なまこ×ぷらす 後編
(あのイカ野郎っ!! クソ野郎!)
なまこは走った。留め度なく溢れる怒りの感情を押し潰せなくて、爆発する前に走り出した。どこへ向かうでもなく走った。結局は知っている範疇を無意識に回っているだけだった。
だから見知った町の中をぐるぐると巡り、公園のベンチで荒い息を整える羽目になった。
夕日が目に染みた。
そこは奇しくもスーパーと自宅を繋ぐ道にあった。
ちょうど、継母のぷらすが通りがかるのも、当然の事態だった。
しかし、なまこ少年にとっては予想外だった。避けられない運命か、因果のようなものを感じていた。
昨晩のあれは何だったのか、聞かなければならないと思っていた。
「あれ? なまこくん??」
この前、伝えていた。自身のあだ名がなまこであることや、クラスメイトに食材のあだ名が多いこと。そのことを、真剣に聞いてにっこりと笑ってくれたのは、ぷらすだった。
自転車にカゴに詰めるだけでは収まらず、ハンドルに買い物袋を吊り下げて、ママチャリを押していた。
なまこ少年も食べ盛りで、そして今日はスーパーの特売日だった。
その、所帯じみた姿がどうしようもなくぷらすの生活感を炙り出して、印象よりも矮小な存在に見せた。
そのように、なまこ少年が抱くぷらすの理想像がまたひと欠片、崩れていった。
「……。」
「無視しちゃ、だーめ。」
「……ぷらす。」
「はぁい。」
ニコニコと、嬉しそうな顔だった。
なまこには、どうしてそんな顔が作れるのか、不思議で仕方なかった。
(だって、僕は邪魔ものだ! 父さんもぷらすも、二人で暮らしたいんだ! なのに、僕がいるから! ああっ! だけど、僕は、ぷらすさんっ。僕の……っ。)
「一緒に帰ろ?」
「うん。」
少し年の離れた姉弟。化粧気の薄いぷらすの童顔が若く見えて、せいぜい大学生だと思わせる。
周囲の目には大学生の姉と、中学~高校生の弟が、並んで歩いている光景にしか見えなかった。
その周囲の視線が気になって、重い荷物を載せた自転車を押すぷらすから、ハンドルを奪った。
「あっ……もう、そんなふうに気を使わなくても、わたし、けっこう力持ちなんだよー。」
「わかったから。」
「もぉー。……ありがとね。」
ぷらすは恥ずかしそうに、はにかんだ。
(だから! そういうところだって!)
その油断が、小石を踏んで自転車が傾ぐ結果を招く。
「あっ。」
「あっ……ぶなかったね。」
「うん。」
ぷらすが咄嗟に伸ばした手は、ハンドルを握っていたなまこの手を上から包み込んだ。
その手は、成長途中のなまこと比べても、驚くほど小さくて、驚くほど柔らかかった。
「……ねえ、どうしたの?」
「……。」
その、心遣いが苦しかった。
(大人は、これだから嫌なんだ。)
自分の心は、自分のものであって、誰かに覗き見られるようなものじゃない。
だというのに、大人は簡単に見透かして、同情交じりに言い当ててくる。
そんな気遣いが、中学生男子の自尊心を傷つけていた。
「ねえ、見てなまこくん。ネコだよ。」
「……。」
「なまこくんって好きな食べ物とか、ある?」
「……。」
「ねえ、」
「なんでそんなに構うんですか。」
その訊き方が、ぷらすを傷つけるとわかって口にした他人事みたいな丁寧語。あともう少しで家に着くという頃合い。
「えっ、」
「僕が、父さんの息子だから? そうでしょ。」
口から出た言葉。
だけれども、その言葉の返答を聞きたくなくて、なまこ少年は買い物袋を取り上げて、一人先を急いだ。ぷらすが自転車を置きに行く時間を利用して、少しでも独りになりたかった。
それは、たった数分だけなまこに後悔と自責の念を覚えさせることだけ、成功した。
そして、その気持ちを混ぜっ返したドロドロの何かが、なまこの心中を支配していた。
「ねえ、どうしてあんなことを訊いたの?」
帰ってきて開口一番、ぷらすから訊ねられる。
なまこ少年だって、わかっている。自分の価値などぷらすにとっては父の付属品だ。
だとしても、その現実を受け入れることなんてできなかった。
なまこは、なまことして受け入れられたのではない、という自身の勘違いを信じ込んで、一人勝手に傷ついただけだ。
それでも、なまこにとってはそれが真実で、ぷらすを糾弾するだけの理由になった。
「僕はっ! ぷらすとセックスがしたい!」
そんなことを言うつもりはなかった。
涙声で放たれた科白。
取り返しが、付かなかった。
「いやっ! ちがっ、」
パシン――音に遅れて頬が熱かった。
「なまこくん。」
「うぁああ。僕は、僕はっ、」
「一生くん!」
「なんだよ!」
「わたしは、一生くんのお母さんには、なれないの?」
目の前にいたのは、不安げに瞳を潤ませた、母だった。
夕日に照らされて、陰影が際立った、綺麗な母だった。
「わたし、間違えちゃったんだよね?」
(違う!)
「やっぱりわたしには母親なんて無理だったのかな。」
(そうじゃない!)
「一生くんの、お母さんに、なりたいよ。」
ぼろぼろと、涙がこぼれた。ぷらすは声を上げずに顔をクシャクシャにしかめて、涙だけぼろぼろとこぼしていた。
自らの身勝手で母を傷つけて、その姿を見て実感して、さらなる絶望の海淵に落ち込んでいく。
「ご……めん。」
なまこが残せたのは、その言葉だけだった。
そういう気まずいことがあっても、お腹は空くもので、いつも通りにぷらすが晩ご飯を呼びに来て、なまこはぷらすと二人きりの食卓を囲んでいた。父は家事から解放されて、夜遅くまで仕事をするようになっていた。だから、呼ばれた時点で二人しかいないことはわかっていた。
それがわかっていて、なまこはテーブルに着いたのだった。
罪悪感に押しつぶされそうになりながら、ギクシャクと家庭を再現するような晩ご飯だった。
なまこは、必死に夕方のことを忘れようとした。
どうせ、今夜もぷらすは父、ろっくとイチャイチャするんだ。
忘れてしまえ。ぷらすは母だ。
(母さん。母さん。母さん。)
なまこは、そう唱え続けることで、失恋を押し潰そうとしていた。
その行為は同時に、なまこの心を握りつぶすような痛みを伴って、悲鳴が聞こえると錯覚するほど胸を締め付けていた。
(もう、ダメだ。きのこはやっぱりビッチだし、ぷらすは僕のものじゃなかった。)
お風呂上がりの逆上せた思考の中で、なまこは消去法で失恋を確認していた。
ふと、残った一人を思い浮かべた。
そもそも、ほとんど話したことなどない相手。
桜井 かなみ。さかなの愛称なのに可愛らしい、学年一の美少女。
エアリーボブが風に揺れて、笑顔が可愛い女の子。
誰にだって優しくて、誰のものでもない女の子。
(そういえば。)
スマホを操作して、クラスのトークルームからさかなのアイコンをタップした。
個別トーク。
それを開いてポチポチと、文字を打っていく。
『あのさ』
そこで、何をやっているのだろうかと思い返して、少し自嘲して、間違えて送信してしまった。
慌てて訂正の言葉を重ねる。
『何でもない!』
『ごめん気にしないで』
だけれども、どこかで返信に期待している自分がいることに気づいていた。
心臓がバクバクと煩くて、画面から目が離せなかった。
あまり見つめてるのも気恥ずかしくて、一度ホーム画面に戻ったりした。
そんなときに限って、返信が来るものだ。
(きた!)
なまこ少年は、期待に胸を躍らせて、二度三度押し間違えながら、さかなの返信を見た。
『え? 誰?』
『なまこくん? 誰かと思ったよー』
『押し間違えちゃうの』
『あるあるだよね』
『ごめん』
『ううん気にしてないよー』
憧れのさかなとメッセージを交換している。
それだけで、なまこの心は癒される――ハズだった。
(うん? なんだこれ。)
ふと、アイコンが気になった。
気恥ずかしくて、今までさかなのアイコンなんて気にしたことが無かった。
それは二つ並んだキーホルダーと二人の手。
ただ、それだけでなまこの心に最後の短剣が突き立って、思わずなまこはスマホを放り投げた。
また一つ、画面にひび割れが足されただけだった。
~fin~
これで完結です。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
え、投げっぱなしじゃないかって? 良いんです。少なくとも「なまこくん」のヒロインは3人ともいなくなりましたから。救いなんて必要ないのです。
それと実は、書きながら暮伊豆さんのことを思い描いていたのです。私もとっても好きな作者さん。そんな暮伊豆さんをどこかで出そうかしら、と。それをやめたのは、この最後のあとがきに記せば、この小説すべてが暮伊豆さんに向けた「ビデオレター風NTR」みたいな、何もできずに見てるしかない系のNTRっぽいなーって思ったからです。
もう、完結しちゃいましたし、ね?