確認していた。


「僕は……ああ、あの女の言葉で……」


 事態を最低限把握し終えると、彼女はふらつく足でレプトに歩み寄ろうとする。だが、異形と化していた状態の反動か、まともに歩くこともままならないらしく、彼女の体は吸い寄せられるように地面へと倒れそうになった。それを、ジルアが支える。

 声をかけあう二人を前に、レプトは唖然とした表情でいた。異形の正体がシフであるということは状況から分かっていたが、その変容を目にし、否定のきかない事実であるということを突きつけられたからだろう。未だに動揺を隠せない彼は、しどろもどろに二人へ問う。


「いっ……いつから、こんな風になったんだ?」

「……酷くなってきたのは、ここ二か月くらい。最近はもう三日に一回はこうなる。さっきのはたまたまトリガーになっただけさ」


 シフは弱々しい口調で自らの状態を説明する。だが、レプトにとってその説明は不十分だ。


「酷くなってきたってことは、ずっと前からこうなることはあったのかい?」


 異形の鎮圧に参加していなかったリュウが、角を曲がった先の事態が落ち着いたのを見計らって現れる。彼が言葉にしたのは、正にレプトが聞きたかったことだ。

 リュウの問いを受けると、ジルアは訝し気に眉を寄せてそれにこたえる。


「シフがこの街に来たのは大体二年前くらい。その時にはもう、こうなることはあったよ。今よりは頻度も、変わり様もずっとマシだったけどさ」

「……それはつまり、悪化してるってこと?」

「そうだろうけど……一体何を不思議がってんの……?」


 シフの状態について口にしながら、ジルアは疑いをかけるような目でリュウを見る。不思議に思うというよりは、嘘を吐いていると確証のある相手に向けるような目だ。

 ただ、そんな二人のやり取りには構わず、ジルアの手に支えられていたシフは消耗の残る青ざめた表情でレプトを見た。その瞳には、同情と、縋りつくような哀れみがあった。


「君も、同じでしょ?」


 シフの言葉に、レプトは身を震わせた。それに気付かず、シフは淀んだ目線を地面に落としながら言葉を続ける。


「いずれは、この形も保っていられなくなる。分かるんだ何となく。こうなる度、どんどんどんどん前後の意識がズレていく感覚があるんだ。多分……一か月か二か月先、僕はあの状態から戻ってこれなくなる。死ぬのと、何ら変わらない状態に……いや、周りに迷惑をかけるからそれ以上かな」


 シフの濡れた水色の髪が乾きかけている。瞳は水を失った魚のように濁っていた。その瞳で彼女はレプトを見据えた。


「ごめんね。僕よりはまだマシみたいだけど、君も同じ状況のはずなのに愚痴っちゃって」


 シフは空元気で笑うと、ジルアの肩を軽く叩いてもう大丈夫だと示す。本人の意志には抗わないようにして身を引かせつつも、ジルアは心配そうな目でシフを見た。当の彼女は疲労の残った表情でレプトに言葉をかけている。


「同じ境遇の仲間がいるのに、下を向いてもいられないからね。レプトも、今幸せそうで本当に安心したよ。まあ、誤解で迷惑かけちゃったけどさ……はは」


 シフは乾いた笑いと共に、自分も同類の励みになれるよう笑顔を浮かべた。そこに、先ほどまでの濁りはない。彼女自身、レプト達のような同類がいることを心の支えにしているからだろう。だからこそ、彼女は自分もレプトの助けになりたいと思っているのだろう。彼女がレプトに向ける目線には、長年連れ添った仲間に向けるような信頼があった。

 だが、レプトは同じ目線を返せない。彼は、次の言葉を考えるのに必死だった。

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