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6. 貧乏男爵令嬢の決意


王女殿下のパーティー当日、ロザリーは夢の中にいるような気持ちだった。

なぜ自分がこんなに美しい人に腰を抱かれて踊っているのか、今でも信じられない。


いつも微笑しか浮かべない憧れの侯爵様が、ロザリーに微笑みかけ、時に笑い声を上げ、愛情が灯った温かい視線を向けてくれるのだ。

周囲がいかにざわめこうとも、嫉妬や疑惑の視線を投げかけられようとも、それでもいいと思えるくらいには浮かれていた。


ー…パーティーの中盤になり、カサンドラ王女に挨拶をする番が巡ってくるまでは。




辺境の男爵令嬢にすぎないロザリーにとって、王家に挨拶をすること自体が初めての経験だった。

貴族といえど、本来なら遠くから顔をちらりと見ることさえ、一生に一度あるかないかの身分差だ。

そんな自分が御前でご挨拶を申し上げるなど、それだけでも膝から崩れ落ちそうなほど緊張しているのに。


シリウスから話を聞く限り、カサンドラ王女がシリウスを慕っていたことはほぼ間違いないだろう。

本日の主役である王女殿下から、純粋な寿ぎをいただけるとは到底思えない。


シリウスとのダンスで浮かれていた心がさーっと冷え切って、深い海の底に沈んでいくような心地がした。



「カサンドラ王女殿下、本日は心よりお祝い申し上げます」

「……ありがとうございますわ、シリウス様」


今年16歳になるカサンドラ王女は、間近でみると信じられないくらい美しい人だった。

煌めく金色の豊かな髪に、しかめ面ですら愛らしい宝石のような瞳。


挨拶にシリウスが王女の手をとり、そっとその美しい手の甲に口付ける。

金と銀、それぞれの髪を輝かせた王女とシリウスが並ぶその様は、まるで最初から対になるように造られた芸術品のよう。



……とてもお似合い、だわ。


嫉妬も、劣等感も置いて、ロザリーの心に素直に浮かんだ気持ちだった。

そして次の瞬間に襲ってきたのは、身体が震えるほどの羞恥だった。


猫を愛する秘密を共有したことで、シリウスのことを身近な存在として感じ始めていた。そんな自分が恥ずかしくなる。

私は一体、何を勘違いしていたんだろう。


地位も容姿も能力も、全てを兼ね備えた侯爵であるシリウスにふさわしいのは、カサンドラ王女のようなご令嬢だ。

何も特筆して優れたところのない自分のような者が、隣に並ぶだなんて恐れ多い。ましてや結婚だなんて。

こんな人に愛されたいだなんて。もしかしたら大切に思われているのかもだなんて。

…私は一体、何を考えていたんだろう。



自分がいかにシリウスに釣り合わないかを見せつけられたようで、お祝いの挨拶を述べる声もかすかに震えてしまう。

一瞬ぶつかった王女の視線には明らかな敵意と疑惑が滲んで見えて、逃れるように俯いてしまった。


「…あなた、自分がシリウス様に相応しいと思っていらして?」


美しい声に象られた鋭い言葉の槍に貫かれて、ただでさえ浅くなっていた呼吸が止まる。

シリウスが止めに入ろうとしてくれたものの、王女の言葉は揺るぎなかった。

目線をあげることも恐ろしく、乾いた瞳でじっと大理石の床を見つめる。


「物心ついてからずっと…ずっとシリウス様のことだけを想ってきたのです。この方が本当にシリウス様を幸せにしてくれる方なのか、確かめる権利くらい与えていただいてもいいでしょう?」

「カサンドラ……」


ロザリーを庇おうと間に入ってくれたシリウスが、零すように王女殿下をファーストネームで呼んだ。

きっと普段は「カサンドラ」とお呼びしているのだろう。二人の親密さを垣間見たようで、胸の奥がさらに重く沈んでいくような心地がした。


光り輝くように美しく誇り高い王女殿下が、幼いころからずっとお慕いされ続けてきた方。

多くの御令嬢が抱いているような淡い憧れなどではなく、きっと本気でシリウス様をお慕いされてこられたのだろう。


ーーーそんな方を、私が。


血の気が引いているからか、ぐにゃりと視界が歪んで、地面にそのまま吸い込まれてしまいそうだ。


「…ずっと俯いたままで、私と視線を合わせる勇気すらないのね。外見だって特別美しいというわけではないし、ダンスだって私の方がずっと上手だわ、そうやって黙ったままのところを見るに、頭が回るというわけでもなさそうね。あなたのような人がシリウス様に愛されているだなんて、とても信じられないわ」

「カサンドラ!」

「私は!!」


途切れた王女の言葉に、働かない思考のまま目線を上げれば、カサンドラの青く輝く瞳には、涙が滲んでいた。

高温で燃え盛る炎のような力強さを灯して、まっすぐにロザリーを見つめている。


「私は……!私以上にシリウス様を幸せにしてくださると、そう思える方でないのなら諦めたくありません。……ねぇ、ダントン嬢。シリウス様は、私に言い返す覚悟もないような半端な気持ちで、手にしていいような方ではないわ」


曇りのない、淀みないその言葉が羨ましいと思った。

この方は心からシリウスを愛していて、その恋情を理由に憤っていらっしゃるのだ。


”高貴な自分を差し置いて、お気に入りの侯爵を奪った”

そんな風に身分の低いロザリーを見下しての言葉であったなら良かったのに。

今日たくさんのご令嬢に向けられたような、そんな嫉妬や侮蔑の感情なら、少し落ち込みはしても受け止められた。


だって自分の方がシリウスのことを内側までよく知っていて、その上で好きなんだと、そういう自信と矜持を持てたから。

たとえ身分や外見やその他いろんなもので彼女たちに劣っているとしたって、その部分だけは、自分の方が勝っている。そんな風に思えば背筋を伸ばすことができた。


でも、カサンドラ王女は違う。

この方は、身分も美しさも聡明さも強さも…全て兼ね備えた上で、その上でシリウスのことを長い時間かけてお慕いされてきたのだ。


比べる必要もなく、ロザリーとカサンドラ王女のどちらがシリウスにふさわしいかなんて明白だ。






それからどうやって会場を出てきたのか、覚えていない。

ただ足元はずっと水面を歩いているかのようにふわふわしていたし、シリウスに何を話しかけられても上の空だったと思う。

きっとひどい顔色をしていたのだろう。心配した様子のシリウスが早めに退出しようと言ってロザリーを馬車に乗せてくれた。


馬車の中でも、ダントン家の前に着いてからも、シリウスはひどく心配した様子で色々と声をかけてくれていたけれど、大丈夫だと返事が出来たかさえも記憶が曖昧だ。


とにかく早く、会場から離れたかった。

シリウスの隣にいる自分がひどく不相応で、恥ずかしい存在に感じられて。

早くシリウスから離れて、一人になりたかった。


気がついたときには自分の部屋で蹲っていた。

ドレスも着替えないままだったので、ぽたぽたと涙がドレスに染み込んでいくのをどこか他人事のように見つめていた。




婚約を解消したいと言ったら、シリウスはなんと言うだろうか。


猫との生活を送るためには私が必要だと言っていたけれど、あんなにも激しくシリウスを思っているカサンドラ王女なら、そんな彼も受け入れてくれるのではないかと思う。

…ううん、カサンドラ王女でなくたって、シリウスと結婚できるなら猫と暮らすことくらい我慢できるという令嬢は掃いて捨てるほどいるだろう。


彼は自分がいかに魅力的なのか、よくわかっていないところがある。

どうせ顔で好かれているだけだと言って、自分に向けられた好意を軽んじてしまうところがある。

彼が望めば、もっと美しく身分の高いご令嬢とでも猫と暮らす結婚生活が送れることを、シリウスは分かっていないのだ。



…次に会った時に、伝えよう。


こんな釣り合わない私を選ぶ必要はないこと。

シリウス様にふさわしい、彼が愛する女性と、結婚してほしいこと。



ーーー…大丈夫。

一瞬でも、あんな素敵な人と一緒にいられたんだから。

それだけで平凡な自分にとっては、夢のような幸せだろう。


ふと部屋にある姿見に映った自分は、涙で化粧も落ちていて、ぐしゃぐしゃのひどい顔だった。

美しい瞳にきらめく涙を溜めていたカサンドラ王女を思い出して、泣き顔でさえ美しい人だったなと心の奥が痛む。


ー…ふわり、と。

鏡から目を逸らすように俯いたロザリーの頬を、肩から流れ落ちた髪が優しく撫でた。

視界に入り込む見慣れたはずのその赤毛が、彼の声を思い出させる。



『サンセットローズのような美しい色の毛並みだろう?…貴方の髪と同じだ』



ロゼと同じ色の髪。

シリウスが美しいと言ってくれた、ロザリーの髪。

何かと言うと触りたがって、嬉しそうに撫でてくれた髪。


野生味を感じさせる、この赤毛が嫌いだった。

輝く宝石のような金色や銀色であったならよかったのに。そう思ったことは何度もあったけど。

あんな風に、美しいと言われたのは初めてだった。



『僕はロザリーのことも、本当に可愛いと思っているよ』


『僕、君の照れて真っ赤になった顔が好きみたい』


『…僕がずっと側にいるから、ロザリーは何も心配しないで。いつもの君でいてほしい』



そのままのロザリーでいいと。

平凡で、特別優れたところもないロザリーを、シリウスはいつも慈しんでくれた。


たとえそれが、ロゼやシルに向ける”可愛い”や”好き”に近いものだとしても、

シリウスからこぼれ出る言葉のどれもが、ロザリーにとっては宝物だった。



…このまま何にも気がつかないふりをして、シリウスと結婚してしまいたい。

そもそもロザリーと結婚を望んでいるのはシリウスなのだし、きっと猫と暮らせるなら、彼はそれなりに幸せでいられるだろう。


本当の恋や愛を知らないまま結婚したってー……そこまで考えて、自分の浅ましさに嫌気が差してくる。


甘い考えを振り切るように、涙で濡れた頬を手の甲でぐいっとこすった。

涙が拭き取られクリアになった視界には、腫れて赤い目をした情けない顔の自分が映っている。


…シリウスには、誰より幸せでいてほしい。

それはロザリーにとって偽りのない本心だった。


猫との生活も、愛する人との生活も、

どちらも手にできる選択肢があることを、彼に知ってほしい。

そしてそのどちらも、手にしてほしい。


そのときロザリーが選ばれなくなってしまったとしても、それは仕方のないことだ。

また勝手に溢れてきそうな涙をむりやり押し込めると、ロザリーは机に向かって手紙を書き始めた。


彼を本当に幸せにしてくれる、

あの完璧なシリウスにふさわしい、完璧な令嬢に向けて。




******************


「あなたからお手紙をいただけるなんて思わなかったわ」


誕生祭での非礼を謝罪したい、と面会を申し出たのはロザリーだった。

でもこれほどすんなりと、お会いできるなどとは思っていなかった。かたやこの国の王女殿下と、しがない辺境の男爵令嬢である。

それなのに手紙を出したその2日後には、こうしてロザリーは王宮に呼び出されていた。


「…先日のお誕生祭では大変なご無礼をー…」

「そういうのはいいわ。ただ謝りにきたわけじゃないんでしょう?早く本題に入ったら」


不機嫌な顔でこちらを睨む王女は、眉を顰める様すら美しい。

こんなに愛らしい方ならば、多少のわがままも周りは許してくれるのだろう。

感情のまま、それを素直に表すことを許されてきたのだろうその振る舞いに、少しの羨ましさを覚えながらもロザリーは話を切り出した。


「……私は自分が、シリウス様にふさわしいとは思っておりません」

「なら別れてちょうだい」


間髪入れずに返されたその言葉に、苦笑が漏れる。


「…ですがある1点に限っては、現状シリウス様を幸せにできる唯一の人間であると、自負しております」


ぴくり、とその言葉に王女の指先が動いた。


「……それは?」

「…恐れながら…王女殿下は、心からシリウス様を愛しておられますか」


ロザリーの問いかけに一瞬目を見開いたカサンドラは、それでもすぐに瞳に強い熱を宿した。


「わかりきったことを尋ねるのね」

「その愛は、シリウス様のどんな面を知ろうとも、揺るがないものですか?」

「当たり前でしょう。私が一体何年、シリウス様をお慕いしてきたか。少なくともあなたよりも深く、あの方を愛していると誓えるわ」


苛立ったように吐き出されたカサンドラの言葉に反比例するように、ロザリーの心はしんと鎮まっていくようだった。

まるで自分の体に、自分でゆっくりと剣を沈みこませていくような感覚。


「……王女殿下は、猫はお好きですか」

「……………は?」


急に毛色の変わった質問に、カサンドラは一瞬固まった。


「猫は、お好きですか?」

「……好きなわけないでしょう。急になんなの」


怪訝な顔をしたカサンドラに、ロザリーは表情を変えずに続ける。


「ではもし……シリウス様が猫をお好きだとしたら。殿下は猫を好きになれますか」


少しの表情の変化も、嘘も、繕いも、見過ごす気はなかった。

こんなにまっすぐ、王女殿下の顔を見つめたのは初めてかもしれない。


「……シリウス様は…ね、猫がお好きなの…?」

「もしも、の話をしているんです」


はっきりとシリウスの秘密を口にするわけにはいかない。

とは言っても、決して鈍くはなさそうな王女殿下はきっと気づかれたことだろう。


でもそれでいい。

こんなにも深くシリウス様を愛しているというこの方なら。


「……好きになる努力をするわ」

「その努力を諦めず、必ず猫を好きになってくださいますか」


今までにない、力強いロザリーの声に、カサンドラは目を見張る。


「シリウス様が愛するものを、同じように大事にしてくださいますか。猫を愛するシリウス様の気持ちを、大切にしてくださいますか」


きっとそういう方とでなければ、シリウスは幸せになれない。

少しでもカサンドラに迷いが見えるなら。彼女の愛をロザリーが確信できないのなら。

その時はー…


「……シリウス様が愛するものも、その気持ちも含めて、彼の全てを生涯愛すると誓えるわ」


揺るぎなく、そう告げられたカサンドラの言葉は、最後まで捨て切れなかったロザリーの希望をぐさりと断ち切った。

それでも確かに、心に流れ込んできたのはかすかな安堵だった。


「……そうですか」


自分でも驚くほど自然に、ロザリーはふっと微笑んだ。

これでシリウスは、幸せになれる。

シリウスを愛する、彼にふさわしいお姫様と、幸せな生活を送れるはずだ。


「…先程、ある一点においては私が唯一シリウス様を幸せにできるとお伝えしましたけれど……あれは間違っていたようです」

「……あなた…」

「王女殿下こそ、シリウス様を最も幸せにできる方です」


カサンドラの青い瞳が、初めて曇りなくロザリーを映した。


「シリウス様は、どうにも殿下のお気持ちを測り損ねている節がございます。恐れながら是非一度、ゆっくりお話をされてみてはいかがしょうか」


悲しみも切なさも、確かに深く自分の心を突き刺している。

それでも憑き物が落ちたかのように、ロザリーの心は穏やかだった。



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