いつかの立場の逆転
ワテルは水上の都市であるために、至る所に水路を跨ぐための橋が備えられている。人が十人は並んで歩ける大きな橋から、二人分ほどの横幅しかない裏路地の橋まで、街にある橋は数えきれないほどの数だ。
その内の一本に、橋下に足場が付属されたものがある。人目につきずらい影の差す路地にその橋はあった。太陽が空の頂点に向かう直前ほどの時分でも、そこを通る人は少ない。
その橋の跨ぐ水路の水面が揺れる。藍色の波紋が日光の反射に揺らぎをつくったかと思うと、次の瞬間、底の見えない水底から人の頭が現れる。
「ぷはぁっ……ふぅ。流石に一人連れて泳ぐのは骨が折れるなぁ」
シフだ。彼女は濡れた頭で水面から頭だけ出すと、周囲を見渡し、自分以外に人がいないかを確認する。自分の中で安心できるラインまで辺りを確認すると、彼女は再び水路に潜り込んだ
次いで水面から現れたのは、人の両手だ。両手は橋下の足場近くに現れると、助けを求めるかのようにその岸をがっしりと掴む。両手に力が加わると同時に、水中からは一人の少年が顔を出す。彼は両手を起点に、一気にその体を足場に投げ出すようにして海中から上がる。陸地に上がると少年は即座に四つん這いになり、嗚咽して口から水と別のものが混ざった何かを大量に吐き出した。
「んぐぅっ……うぉえぇぇ……! ぇほっ……ぇ、ぇ……かはっ」
レプトだ。彼はフードを被り直すことも忘れ、喉の奥に存在する呼吸を邪魔するものを吐き出し切ろうとしていた。
そんな彼の背の方、海面から白い飛沫が立ち上がる。水中から現れたのはシフだ。彼女一人ならば、水中から飛んで出てくるくらいのスピードを出せるらしい。彼女は橋下の足場に海中からジャンプして着地すると、両手の指を組んで腕を持ち上げ、体を伸ばす。
「ふっ、くぅ~……っと。これで一安心だ。僕や君が奴らに捕まることも……って、えぇ! きたなッ!!」
シフが安心と共に体から力を抜こうとした時だ。彼女はすぐそばで嘔吐しているレプトのことを目に留め、恐怖にも近い表情をし、彼からサッと体を飛び退かせる。
「ぐっ……ぷっ……テメエ、こんな扱い、しといて……うぷっ」
全身ずぶ濡れになった状態のレプトは、嗚咽の合間にシフに対して恨み言を漏らす。だが、それもひどく弱々しい。それもそのはず、二人がこの足場に辿り着いたのは、リュウとジルアが戦い始めたほどのタイミングだ。彼らが会話して戦い始めるまでの間、およそ三分ほどの時間をレプトは水中ですごしていたのだ。水中で呼吸することの出来ない生物にとっては、気絶してもおかしくない状況だ。
「なんでこんなことに……」
レプトの状態と、彼の眼前の地面の惨状を目に、シフは眉を寄せて考え込む。彼女が結論を得るのは早かった。
「……まさか、君、海の中で息できないの?」
「できるわきゃ、ねえだろ……けほ、ごほっ……」
肺と喉に入っていた異物を大分取り除き終えたのか、レプトの嗚咽には咳が多くなってくる。そうすると、彼の顔は嘔吐のために下を向くことはなくなり、その視線は自然とシフに向かう。その目は、修羅のような怒りを孕んだものだ。
「おめえ、よくも……こんな地獄を味わったのは正にあの時以来だぞ」
「あ、はは……ごめん。知らなかった。僕以外もみんな大丈夫なのかと。それに、君を助けるのに必死で」
レプトが見上げてくるのから目を逸らし、シフは謝罪と言い訳を口にする。両手の指を合わせながらぎこちなく発された彼女の謝罪の言葉に、レプトはよろよろと立ち上がりながら力なく返す。
「気にしなくていい。ただ覚えといてくれ。お前はあともう少しで同類を殺すとこだった」
「それ気にしろって言ってない?」
遠回しにすることもなく放たれたレプトの鋭い言葉にシフは身を縮こませる。そんな彼女を端眼に、レプトは二人の間ですべきだった話題を思い出す。彼はずぶ濡れになった外套が肌に張り付くのを嫌がりながら、自然にそれを切り出す。
「そんでよ。お前、クラスだよな。俺のと同じ感覚をお前も感じてるだろ?」
「え……あ、ああ。そういえば確認もしないまま連れてきちゃってた。そう、君と同じで僕もクラスだ」
「……よくもまああんなこと、何の確認もせずにやるもんだぜ」
人一人を強引に連れ出す、それを一切の確認もせず独断で実行するシフの行動力と考えのなさに、レプトは頭を抱えて呻きを漏らす。呆れの後で、レプトは改めてシフに向き直る。彼が試みたのは波乱の初対面の時に置き忘れてきたものだ。
「俺はレプトだ。よろしく」
「……シフ。呼びづらいかもだけど、僕の名前だ。よろしくね、レプト」
レプトの言葉に、シフも胸の辺りに手を置いて同様に返す。
二人の間に緊張感はほとんどなかった。初対面が初対面なだけに、逐一細かいことを気にすることもなかったのはあるだろうが、それ以上に、二人の間には共通した認識があることが大きかっただろう。
「さて……」
話にひと段落がつくと、レプトは肌に引っ付く濡れた衣服に顔を歪めながら、周囲を見渡す。彼の目に映るのは、水中に放り込まれる前の明るい公園とは真反対の暗い路地に伸びる水路。それを目にしたレプトは自分が一心不乱に呼吸困難に耐えることだけ考えていた間に随分な距離を来てしまったことに気付き、頭を抱える。
「シフ、急で悪いが……」
「忘れてたッ!!!」
「ぅわ……一体なんだよ?」
言葉を急に大きい声で遮られ、レプトは一瞬体を震わせる。そんな彼の細かい様子には一切気付くことなく、何か重大事を思い出したらしいシフは、燃えるような焦燥を顔にレプトの両肩をがっしりと掴む。
「レプト、あの連中にさっきまで捕まってたんだよね。追手が来てるかもしれない。早く逃げないと……!」
シフは一方的に告げると、足場から路地へ上がる階段に走って向かおうとする。どうやら彼女の頭の中は、レプトがしばらく前にした誤解と同じものによって支配されているらしい。直前までそのことについて切り出そうとしていたレプトは時機を得たと言わんばかりに、離れていくシフの背中にすぐ声をかけた。
「待ってくれ、シフ!」
「え、何? 急がないと奴らが……」
「それ……なんだがよ」
自分を信じ切り、己を疑うことを知らなそうなシフの背を呼び止める。振り返る彼女の表情には、今まさに正義を行おうとしているのにそれを邪魔されているかのような、純粋な感情がある。彼女なりに自分を思ってのこと、それを理解しているレプトは、鈍くメリーについての話を切り出すのだった。




