8. 二人の幸福
『カサンドラ殿下から話を聞いた。体調が良ければ、一度話をさせてもらえないだろうか』
シリウスからそんな手紙を受け取ったのは、カサンドラ王女と話をした3日後だった。
王女と話をしたのなら、ロザリーにしたい話とはつまり、婚約破棄したいという話だろう。
婚約したときあんなに喜んでくれた父を思い出すと少し憂鬱だけど仕方ない。
あるべきものが、あるべきところに戻っただけなのだ。
ロザリーはまた結婚相手を探さなければいけないけれど、あの麗しのグランフォード侯爵が一度は婚約した令嬢ということで、奇跡的に縁談がまとまったりしないだろうか。
そんな打算的なことを考えて、乾いた笑いが浮かぶ。
…心の底では苦しいほど、シリウス様を恋しく思っているのに。
最後はせめて笑顔で終わりたいけれど、彼を前にして平気な顔ができるか、ロザリーは今から不安だった。
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「生誕祭の日は、本当にすまなかった」
応接室に入るなり、そう言ってシリウスは勢いよく頭を下げた。
「お、おやめください。シリウス様に謝っていただくようなことは何も」
「カサンドラの気持ちを甘く見ていた僕の責任だ。あの場は人の目もあるし大丈夫だろうと…放っておいた僕が悪い。そのせいでロザリーに嫌な言葉を聞かせてしまった…本当にすまない」
「大丈夫です、その……たしかに当日は少し落ち込みましたけど、カサンドラ王女は何も間違ったことは仰っておりませんもの」
ロザリーの言葉に、シリウスが顔を上げる。
納得いかないと言わんばかりの表情のシリウスに、ロザリーは努めて笑顔を作った。
「あんなに素晴らしい王女殿下が長年お慕いしてきた方を、私のような者が奪うだなんて。やっぱりおかしいです」
「ロザリー、それは」
「カサンドラ王女と、お話しになったのでしょう?」
早くギロチンを落としてほしい。
シリウスの顔を見て、声を聞いて、この決心が揺らぐ前に。
決定的な言葉を早く聞いて終わりにしてしまいたいのに、足が震えそうなほどその言葉が怖い。
震えそうな声と瞼を必死に強張らせて、ロザリーはじっとシリウスを見つめた。
静かにシリウスの言葉を待つロザリーに、シリウスは躊躇いながらも口を開いた。
「…僕のためなら、猫を好きになると言ってくれたよ。だから自分と結婚してほしいと」
ー…ああ、やっぱり。
わかっていたことなのに。自分がそうなるように仕向けたことなのに。
まるで心臓を貫かれたかのように、息が熱い。
「…そうですか。よかった…ですね。王女殿下となら、とてもお似合いです。お家にとっても誉でしょうし、シリウス様もー…」
「でも断ったよ」
「…………は?」
溢れそうな涙を必死に堪えて言葉を並べていたロザリーは、ぽかんとした表情でシリウスを見た。
「僕の相手はロザリーでなければだめだと、断ったんだ」
「なっ…何を…!殿下は猫と暮らすことも、お許しくださったのでしょう!?」
「そうだよ」
「ならどうして…!」
「僕が愛しているのはロザリーだから」
この美しい人は、一体何を言っているのだろう。
自分に都合のいい夢でも見ているのかと、ロザリーは目を白黒させた。
そんなロザリーの様子を見てふっと微笑むと、シリウスはゆっくりとソファから立ち上がり、向かいに座っていた彼女の足元に片膝を突いた。
ドレスの上でぎゅっと握られたままのロザリーの手を、優しくとる。
「ロザリー」
そのまま促されるように手を広げられ、温かい大きな手に包まれた。
銀色の長い睫毛に縁取られた美しい金色の瞳が、柔らかい光を灯してロザリーを見上げている。
「確かに最初は、猫を受け入れてくれるから君と結婚しようと思った。…でも今は、それだけじゃない。君といると僕はとても自然に笑顔になれるし、穏やかで、幸せな気持ちになれるんだ。これからもずっと、君と一緒にいたい。誰かにこんな気持ちを抱いたのは、初めてなんだ」
夢でも見ているようなのに、手を包む温かい体温が、これが現実だと教えてくれる。
堪えきれずにぽろりと、ロザリーの頬から涙がこぼれ落ちた。
その涙をそっと指先で拭うと、そのままシリウスはその柔らかい頬に手を添えた。
「愛してるんだ、ロザリー。必ず君を幸せにすると、二度と傷つけたりしないと誓うから、僕と結婚してほしい」
決壊したロザリーの涙腺から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
「…っ…わ、わたし、じゃ…シリウス様にはっ…ふさわしくなっ…」
「僕はロザリーといる時が一番幸せなんだ。誰が僕にふさわしいかは僕が決めるよ」
シリウスはそっとロザリーの隣に座ると、泣きじゃくる彼女の頭を自分の胸に寄せ、優しく頭を撫でた。
穏やかな表情を浮かべている彼は、きっとロザリーの気持ちも全てわかっているのだろう。
あやすように撫でるその手の温かさが、涙をさらに止まらなくさせた。
「ねぇ、ロザリーは?…君は僕といて、幸せになれる?」
「そんなの…っ…当たり前です!」
「ふふ、よかった。ロザリーが幸せなら、僕はもっと幸せだよ」
シリウスにつられるようにして、ロザリーも小さく微笑んだ。
彼女の笑顔を幸せそうに見つめると、頬を濡らす涙にそっと口付けを落とす。
まるで涙の跡を消し去るかのように、顔中にキスの雨を降らせたシリウスに、ロザリーは顔を真っ赤に染めた。
「そういえば、まだ返事をちゃんと聞いていなかったな」
「…え?」
美しい金色の瞳が目の前で煌めいて、視線を逸らすことすら許されない。
鼻先がふれあいそうな距離まで顔を近づけると、シリウスは問いかけた。
「僕と結婚してくれる?」
「……はい」
恍惚とした顔で頷いたロザリーを満足気に見つめた後、シリウスは息つく暇もないようなキスの嵐を降らせた。「愛してる」という言葉を譫言のように呟きながら。
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「ああ、なんてかわいいんだ、僕の子猫ちゃん。さあ、恥ずかしがらずに膝の上においで」
「だっ…だめです!人前ではやめてくださいってあんなに…!」
「ふふ、頬を染めた顔もかわいいね。ほら、早く抱きしめさせて」
「だからだめですって…!もう!シリウス様!」
「一体何を見せられてるんだ俺は」
あれから無事に結婚式も終わり、ロザリーとシリウスは晴れて正式な夫婦となった。
今日は結婚式に参列してくれたお礼もかねて、王宮のルシード王子に夫婦揃って挨拶にきたところ、なのだけど。
「………まさかあのシリウスがこんなに豹変するとは思わなかった」
「仕方ないだろう。ロザリーが可愛すぎるのがいけないんだ」
「なっ…やめてください!殿下の前で恥ずかしい…!」
ルシード殿下の部屋だというのに、ロザリーは結局膝の上に抱えられ、真っ赤になった顔でシリウスの口を必死に抑えようとする。
思いを伝え合い、本当の意味で婚約者になってからというもの、シリウスの溺愛ぶりには拍車がかかるばかりだった。
まるでロゼやシルを可愛がるのと同じように、いやそれ以上の勢いで、ロザリーをどろどろに甘やかすのだ。
夫婦として公の場に出ることも増え、「あのグランフォード侯爵が新妻を溺愛しているらしい」という噂で社交界は持ちきりである。
「まあ、お前が幸せそうで何よりだよ」
「……ああ、とても幸せだよ」
そう言って、シリウスは花が咲き誇るような美しい笑顔でロザリーを見つめる。
美貌の侯爵様の溺れるような愛情に包まれて、ロザリーはこれ以上ないほどの幸せを噛み締めていた。
これにて完結です。最後までお読みいただきありがとうございました!
溺愛部分があまり書けなかったので、番外編で後日談を書きたいなと思っております。