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ネジレ

作者: 八久斗
掲載日:2009/06/24

彼女に出会ったのは忘れもしない、大学1年の7月8日だった。

講堂で行われるつまらない授業。

思い返してみれば、何故僕が朝っぱらから講義に出ていたのか不思議でならない。

多分高校のときの惰性だったのだろう。

僕は早くも聴くことを放棄し、机の下で漫画を読んでいた。


ガチャリ、と後ろのドアが開いた。

それはほとんどスピーカーの声に紛れて聞こえないような小さなものだったけれど、僕の耳には捉えられた。

不真面目の筆頭である僕が講師に当てられるような所に座るわけがない。

200人は入るであろう広い部屋の一番後ろの列、入り口から3番目が、僕の定位置だった。

だから僕は少し首を回すだけで、入ってきた人物を認めることができた。


彼女は遅刻してきたようだった。

軽く息を切らし、こそこそと隅の席に座る。

すなわち、僕の2つ隣。

改めて横目で観察する。

可愛い人だった。





忘れもしない7月8日。それは私が大学に入って始めて遅刻した日であった。

目を覚ますと時計は9時を指していた。

慌てて飛び起きる。

目覚まし時計を探すと、ベッドから転がり落ちて電池が外れていた。

思いっきり溜息をついた。

朝食を食べる暇も無く、僅か10分で家を飛び出す。


その日の1限は森林環境の講義だった。

よりによって一番興味深いテーマだというのに。

講堂の前まで来ると扉越しに講師の声が聞こえてくる。

堂々と入る度胸も無く、しばしの逡巡の後、私は後ろから入ることにした。


この部屋の定員は240人だっただろうか。

階段状をしているので、前の扉は1階に、後ろの扉は2階にある。

だから、入って教壇を見下ろしたとき、不思議な感覚を覚えた。

一番前なら聞こえる講師の肉声も、今はスピーカーを通している。

人の目に触れるのもはばかられ、私は入ってすぐの席に座った。

思えばそれが、あの人を見つけた最初の日なのかもしれない。





それからというもの、僕は彼女のことを気にかけるようになった。

翌週、講師の質問によく答えているのが彼女であることに気づいた。

彼女の声を聞くのが心地良かった。

つまらなかった授業が、とてつもなく楽しみになった。


残念だったのは、彼女が普段は最前列に座っていること。

だから僕も、席を前に移すことにした。

さすがに一番前には行けないけれど、少しでも彼女に近づきたかった。

講義も少なくとも形だけは真面目に受けるようになった。





彼は笑顔の素敵な人だった。

目が合うと、いつも爽やかな笑みを返してくれた。

私もつられて笑った。

言葉を交わしたことは無かったけれど、いつしか私は彼に惹かれるようになった。


夏休みが終わり、新しい講義で偶然彼と一緒だったとき、私の胸は弾んだ。

お互いにいくつも講義をとるのだから、確率はそんなに低くはないのだけれど。

これは運命だと勝手に自分に言い聞かせ、私は声をかけた。





彼女の声を聞いた。

スピーカーを通してではなく、肉声を。

ずっと綺麗な声だった。

こういうのを「鈴を転がすよう」というのだろうか。

それだけで僕は一日中上機嫌だった。


相変わらず僕の受講態度も成績も良いとは言えなかった。

でも、そんなことはどうでもよかった。

僕は彼女の姿を見ることができればよかったし、彼女の声を聞ければ幸せだった。

彼女のことが好きなのだ、と改めて思った。





それからというもの、私と彼はよく話すようになった。

予復習はいつも一緒にやった。

食堂で一緒に昼食をとることもしばしばだった。

何てことのない会話。他愛の無い会話。


ある日、友達の一人に彼と歩いているのを目撃された。

大学内だから当たり前といえば当たり前だ。

冷やかされた。

反論したが、顔が真っ赤だったので余計笑われた。

私は観念して、どうすべきか相談した。

返ってきた答えは、極めてありふれたものだった。





校舎の裏で彼女の告白を聞いたとき、僕は耳を疑った。

高校で20キロ走ったときよりも速く、心臓が胸を打っていた。

夕方になって、家に戻っても動悸は治まらなかった。





彼はいつもの笑みで、でもちょっぴり恥ずかしそうに、私を受け入れてくれた。

その瞬間から、私と彼は恋人同士になった。

嬉しかった。天にも昇る心地だった。


休日には映画に行った。

カラオケにも行った。

遊園地にも行った。

楽しかった。幸せだった。





映画に行った。

カラオケに行った。

遊園地に行った。

でも、僕はそれらのどれも楽しむことができなかった。

だって、僕の意識は常に彼女に向けられていたから。

彼女を見ていれば、それでよかった。

彼女が近くにいれば、それでよかった。





ある日、彼が私の家に来たいと言った。

少し考えたけれど、首を縦に振った。

最近少し物騒なことがあったから、近くにいてくれると心強かった。

いや、ただの私の思い過ごしかもしれないけれど。





彼女の家に行った。

高級感は無く、かと言って安っぽくもないワンルームマンションの2階だった。

彼女は何だか、辺りを警戒しているようだった。

僕は用事があったので、暗くなる前に帰ることにした。

ちょっと残念だったけど。





彼と付き合い始めて半年が経った。

2年の秋。

一度彼が酔った時にプロポーズじみたことを言ってくれた。涙が出そうになった。

その言葉が本気だったのかは分からないけれど、私達の交際は順調に続いていた。


……でも。

でも。

やはり私の不安は事実のようだった。

誤解を招きそうで今まで彼には言えなかったけれど。

友人に相談することにした。

返ってきた答えは、ありふれたもの……だったのだろうか。

その道に疎い私にはよく分からない。





2年の後期。

また彼女と同じ講義を取った。

嬉しかった。

前期も狙ったのだけれど、運悪く一致しなかったから。

しかも今度は普通の教室だ。

前のような広い空間じゃない。

彼女の存在を、一層近くに感じられる。





最初は単なる偶然だと思った。

2度目は「まあ、こんなこともあるかな」くらいに感じた。

3度目ともなると、まさかと思った。

4度目にはもう、疑いの眼差しを向けるようになった。

それ以降は、ただただ恐ろしかった。

もう終わりにしたい。

もう終わらせよう。

私は携帯電話のボタンを3回押した。





ある日、授業が終わると彼女から話しかけてきた。

曰く、2人で話をしたいとのこと。

僕は飛び上がって喜んだ。

いそいそと、指定された場所に向かった。

嬉しかった。

本当に嬉しかった。











だって、今まで彼女と言葉を交わしたことなんて一度たりとも無かったのだから。

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― 新着の感想 ―
[一言] すごく、おもしろかったです。 最後の最後で、こういうことだったのか!と気付かされました。
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