4. 貧乏男爵令嬢の恋慕
正式に婚約を結んだあの日から2週間、シリウスは忙しい合間を縫い2日に1度の頻度でダントン邸を訪れていた。
「僕が熱烈にロザリーに恋をしていると王家にわかってもらう必要があるからね」という理由らしい。
猫好きということを暴露した安心感からか、いつの間にかシリウスの一人称は私から僕に代わり、ロザリーのことも名前で呼ぶようになっていた。
シルバーの毛並みをしているからシル、という安易な名前をロザリーにつけられた子猫は、すくすくと元気に育ち、ダントン邸に訪れるシリウスをメロメロにしている。
抱き上げては頬ずりをして、ふにゃけた笑顔で可愛いを連呼するシリウスを見ていると、初めてダントン邸を訪れた時はだいぶ繕っていたんだなと思う。
2週間前までパーティーで遠くから見つめていた麗しい侯爵様とはあまりに違うその姿に、ロザリーはシリウスを可愛い人だなと思うようになっていた。
「来月のカサンドラ王女の誕生パーティーで僕たちの婚約をお披露目しよう」と言われたのは、いつも通り中庭にあるシルの待つ小屋にシリウスを案内している途中だった。
深く考えずに「はい」と返事をしたものの「実は王にカサンドラ王女のエスコートを打診されていた」と聞いてロザリーは青ざめた。
婚約した日に王から降嫁を勧められていたとは聞いたが、少し話が上がった程度のものだと思っていたのだ。
まさか王女自らシリウスを望み、そしてそれを叶える形で具体的に王が動いていたとは思わなかったのである。
もしかしなくても自分は王女から”シリウス様を奪った泥棒猫”だと思われているのでは……と、そこまで考えてロザリーの顔からさーっと血の気が引いていく。
真っ青になって言葉を失ったロザリーに気がついたシリウスは、彼女を安心させるように微笑んだ。
「心配しなくても大丈夫だよ。僕がロザリーに夢中で、渋る君を強引に口説き落としたということにしてある。それに陛下は元々、僕のところではなくジスール王国の王子へカサンドラを嫁がせたかったんだ。カサンドラが望むならと僕に話をしただけで、きっと内心はほっとしているよ」
ロザリーが心配しているのは王の命令に背いたのではということではなく、王女の愛する人を横から奪ってしまったという方なのだが…。
そもそもこんな素敵な人がロザリーのように平凡な男爵令嬢に夢中だなんて、いくらシリウス本人がそう言ったところで誰も信じないし、何か裏があるに違いないと思うだろう。
まだ何か不安?とでも言いたげな顔で首を傾げるシリウスを、ロザリーはじっとりとした目で見つめた。
…この人は確かに頭はいいのだろうけど、いまいち自分がどれほど令嬢たちを夢中にさせているのかを理解していない気がする。
人の気持ちに疎いというか、少し無頓着なところがあるのだ。
そもそも求婚のときだって、ロザリーの父の許可をもらうまでは驚くほど鮮やかで迅速だったものの、結果ロザリーの気持ちは置いてけぼりだったのだ。
「……シリウス様って、結構詰めが甘いですよね…」
思わずハァっと呆れてため息をこぼすと、シリウスはぱちくりとその美しい瞳を瞬かせた。
息を吐ききったところでふと冷静になったロザリーは、自分が失礼なことを言ってしまったことに気がついて、慌てて謝った。
「もっ…申し訳ありません!大変失礼なことを…!」
「………ふっ!…ははは!いいね。これからも僕のことは、そのくらいに思っていてくれ」
なぜだかシリウスは嬉しそうに笑いだした。
意味がわからず怪訝な顔をするロザリーを見ながら、それも面白いのかくすくすと笑い続ける。
パーティーなどで見かけたときは、いつも涼やかな微笑を浮かべているだけだったのに。
ここ数日一緒に時間を過ごすようになってすぐ、ロザリーはシリウスという人が意外と笑い上戸であることを知った。
「ああ、そうだ。シルのことだけど、そろそろグランフォード邸に連れてこないかい?」
「シルをですか…?」
「うん。結構大きくなってきたし、この小屋でずっと飼うわけにもいかないだろう?うちならロゼもいるし、広い部屋で自由にさせてあげられるしね」
怪我が治って一人前になるまで世話をしようくらいに思っていたのだが、シリウスと過ごす時間の中で、ロザリーもシルに愛着が湧いていた。
シリウスがそう言ってくれるならとロザリーはすぐに頷いた。
「明日からしばらく仕事が忙しくなりそうなんだ。…これからは出来ればロザリーがグランフォード邸に来てもらえないだろうか?シルも君に会いたいだろうし」
「私が…お伺いしてよろしいのですか?」
「うん。毎日でも来て欲しいくらいだよ」
さらりと笑顔で言われた言葉にロザリーはまた赤面してしまう。
この人は自分の笑顔と言葉の威力を、本当にわかっているのだろうか。
それからはロザリーがグランフォード邸に通うようになった。
「ロザリーがいるとシルがご飯をよく食べるから」とシリウスが言うので、結局用事がない日は毎日訪問してしまっている。
おかげでグランフォード邸の使用人とも、普通に会話をする仲になった。
猫を世話できるという条件付きだからか、平民出身の使用人が多く、皆とても気さくでいい人たちだ。
「近いうちにロザリーはこの屋敷の女主人になるのだから、そのつもりで好きに過ごしてほしい」と言われて赤面してしまったものの、お言葉に甘えて猫たちや使用人とのんびり過ごさせてもらっている。
シリウスは仕事の合間を縫っては、ロザリー…いや、ロゼとシルに会いにきていた。
ロザリーにもすっかり慣れたのか、最近は猫への愛情表現に遠慮がなくなっている。
抱き上げたロゼのふわふわのお腹に顔を埋めるシリウスはとても幸せそうで、その蕩けきった表情を見るとロザリーまでつい笑顔になってしまう。
「ああロゼ…なんて可愛いんだ…!」
「ふふっ…よしよし、いい子だね、ロゼ」
「本当にかわいいな…ロゼ、大好きだよ」
うっとりとした声でロゼに話しかけるシリウスに、ロザリーはゴクリと息を飲み込んだ。
顔に急激に熱が集まっていくのが自分でもわかる。
ロザリーの愛称は「ロゼ」で、家族や親しい人からはそう呼ばれていた。
慣れ親しんだ、もう一つの自分の名前である。
ただでさえ愛情に満ちたシリウスの声は、色気に溢れていて心臓に悪いというのに、声だけ聞くとまるで自分が可愛がられているような錯覚に陥ってしまい、ロザリーは居た堪れない気持ちになる。
赤面したロザリーが体を強張らせながら俯くと、シリウスが「どうしたの?」と問いかけた。
「い、いえ。なんでもありません」
「嘘。最近僕がロゼを可愛がるたびにそんな顔をしてるよ。…もしかして妬いてるの?」
「妬っ!?ちっ…違います!!」
「じゃあなんで?」
ロザリーは答えに詰まって、ぐっと言葉を飲み込んだ。
シリウスは穏やかな笑みを携えたまま、急かす様子もなくロザリーの言葉を待っている。
「……その、私の名前はロザリーなので…」
「うん」
「その、親しい人からは…ロゼと呼ばれる、こともあって…」
ロザリーの声は尻すぼみに小さくなっていき、そのまま途切れた。
一瞬きょとんとしたシリウスは、その意味を理解するとくすくすと笑い出した。
「もう!笑わないでください!」
「ははは、ごめん。ロザリーがあんまり可愛いこと言うから」
「かわっ…!?…そっ…そういうことを軽々しく言わないでください!シリウス様はご自分の言動の威力を全然わかっていらっしゃらないです!」
「はははっ…ふふ、そうみたいだね、ごめん」
ロザリーが顔を真っ赤にして怒っているのに、シリウスは楽しそうに笑ったままだ。
彼はロザリーに怒られたり小言を言われたりするのを、何故だか喜ぶ節がある。
自分ばかりがいつも振り回されていて、いっぱいいっぱいで。
それがなんだか悔しくて、ロザリーはふいっとシリウスから顔を背けた。
未だに頬の熱は引いていないから、顔は赤いままだろう。
ようやく笑いがおさまったのか、それでもまだ少しの弾みを声に含ませたまま、シリウスは穏やかな声で言った。
「僕はロザリーのことも、本当に可愛いと思っているよ」
「だっ…ですから、そういうのは…!」
「ちゃんとわかってるよ」
言葉を遮られたロザリーは息を呑んだ。
ーーあまりにも美しく、柔らかい微笑みを携えた金色の瞳がまっすぐに彼女を見つめていたから。
「…わかって口説いているつもりだよ。君は僕の婚約者だから」
紅に染まったロザリーの頬を、するりとシリウスの美しい指が撫でる。
言葉を失ったまま固まるロザリーに、ふふっと小さく笑い声を零すとシリウスは続けた。
「ちょうど僕も、同じこと思っていたんだよ」
「………え?」
「シルのこと。そういう風に誰かに呼ばれたことはないけど、僕の愛称みたいだなって。ロザリーがシルの名前を呼ぶたびに、少し擽ったい気持ちだったんだ」
少し照れたような、いたずらっ子のような、柔らかいシリウスの笑顔に、ロザリーは目の奥がツンとするほど何かが胸の奥からせり上がってくるのを感じた。
ーーーああ、こんなの、だめなのに。
シリウスが一番大事なのは猫で、自分は猫と暮らす上で都合がよかったから選ばれただけ。
彼に自分への愛はないし、好きになったところで同じ愛情が返されることはない。
辛くなるだけだと、ちゃんとわかっているのに。
美しくて格好良くて優しくて穏やかで、
地位も財産も、全てを兼ね備えた王子様のような人。
なのに猫といるときはどこか可愛くて、驚くほど愛情深くて、笑い上戸で、どこか抜けていて、少し意地悪で……でもやっぱりとびきり優しくて。
こんな素敵な人を、どうやったら好きにならずにいられるだろう。
自覚した瞬間から失恋が決まっているこの気持ちをどうしたらいいのかわからず、ロザリーは悟られたくないその感情をごまかすように近くにいたシルを抱き上げた。