影
天井の見えない暗闇の広がる真夜中。人々が寝静まるその時分、レプトは仲間達の眠る宿舎の屋上に一人で立っていた。彼は屋上を囲む胸ほどの高さの鉄の手すりに両肘をつき、眼下に広がる静かな街並みを見下ろしていた。
夜のシージは、昼間と同じように荒れた所の一つとしてない平和な街だった。頭上からは街灯が薄暗く照らし、石畳の中にチラチラとまばらな人通りが見える。酒を飲んだのだろうフラフラとした覚束ない足取りの者、それを愚痴りながら支え歩く者、夜道を散歩する者。そんな人々が、十数分屋上から街並みを見ていたレプトの目には過ぎ去っていった。そこには人の姿をしていない者もいた。
(いいとこだ、間違いない)
レプトは手の届かない所に立てかけた自分の剣を目の端に、重い息を漏らした。温度の籠ったため息が、屋上に吹き抜ける冷たい風にすぐに攫われていく。
(断られてよかったのかもしれねえ。もし、助けてもらってたら……)
レプトは自分の頼みをスタルクが受け、このシージという街が国に敵視された未来を想像する。戦いがこの街を舞台にしようがしまいが、この場所の平穏は瞬く間に消え去るだろう。戦火は命を奪い、居場所を奪う。この街に集った他に居場所をつくれない者達は、当てもなく彷徨うことになる。
(よかったんだ、これで……)
レプトは手を握り締め、俯いていた顔を持ち上げる。銀の月明かりが、彼の顔に張り付いた緑の鱗を薄く照らす。黄色の瞳に刻まれたような形の縦長の瞳孔を更に細め、レプトは月を見据えた。月はその半分が灰色の雲に隠されていた。
(母さんを助けるために誰かが傷つくなんて、そんなんじゃ……。俺だけいい思いして、別のとこで酷い目に遭う奴をつくっちまうだけだ。……そうだよな)
夜風に肌寒さを感じてか、レプトは手すりにかけた体重を解いて屋上を後にしようと歩き出す。立てかけていた剣を手に持ち、彼は背後にある宿舎への出入り口の方を振り返った。
「……え」
背後を振り返ったレプトの視界には、一人分の人影があった。レプトはその者を目に入れるまで一切そこに誰かがいることに気付かなった。その人物は音もなく、気配もなく、レプトの後ろに忍び立ったのだ。その者の存在を意識に入れると、レプトは足を止め、その場で身構えた。
「出来るなら誰に見つかることもなくやり遂げたかったが……」
フェイだ。彼は自分の鎖を指で撫でてその調子を確認しながら、離れた所に立つレプトを睨む。月の薄い光を瞳にたたえる彼を目に、レプトは手に持った剣の刃を抜き放ち、鞘を投げ捨てた。
「……今度は寝込みを襲うつもりで来たのかよ。前と同じで、小汚ぇ奴だな」
「おしゃべりしている暇はない」
フェイはレプトの挑発を跳ね除けると、すぐにその右腕を振り上げた。同時に、彼の腕を覆う服の袖から、暗闇を切り裂くような銀に輝く鎖が放たれる。レプトは一瞬にして目前にまで来たそれをすんでのところで剣の腹に当て、身を守る。
「チッ……人の話を聞かねえ奴だな」
レプトは言いながら剣を構えなおし、背後を見た。そこにあるのは、屋上からの落下を防ぐための手すり。その奥は言うまでもなく虚空の闇が広がっている。
(逃げることも出来ねえ。助けを呼ぼうにも、下まで声は届かねえし……なら)
レプトは剣の柄を握り直すと、両膝を深く折り曲げ、地面を蹴る。その力は、真っ直ぐフェイの方へと彼の身体を弾き飛ばした。
(やるしかねえ!)
レプトは接近と同時に大上段に構えた剣をフェイの頭上へと一息に振り下ろす。だが、それは重く空気を斬る音と同時に床に激突した。手に返る痺れを感じたその直後、レプトの耳に鉄と鉄の擦れる高い音が入ってくる。
「くっ……」
反射的にレプトが音のした方へと目を向けると、初撃を躱したフェイがレプトに先端に刃のついた鎖を飛ばしていた。だが、その反撃は浅い。剣による攻撃を後退で躱しながら放ったためか、レプトはその鋭さに欠ける攻撃を体を捻って避ける。刃は屋上のコンクリートに鈍い音を立てながら傷を入れた。
「む……」
攻撃が外れたのを知ると、フェイは自分の鎖を能力で回収しながら、レプトを見据える。彼の能力によって宙を舞う鎖は、濡れた蜘蛛の糸のように銀と白の線を暗闇に描いた。
「多少は戦い慣れてきたのか」
自分の攻撃を避けたレプトのことをフェイはそう評し、再び構えた。彼の言葉にレプトは鼻を鳴らすだけで応じ、同様に向かい合う。
(深く踏み込んで攻撃すりゃ、でかい反撃をしてこねえ。同じように続けて、隙を探っていけばいつか攻撃できる!)
仕切り直しとばかりに、レプトは再びフェイに姿勢を低くして踏み込む。一気に距離を詰めると、彼はフェイの横腹めがけて横なぎに剣を振るった。すると、直前のやり取りと同じように、フェイは後ろに大きく引きながら遠距離から鎖を放ってくる。
(ここだ)
「ぅらあッ!」
レプトは向かってくる鎖の刃を最小限の身体の捻りで回避し、再び地面を蹴って追撃を仕掛けにいく。彼は視界の端を通過していく銀の線を余所に、移動の勢いと体重を乗せた前蹴りをフェイの胴に向けて放つ。レプトの足に、確かに肉を打った感触が返ってくる。
だが、それは脆い部分には刺さっていなかった。フェイは自分の鎖を避けられたことを知覚した瞬間、レプトの追撃を察したのだろう。彼の蹴りを両腕で上に衝撃を逃がすように受けたのだ。レプトの攻撃を避け切ったフェイは、手の開閉を繰り返して腕の調子に異常が無いのを確認すると、再び無言で構えなおす。
「チッ……ミスったか」
思惑の失敗を知ると、レプトは舌打ちをしながら気合を入れ直した。剣をしかと握り、足の指にまで力を巡らせ、彼はフェイに真っ向から向かい合った。
「なら、何度だってやってやるよッ!」
剣を両手で構えるレプトと銀の鎖を体の周囲に這わせるフェイは、余所を見ることなく、再び対峙する。




