2. 貧乏男爵令嬢の戸惑い
煌びやかなドレスがくるくると舞い踊り、軽快な音楽の合間にはそこかしこから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
さすが公爵家主催のパーティー。ロザリーが今まで目にしたことのないような大きな宝石のついたジュエリーや、最新の美しいドレスに身を包んだご令嬢ばかりだ。
そんな華やかなダンスフロアを壁の花となって見つめながら、ロザリーは小さく溜息を吐いた。
……今夜も、結婚相手を見つけるのは難しいだろう。
ロザリーは王国の辺境に小さな領地を持つ、ダントン男爵家の次女として生まれた。
男爵家は3年前に結婚した姉の婿である義兄が継ぐ予定で、次女のロザリーは気楽な立場だったはずなのだが、昨年事業に失敗したせいで、そういうわけにもいかなくなってしまったのだ。
父と義兄の尽力もあり事業自体は持ち直し始めているものの、いかんせん抱えてしまった莫大な借金を返すには程遠い。そして刻々と返済期限は迫ってくるのだ。
同じ下級貴族で気の合う人が見つかれば、くらいに思っていたロザリーの結婚は、ダントン家を救う希望の光となってしまった。…そう、玉の輿である。
出来るだけ資金の潤沢な家に嫁ぎ、借金の肩代わりや援助をしてもらうこと。
それが今年20歳になるロザリーに課せられた使命だった。
そんな事情で王都に送り出されたロザリーは、連日パーティーや舞踏会に参加していた。
しかしもともと辺境にある領地で静かに暮らしていたのだ。一応16歳でデビュタントはしているが、華やかな社交界とは縁遠い。
今夜も淑女学校時代の友人の伝手で、なんとか公爵家の舞踏会に参加したものの、自分よりもずっと美しい令嬢たちに気後れして、結局壁の花になっているのだった。
癖のある赤毛に茶色の瞳。どこにでもいる平凡な色彩に、ぱっとしない地味な顔。
中肉中背でスタイルが特別いいわけでもなければ、頭が回って楽しい会話ができるわけでもない。
ドレスも姉のおさがりで少しくたびれたものだし、実家に財力がないことは一目見ればわかるだろう。
美しく身分も高いご令嬢が溢れるこのパーティーで、ロザリーに声をかける令息はほとんどいなかった。
……まあ、でも今日は。
なんの収穫がなくても、目の保養になるからよしとしよう。
ロザリーは心の中でそう呟いて、華やかなドレスに囲まれたその渦中にいる男を見つめた。
ーーーシリウス・グランフォード侯爵。
その名前は、ロザリーが婚活のため王都に来てから耳にタコができるくらいに聞かされた名前だ。
ご令嬢たちの話題は、いつも彼のことで持ちきりだったから。
「昨日のパーティーでお見かけした」
「ルシード王子殿下と笑顔でお話をしていた」
「珍しい色のクラバットも、彼がつけるととても素敵に見えた」
「領地に戻られてしばらく王都には戻られないらしい」
「銀色の御髪と金色の瞳は、まるで神が作った芸術のように美しい」
「どのご令嬢ともダンスはご一緒してくださらない」
「お声まで美しく、涼やかに微笑んだ時の目元がたまらない」
「カサンドラ王女殿下もグランフォード侯爵をお慕いしているらしい」
……等々、どの令嬢もうっとりとした表情で彼のことを話すのだ。
そんなにもいい男なのかと話半分に噂を聞いていたロザリーは、3ヶ月前のパーティーで初めてグランフォード侯爵を見た瞬間、全てを理解した。
……あぁ、こんなに美しい男がいるんだ、と。
もはや同じ人間とは思えないほどの美しさだった。
その上22歳という若さで侯爵を継ぎ、王子殿下のご友人でもあるという。
同じ貴族といえど、ロザリーとは何から何まで、天と地ほど格が違う。
自分とは釣り合わなさすぎて婚活対象からは一瞬で外れたものの、
ロザリーはそれ以来、視界に入るだけで喜びをくれる美しい侯爵を目の保養にしているのだった。
パーティーも後半に差し掛かり、ダンスフロアで踊る人も疎らになってきた。
何人か声をかけてくれた男性と話をしたものの、全員ダントン家とさほど変わらない爵位の令息で、特別裕福な家の者はいなかった。
…分かってはいたけれど、こうして人の背景に金を見て付き合いを選んでいる自分が、とても浅ましいように思えて自己嫌悪に陥る。
………ううん、これも全て家族のためだもの。
落ち込んでいてはだめ。
外の空気を吸って気分を変えようと、ロザリーはそっとバルコニーから中庭に出た。
月夜とわずかな灯に照らされながら広い公爵邸の庭をしばらく歩いていると、遠くの方からか細い鳴き声が聞こえてきた。
「…にー」
思わず声の聞こえる方に足を速めて歩いていくと、綺麗に整えられた植木の下にうずくまる、灰色の子猫を見つけた。
ぷるぷると小さく震えながら、その青い瞳が月光に照らされてかすかに揺らめいている。
怖がらせないようゆっくりと近づいたロザリーは、そっと屈んでその小さな命を両手に包んだ。
「どうしたの?怪我をしてるの?」
にぃ、にぃ、と小さく鳴き続ける子猫の前足は、怪我をしたのか黒い血の固まりのようなものが付いている。
カラスか何かに襲われたのだろうか…
それとも公爵邸に仕える者が追い払おうとして傷つけたのだろうか。
ひとりぼっちで震える子猫が可哀想で、ロザリーは優しくその小さな額を指で撫でた。
「…まだ小さいけど、お前は美人だね。とても綺麗な色をしてる」
薄い灰色の猫の毛並みは、月光を受けて銀色にも見える。
まるで侯爵様の御髪みたい……なんて、麗しのグランフォード侯爵と猫が似ているだなんて、口にしたらご令嬢たちに殺されてしまうだろう。
貴族の娘といえど、辺境の地で平民に近い暮らしをしてきたロザリーは動物に慣れていた。
小さい頃は両親に内緒で野良猫に餌をやっていたこともあるし、町にいた平民の友人には犬や猫を飼っている子もいた。
もちろん貴族として動物にどのように接するべきかは淑女学校で学んだし、王都にいる間は努めてそうしている。
でも今ここにはロザリー以外誰もいないから、振る舞いを咎める人もいないし……それにこの子猫は怪我をしているのだ。放っておけば、そのまま息絶えるか、誰かに見つかって殺されてしまうだろう。
幸い生まれたてなのかとても小さい。
鳴きやんでくれるなら、ハンカチにくるんで連れ出しても誰にも気がつかず公爵邸から連れ出せるはずだ。
「…お前、うちに来る?」
怪我が治ってある程度大きくなるまで、王都にあるダントン家の邸でこっそり飼っても大丈夫だろう。
ロザリーがそう問いかけると、返事でもしているかのように子猫は「にゃぁ」と鳴いた。
その愛らしい様子にロザリーが思わずふふっと小さく笑い声を漏らした瞬間、
「君は、猫が好きなのか……?」
突然背後からかけられた声に、ロザリーは胸に抱えた子猫を隠したまま慌てて振り返った。
そしてそこにいた人物に、瞳がこぼれ落ちそうなほど瞼を大きく見開いた。
「グ、グランフォード侯爵…!?」
月光にその銀髪を煌めかせた美しい男が、じっとロザリーの手元を見つめていたのだ。
その麗しい目線を辿ってハッと我に返ったロザリーは、慌てて淑女の礼をとった。
「ど…どうかお見逃しください…!怪我をして迷い込んでしまったようなのです」
猫を抱き上げるなど、淑女にあるまじき行為だ。
しかもここは貴い公爵邸の中庭。本来なら使用人に連絡して速やかに処分されるべきである。
「……君は…猫が怖くないのか?」
信じられない、とでも言いたそうな表情で、侯爵はロザリーを見つめている。
それはそうだろう。悲鳴を上げてしかるべき猫を、大事そうに抱えている女なんて初めて見たに違いない。
麗しい侯爵様の周りには、完璧な淑女教育を受けた真の貴族令嬢しかいないのだから。
「…こちらが危害を与えなければ、賢く優しい生き物なのです。まだ子猫ですし、それに怪我もしているようですから、危なくありません。……令嬢としてあるまじき振る舞いであることは、重々承知しておりますが……どうか、どうか見逃していただけませんでしょうか…!」
「結婚してほしい」
「どうか侯爵様…!…………………………は?」
「私と結婚してほしい」
…聞き間違いだろうか。
侯爵から落とされた言葉の意味を理解できずに、ロザリーは固まった。
「…名前を教えてくれないだろうか、可愛い人」
呆然とするロザリーに、ふっと小さく笑った侯爵の美しい笑みが返される。
「……ロ、ロザリー・ダントンと…申します…?」
「ダントン男爵家のご令嬢か。私はシリウス・グランフォード。侯爵だ」
「…は、はい……それはもちろん、存じておりますが…?」
もしかしてこれは夢なのでは、とロザリーは思い始めていた。
結婚相手に悩みすぎて、ついにこんな有りえない白昼夢までに見るようになってしまったのだろうか。
「ロザリー嬢。不躾な質問ですまないが、婚約者は?」
「……い、いえ。お、おりません」
「では、どなたか心を寄せる方は」
「……お、おりません」
「そうか!ああ、なんという幸運だろう!!」
侯爵はキラキラとその黄金の瞳を輝かせながら、子猫を抱いていない方のロザリーの手をとった。
夢にしてはあまりにリアルなその感触に、呆然としていたロザリーの顔がじんわりと赤く染まっていく。
「改めて訊くけれど、貴方は猫が好き?」
「は、はい…」
眼前に迫った美しすぎる顔に気を取られて、つい素直に答えてしまう。
「ああ!貴方はなんて素晴らしい女性なんだ!」
ガバリと、感嘆した様子の侯爵にロザリーは抱きしめられてしまった。
侯爵の首筋からは甘く爽やかないい香りがして、なんてリアルで訳の分からない夢なんだろうと、ロザリーはほとんど回っていない頭で考える。
「ああ、すまない、こんなところで。…嬉しくてつい」
「は、はあ」
「ロザリー嬢。突然ですまないが、ぜひ私との結婚を真剣に、前向きに考えてもらえないだろうか。近いうちにダントン男爵にも、お許しをいただきに伺うよ」
「は、はあ」
「今日も邸まで送りたいけれど、私といると目立ってしまってその子をうまく連れ出せないだろうからね。……それでは、また」
とろけるような笑顔を浮かべてロザリーの手の甲に小さくキスを落とすと、弾むような足取りで侯爵は会場に戻っていった。
これが現実か夢か未だ判断がつかないロザリーは、しばらくそのまま呆然と中庭で一人立ち尽くしていたのだった。