ほんの偶然
レプト達がスラム街の老人の頼みを終え、そこを発った翌日の昼。フロウは未だ、自分の故郷であるその場所に残っていた。
快晴の空の中央から降る日差しに、建ち並ぶ荒れた建物が照らされている。建物の至る所にある穴や欠けた部分が陽に晒されることで、影と日の当たる部分がハッキリと分かれているのが見える。往来も同じように、日の当たる中央とそこから伸びる暗い路地裏では日差しの入り方が大きく違う。そのためか、雰囲気も大きく異なっていた。もっとも、他人がいつ自分の財布をスリに来るかも分からないようなスラム街だ。通りの中央でも気を抜けるわけではない。
(割のいい仕事、見つかるかな~)
そんな街の中をフロウは気を楽に軽やかな歩調で歩いていた。この街で生まれ育った彼女にとって、周囲の人々が互いに警戒を向け合っている空気など慣れたものなのだろう。
そんなフロウは、自らも歩いている往来の先にあるものに目を向けた。
(あれは……)
彼女の視界の中には、貧相な恰好をした背の低い少年が通りを彼女側に走っているのがあった。余裕のない、渇いた欲を持つ瞳をしている。加えて何故か、その少年の行く先は通りを歩く一人の男に向かっているようだった。このまま行けば、少年は男にぶつかるだろう。
(スリね)
フロウは少年の様子と、その動きを見て察する。ぶつかりざまに財布を盗るつもりなのだろう。
看破した通り、少年は自分と真反対の方向へ歩く黒い外套を着た男にぶつかり、少しまごついた後、フロウのいる方に走ってくる。彼の右手には男のものと思しき茶の財布が握られていた。周囲を歩く人間達は、見慣れたことなのか、わざわざ干渉しようとはしない。少年はそれをいいことに、人を大きく避けることはなく通りを走った。
そんな彼が、フロウの横を無警戒に通り過ぎる時だった。フロウは右手で素早く少年の腕を掴む。
「ぐっ……」
予想外の他人の制止に、少年は声を上げて足を止める。だが、次の瞬間には冷静さを取り戻した。財布を手放して地面に落とし、フロウの腕を振り払ったのだ。そして再び走り出し、フロウ、そして自分が財布を奪った相手から逃げる。
(目先の利益をとるより捕まるリスクを避けたのは褒めてあげるけど……すった後に速度落とすのはないでしょ。へたっぴね~)
フロウは離れていく少年の背を呆れた目線で見送った後、地面に落ちた財布を手に取ろうと屈む。
(さて、じゃあ中身パクって返そうかしら……)
財布を手に取ると、フロウは器用にその口を開き、手際よく中身を抜こうと指を伸ばす。
だが、その直前だった。
「すまない、迷惑をかけたな」
俯いて財布の中身を覗こうとするフロウの頭に声がかけられる。男の声だ。財布の持ち主だろう。彼はフロウが自分のことを助けたのだと勘違いしているようだ。
(結構離れてたのに……足が速いのね)
素顔を見せぬよう、顔を俯けたままフロウは財布の口を閉じる。こんなに近くにいては中身を抜き取ることは出来ないという判断だ。
「中身を抜かれていないかの確認まで……助かる」
フロウの意図を大きく勘違いしているらしい男は、普通は疑いを持つだろう財布の中身を開くという行為ですら善意であると勘違いを重ねる。対するフロウは、男の思い違いに間抜けだなと感じながら、顔を上げて財布を返そうとした。
「別にいいわよ。ただ、ありがとうって言うなら中身をいくらかもらっても……」
盗むのは諦め、礼として金を得ようとする手段にフロウは思考を移す。彼女は少しでも印象を良くしようと、顔を上げて男の様子をうかがう。
フロウが見上げた男の顔は、切れ長の目と灰色がかった髪が特徴的な若さの残る男のものであった。年は二十半ばほどに見える。フロウがその男の顔を見た時、彼女の眼は自然と彼の瞳に向けられた。それが何故だか、彼女の中でも明確に答えは出ない。ただ、気になったという他はないだろう。男の灰色の瞳は明確な意思の光を灯しながら、濁っているようにも感じる奇妙なコントラストをしていた。
それを、その男の瞳を目にしたフロウは、自分の胸の内で何かが動き出すのを感じる。
「い、い……」
今まで毛ほども刺激されたことのなかった感情がフロウの中で動く。その感情は、彼女の体に複数の異常を発生させた。心臓が早鐘を打つ。唇が震える。全身が熱くなる。加えて、彼女は自分の目が眼前の男以外を見ることができないようにも感じた。往来を前へ後ろへと流れていく通行人など、自然と視界から失せていく。蒼く晴れ渡った空など、真白の背景程度にしか感じないほどだ。これらの異様な感覚にフロウは大きく動揺する。口が自由に動かず、彼女は言葉の続きを話せずにいた。
だが何より、彼女はこの感覚を厭ってはいなかった。
「どうしたんだ?」
言葉を途中で切り、続きを話せずにいたフロウに男は違和感を覚えたのだろう。眉を寄せて問いかける。その言葉を受け、ようやく冷静さを取り戻したフロウは取り繕うように首を振って手に持っていた財布を男に渡す。
「い、いや……何でもないわ。盗られてたから……これ」
「ありがとう」
男はフロウに礼を言い、目尻をほんの少しだけ緩ませた。笑っているつもり、なのだろう。だが口元に大きな変化はない。数ミリだけ口角が上がった程度だ。ただ、それでも何かを喜ばしく思っているのは間違いない。彼が灯したのはまるで、絶対に助からないと分かっていながら自分を助けようとする存在がいると知った時のような、儚く薄い笑みだった。
それを見たフロウは、自分の胸の内で何かが弾け散るのを感じた。花火の煌めき、色鮮やかな果汁の飛沫、蒼穹にかかる虹に似たその感覚を得た彼女は、自分の感情の答えを明確に理解した。
自分は、この男に恋をしている。
「あ、あのっ……!」
体の内側から際限なく溢れてくる熱い感情に任せ、フロウは男に声をかける。恋した相手が目の前にいるという状況に、フロウは今までに出したことのないような高い声を上げ、顔を赤らめる。その露骨なまでの変化に男も動揺を覚え、一歩引きながら問う。
「なんだ?」
「なっ……な、名前を教えてくれないかしら。私はフロウっていうの。ああっ、あなたは?」
何をするにも自己紹介からだと考えたのだろうか。フロウは自分の名を口にし、そして男の名前を聞いた。突然自分の名前を問われた男は疑念の表情でフロウを見る。しかし、財布を取り戻してもらった手前、何も言わずに断るのは良くないと感じたのか、名前は言えないとフロウに伝える。
「俺は……すまない。名前は明かせない」
「……え、どうして?」
「俺を追う人間がいる。そいつらが俺の今の名前を知っているかどうかは分からないが、足がかりは残したくない。それに、俺は多くの人間から恨まれている。危険を減らすために、名は明かせない」
男は自分が追われている存在であるため、手掛かりを残したくないと言う。そう話す彼は、明らかに何か、目の前にあるものではない何かを憎む鋭い目線を地面に向けていた。
男の説明を受けると、フロウは恋の熱に浮かされた思考を凄まじい速度で巡らせ、自分なりに回答を見つけ出す。そして、弾んだ声で熱烈に話し始めた。
「だったら、そのアンタを追ってるって奴、私が全員倒すわ。アンタについていってね」
「……なんだと?」
「安心して。私はここらでも名の知れた傭兵だから。力もあるし、金もある。大抵のことは解決できるわよ。だから……」
これまで蓄えてきた力、財はこの時のためにあったのだと、フロウはひしひしと感じながら言う。恋をした相手の問題を解決できることも、彼女にはひどく嬉しかったのだろう。そして、それを口実に彼と共にいることができる口実をつくれそうなのも。
だが、
「駄目だ」
男は彼女のその言葉を遮った。自分の意図とは裏腹に提案を断られたフロウは、自分の想い人の助けになれるという嬉しさから一転、突き放されるのではないかという大きな不安に晒される。彼女は、初めての感情に大きく振り回されていた。
「ど、どうして?」
「自分の蒔いた種から危険が生まれているからだ。フロウ、だったな。お前の手を借りてその問題が解決するかどうかはさておき、自分のせいで他人を危険に晒すことはできない」
「でも……私は強いわよ。大丈夫、今までずっと貯めてきた金もあるんだから、何だって解決……」
「そういう問題じゃない」
身を震わせるような不安から、同じことを繰り返すフロウに対して男は冷静に告げる。
「財布のことはありがとう。だが、自分の問題は自分で解決する。では」
男はフロウに小さく一礼し、財布を懐に戻した後で彼女の横を通り過ぎる。その背に何か声をかけようとしたフロウだったが、言葉が思い浮かばず、見過ごしてしまった。
「そんな……」
(……どう、すれば)
フロウはその場に膝から崩れ落ち、掴みかけた恋を、幸せを取りこぼしたことに大きいショックを受ける。職業の関係上、彼女は命の危険に何度も晒されたことがある。昨日のアデドの件など比べ物にならないほどの危険も前にしたことがある彼女だが、彼女にとってこの数十秒はそのあらゆる経験よりも大きな傷を残した。想い人に突き放されるという大きな衝撃を受け、麻痺した感情でぼんやりと彼女は思考を巡らせた。
(こ、このままじゃ行っちゃう。私の、大切な人。名前も知らないのに……このままじゃ、二度と……嫌、そんなのは絶対に嫌!)
名前も知らないまま別れれば、このすれ違っただけの縁を再び繋ぎ止めることなどほぼ不可能だろう。フロウはこの縁をここで意地でも繋ぐと心に決めた。両腕で無理矢理にでも掴み、縫合すると。
(彼の意志を、少し踏みにじったとしても、それでいい。後々……)
決心した彼女は、素早く立ち上がって背後を振り返る。通りを見てみれば、男は数十メートル離れた十字路を曲がる所に差し掛かっていた。どうやら彼女は長く放心状態にあったらしい。
状況を把握したフロウは、今までどんな仕事でもほぼ出すことのなかった全力を出し、往来を駆け、腹からの声を張った。
「待って!!」
フロウは二秒とかからず男のすぐ背後まで接近する。その間に男の方も先ほどまで話していた女性が再び声をかけてきたのだと気付き、振り返っていた。表情には、多少の面倒臭いというような感情がある。周囲の人間達も、フロウの大声に気を引かれて二人に視線を向けていた。
「……なんだ」
人目が集まっている状況、そして何よりそれをつくり出したフロウを若干疎むように男は見つめた。その目つきに、フロウは体をナイフで刺される以上の心の痛みを感じながらも、改めて彼に向き直る。
そして、彼女は往来に恥じることなく宣言するのだった。
「一目惚れしたわ、結婚しましょう」




