アゲハの行方
薄く残る自我が、意志の範疇から外れた意志が、思い通りに動かない体に遠くから声を張り上げる。「探せ」と。
(……何、を?)
少年は惑いながらも、その声に応じて足を動かした。どこへ向かうともなく、ただ、何かを探さなければならないという義務感に背を押されていた。手掛かりもなければ探す目的物が何かも知らなかったが、少年はその感覚に従う。
その何かがこの近くにあると、少年は思っていた。それは周りの街並みや風景、空気感に懐かしいものを感じていたからだ。荒れた建物群、薄暗い路地裏、往来を阻むように通りにいくつも立ち並ぶ露店。日差しのある時刻に人の通りが一切ないのは違和感だったが、彼はこの風景に手掛かりとまではいかないものの、薄い郷愁のようなものを覚えていた。
あてどない道を、探し物を見つけなければならないという義務感に押されて少年は歩いていく。
そんな時だった。少年の歩く通りに、耳の奥に平手をするかのような暴力的で乾いた破裂音が一瞬響く。同時に、少年の左足に焼けるような激痛が走った。苦痛に声を上げる間もなく、左足に入っていた力が煙のように消え、少年は歩いていた方向に投げ出されるように転ぶ。
(……銃撃、敵だ)
破裂音の正体は銃であると、少年は経験から看破した。痛みが後ろから来たために、少年は咄嗟に背後へ振り向いて自分を攻撃した存在を視認しようとする。
後ろには、銃を構えた女が一人。間違いなく、彼女が少年の足を射撃したのだろう。それを理解すると、少年は咄嗟に自分の力を利用して外敵を排除しようとする。その場に膝をついて態勢を整え、女に右の手の平を向けたのだ。一瞬、その手の周りの空間に煩雑に散った青い線が走る。
だが、少年の力が発揮されることはなかった。彼が右手から発そうとした力が放たれるより前に、彼の両目が棒のようなもので打たれたのだ。痛みと、赤と白の入り混じった眩しい視界に少年は思わず目を閉じる。
次の瞬間、彼の首筋に小さな痛みが走る。銃撃や、目を打たれたものとは比較にならない軽い痛みだったが、彼はそれをハッキリと感じる。それは、極小の点の形で現れたその痛みに痛覚以上のものを感じたからだ。
(……晴れて、いく)
痛みなどどうでもよくなる感覚が、そこにあった。点の痛みによって開けられた穴から、何かが流れ込んでくる。その何かが、彼の正気と記憶を取り戻させたのだ。
一気に明瞭になっていく白い記憶の中に、彼は一人の少女の背を見た。
(助け、なきゃ……俺の、大切な人……)
自分が無意識の内に探そうとしていた人、そして今、その人がどのような状況にあるかを少年は知っていた。記憶を取り戻してそれを理解すると、彼はすぐにその人を助けたいと切望した。両目を開くことが出来ず、片足が動かなくとも、そうしたいという願いが、彼の頭の中では先に来ていた。
しかし、晴れていく記憶の景色に対し、彼の意識は一つ息を吐く間もなく霧散していく。彼の胸を焦がすような望みは、誰に届くこともなくスラムの空に消えていくのだった。
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「呆気なかったわね」
(……いや、違う)
自分が参加する間もなく、リュウとフロウがアデドの少年を鎮静化させたのを後ろから見ていたカスミは呟く。彼女の目線はスラムの往来に倒れるアデドの少年に向けられていた。そうしていた時、深く考えることもなく発した自分の先の言葉が誤りであると、その後の思考ですぐに彼女は気付く。自然と、彼女の視線はリュウとフロウへと向けられた。
リュウは使用後の注射器を懐へ、フロウは外套の中の懐に銃を仕舞っている。そんな二人の背を、眉を寄せてカスミは凝視した。
(完璧だった。人や魔物を相手に戦うようになったのは最近だけど、それでも分かる。この二人の息の合い方は……尋常じゃない)
戦闘の経験が幾分もないカスミには、リュウとフロウがアデドを鎮静化させるまでの連携は完璧に見えていた。
フロウが少年の足を撃ち、彼が振り返って反撃をする瞬間、リュウが視界を奪う攻撃を繰り出す。そして注射を打ち込んだ。一瞬のやり取りだったが、その一つ一つの動作には一縷の隙間さえ見止められなかった。少なくとも、後ろから一部始終を見ていたカスミはそう感じた。
(……皮肉ね。あんなに合わなそうなのに)
リュウとフロウの間に起きた先の出来事を思い出し、カスミはそう思う。人の命を奪うことに何も思わないフロウと、それを厭うリュウ。全く異なる性質を持つ二人が、完璧にも思える連携をしてみせたのだから、カスミがそう感じるのも無理はない。
アデドを鎮静化させるという目的を果たしたフロウは、短く息を吐いてリュウとカスミの方を振り返る。
「じゃ、これまでね。私はもう帰るから」
「え?」
フロウの急な一言に、カスミは思わず気の抜けた声を上げた。何も分からないという表情をする彼女に、隣に立つリュウが地面に横たわるアデドの少年を示して説明する。
「フロウの目的は彼を助けることじゃない。この街から危険を除くことだ。だからもう、ここにいる意味がないんだろう」
「ああ……え、じゃあアゲハの情報は?」
リュウの説明を受け、一時は納得しかけるも、引っかかる点をすぐに思いついてカスミは声を上げる。フロウの仕事に手を貸した意味でもある、アゲハについての情報をまだもらっていない。
「今から話すわよ。別にあいつに直接話す必要もないし」
カスミの疑問に対し、フロウはこれから報酬を渡すと言う。そして、淡々と順序だてて説明を始めた。
「まずは……あいつらがあのアゲハって子を攫おうとした理由ね。どうも、あいつらが直接の目的を持っていたわけじゃないみたいね」
「……どういうこと?」
「あいつらも別の誰かから依頼されてたみたい」
「……つまり、何者かがカポネファミリーに。そして、カポネファミリーはお前に。依頼を繋げていったわけか」
足を負傷し、倒れたままのアデドの少年を背に抱えながらリュウはフロウの言葉をまとめる。
「その通りよ。そして、カポネファミリーは実力的に不足してた。だから偶然近くにいた私に依頼を投げたみたいね。ただ……どうもファミリーに依頼した奴はそうじゃなかったらしいわ」
「……ってことは、人を攫う技術や力はあるのに、他人に仕事を任せたってこと?」
「恐らくそうね。その時にはアンタ達が関わってくると分かってなかったから断言はできないけど……」
フロウは記憶の底を探るように眉を寄せ、続ける。
「アンタ達が一番知りたいだろう内容、アゲハを攫おうとした奴だけど……。あのチンケな連中は、依頼者のことをこの辺じゃ見ない格好って言ってたわ。それと、荒事に慣れてそうだとも。……あと、一番の特徴だけど」
フロウは右手で金を示すサインをして見せた。
「相当金払いがよかったらしいわ。依頼を回してきた私にカポネファミリーが大金を渡してきたことを見るに、一度目の依頼はもっと大きい金が動いてたと見るのが自然ね」
「大金を持っていて、実力がある。あの街の人間じゃない。アゲハって子についてや、彼女を攫おうとした理由こそ分からないけど、色々分かったね」
リュウはフロウの話した情報をまとめ、アゲハと直接顔を合わせたことのあるカスミに目を向ける。カスミの方も、リュウを見上げて頷いた。
そんな二人に、フロウは情報以外のことを二人に告げる。
「……あの件、一切関わらない方が良いと私は思うけど」
「ん?」
警告だ。疑念に思考を巡らせる二人に対し、フロウはその意を説明する。
「分からないの? あのアゲハって子について分からないって今アンタは言ったけど、今の情報だけで明確に、ハッキリ言えることがあるわ」
「どういう意味だ」
「ヤバイってことよ。大金って言葉が想像の邪魔をしてたかもしれないけど……私に渡ってきた時点で、二千万ルゴドーあったわ」
「なっ! う、嘘でしょ……?」
フロウから依頼料の具体的な数字を聞き、カスミは目を見開いて驚く。対して、隣のリュウは具体的な想像がつかないのか、首を傾げて彼女に問う。
「どのくらい、なのかな? 田舎暮らしでよく分からないんだけど」
「……私もそこまで詳しいわけじゃないけど、少なくともメリー達が車の維持とか食べ物の話してる時には聞いたことのないくらいの量だわ。そんなのポンって渡せるお金じゃない。それに……アンタに渡ってきた段階で、って言ったわよね」
カスミが恐る恐る投げた問いに、フロウは頷いて答える。
「あのチンケな奴らに払われた金額はもっと大きかったと見て間違いない。少なく見積もって五千万、多くて……一億を超すってとこかしら。これが意味することは、流石に分かるでしょ?」
対岸のことであるからか、フロウは笑みを浮かべて重要な点をまとめる。
「相当な大物に狙われてたのよ、あのアゲハって子は。都でも有力な組織か、あるいは略奪した大量の黒い金を持つ大悪党か。どちらにせよ、さっきアゲハを助けたって言ってた鵺って奴、ただじゃ済まないわね。あのファミリーを皆殺しに出来る力は持ってるんでしょうけど、もっと大きな力に圧し潰されるか、どこかで野垂れ死ぬか……ともかく、私は巻き込まれない立ち位置で本当によかったわ」
フロウは、アゲハを保護しているという鵺について想像しながら話を終えた。彼女の情報が確かなら、アゲハは大金を持つ大物に狙われていたようだ。どのような相手かは分からないにせよ、一人の少女を暴力を厭わずに攫おうとする者達だ。まともである確率の方が低いだろう。
「以上。私からの報酬と警告。この件をどうするかはアンタ達次第よ。さて……どうせあっちも失敗はしてないでしょうし、さっき言った通り私は帰るから」
「それじゃまた」と最後に言い残し、フロウは人気のない通りを歩いてカスミとリュウから離れていく。二人は彼女を長く見送ることはなく、すぐに現時点で分かったことについて、そしてこの情報に対してどうするかを話し合う。
「これ、どうするべきなのかしら。今の所、アゲハが危険かも分からない状況だし……」
「鵺って人がどんな人かも分からない。レプト達に情報を共有しても、僕達から何かできることは……当面の所、ないんじゃないかな」
リュウは自分達では今の所、アゲハに対して何かしてやれることはないのではと言う。フロウの話は結局、アゲハの周囲の環境についてであり、彼女自身の所在や性質に触れるものではなかった。
「ともかく、今はそれを話し合っててもしょうがない。車に戻ろう。メリー達を待って、戻ってきたらこの子を治療してもらう」
リュウは話を切り上げ、自分が背負うアデドの少年を示す。暴走状態を解き、鎮静化させるためとはいえ、足を銃で撃ち抜いた。それに、その他にも怪我はあるかもしれないのだ。リュウは彼の身体をかばうように慎重に歩き始める。彼のその言葉にカスミも同意し、頷いて返した。
「そうね。レフィのことも分かるかもしれないし、戻りましょ」




