第一幕 ここは地獄か異世界か、光は未だ芽を出さず。 参、屍人邂逅
そこにあったのは虐殺――なんていう、予定調和の悲劇ではなかった。
ここは地獄よりなお業深き場所なのだと、僕はようやく悟ったのだ。
戦っていた。
誰も彼もが、死力を尽くして怪物相手に雄々しく、狂おしいほど鮮烈に輝きながら、命を燃やして立ち向かっていた。
妖畏、在レ。妖畏、在レ。妖畏、在レ。妖畏、在レ。妖畏、在レ。妖畏、在レ――――
何の呪文か詠唱か、誰も彼もが、村にいるもの全員が、魔法の言葉を唱えながら、迫り来る異形の怪物相手に立ち回っていた。
そう――全員が、だ。
もはや年老いて動けぬであろう老人や、戦いどころか喧嘩したことすらなかろう女性、見るからに戦いに向いていないやせ細った男、果ては十歳にも満たないであろう子供まで。
誰も彼もが、真実一人の例外なく――全員、戦っていたのだ。
「殺せ殺せェッ!」「ワタシの獲物を奪うなァッッ!」「どけっ!」「それは僕の獲物だぞッ!」
「これ、は……どういうこと、なんだ…………っ」
どくん――それら無尽蔵に吐き出される赫怒と覚悟の絶叫の余波に呼応するかのように、僕の左腕が不気味に脈打った。
「なん、だよ……これ…………ッ。……っ」
その光景に、霧雨さんですら動揺し、怒りをあらわにしているようだった。少し反応が過剰に過ぎる気もするが、確かに誰も逃げず、誰も助け合わず、まるで他者を利用して一体でも多くの化け物を屠ろうとする彼らの姿を見れば、義憤の一つを抱いてもおかしくない。現に、僕にだってそうした思いは少なからずあるから。
「ふざ、けるなよ……ッ!」
小さな子供が近くの老人を踏み台にして滞空する大鳥の首を折った。蹴倒された老人は近くにいた虎の顔を持った蜘蛛に食われて赫怒と無念の絶叫を叫びながら弾け飛ぶ。その隣では貧相ななりをした男性が嫋やかな雰囲気を纏う女性を後ろから蹴り飛ばして異形の注意をそちらに引き付けて退却していた。他にも、他にも他にも他にも――
「…………意味が、わからない」
あまりにも価値観が違いすぎる光景。もはや僕の脳では理解することは不可能だ。
だって、これは集団催眠や幻術の類なんかじゃない。
目を見ればわかる。誰も彼もが正気だった。こんな狂った空間に身を置きながら、その目にあるのはここで死ぬわけにはいかぬという覚悟と、夢を追い求める無謬の光。加え、己が成した道理に反する罪への後悔と苦痛。――総じて、人として当たり前にある混沌とした感情の嵐。
そこに、僕はようやくこの世界の一端を見た気がした。
「霧雨、さん……ッ」
「――ッ、止め、ます……っ! こんな救いのない光景、許せるはずないですッッ」
死んでいく。化け物に殺されて。人に利用されて。
無念だ、嫌だ、まだ〝死ねない〟――恐怖や逃避ではなく、最後まで己の光を信じながら消えていく魂の数々。
霧雨さんは、それでも――こんな業の深い世界だとしても、助け出そうとしていた。
そして、僕もまた――
『うん。行こう……僕も、彼らを止める』――その言葉が喉から出ることはなかった。
「うむ――これは良い勇気が集まっておる」
静かな――されどどこまでも重々しい厳かな賞賛とともに、ソレらは天から降ってきた。
廃村に影が差す。見上げれば、赫々と光る孔をすら隠してしまうほどの大量の蜘蛛が空を覆い尽くしていた。一匹あたりの大きさは胴体の身で十センチはあるだろう。
ぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎち。
鼓膜に直接砂をこすりつけるかのような不快な高音が、雨のごとく降り注ぐ。視覚と聴覚、双方から本能的な恐怖を与えてくるそれら大群を前にして、僕は総身を粟立たせた。
だが、僕は同時に確信していた。真なる脅威はあんな化け物風情ではないのだと。
「妖畏、在レ――〝電光伝送〟」
瞬間、糸よりもなお細い紫電が地上の怪物や空の蜘蛛の間を駆け巡り、やがて声の主のもとへと帰っていく。
そこに、紅蓮の涎を垂らす孔を背負うようにして、道化のような出で立ちの美少年が立っていた。半分に割れた道化の面と、真っ白な燕尾服を纏っている。ただし下は暗色の袴だ。和洋折衷――と言っていいのかも疑わしい奇妙に過ぎるその姿。けだし、纏う風格はただの道化ではありえない。堂々たるその立ち振る舞い、己より遥かに巨大な魑魅魍魎を率いて地上を睥睨する姿は、百鬼の主、あるいは怪異の王と呼んでも過言ではない風格を有している。
彼は滞空する無数の蜘蛛を足場にし、空から地上の修羅道を悠然と眺めていた。その体から圧倒的なプレッシャー……否、そんな低次元では評せない重圧が、僕らの体に圧し掛かる。
例えるなら、庶民が皇族を敬拝するように。
例えるなら、宗徒が主神に祈祷するように。
例えるなら、罪人が地獄を忌避するように。
存在の格が違った。体を、魂を、上から押さえつけられるがごとき苦痛が身を苛む。
「くく、くはははっ。ふははははははッ。良い勇気だが、しかし――まだ足りんぞ貴公らッ。未練を求め、絶望的窮地にあってなお諦めぬその気概は良い。だが、他者を押しのけ、唯我唯我と涎を垂らして絶叫するなら犬畜生と変わらぬぞッッ! ――ゆえに、試させてもらおう」
「……ッ、――」
「――んの、野郎ッ……!」
何か、取り返しのつかないことをしようとしている。僕も霧雨さんもそれを理解した。
霧雨さんは刀を構え、道化の少年目掛け突貫しようと足に力を溜める。
しかし――すでに遅きに失していた。
なぜならば、彼はすでに仕込みを終えていて、あとは起動するだけだったのだから。
ぱちん――彼が指を鳴らした瞬間、空を覆い尽くしていた蜘蛛の群れが、漏斗に水を入れたかのように収束しながら地上へ凄まじい速度で降下した。
ぎゅるり、という擬音が聞こえてきそうなほどの勢いで渦巻いて収束する無数の蜘蛛。禍々しい竜巻が地上に接地した瞬間を見ている気分だった。
だが、真実はそれよりなお残酷だ。
「猛れよ、気張れよ。貴公ら、わたしに光を叩き付けるが良い」
蜘蛛の群れはやがて完全に融合した。形作られるは全長二十メートルは超える巨大な蜘蛛。
蜘蛛は地上に足をつけたその瞬間、近くで奮闘していた人たちを、仲間の化け物もろとも巨大な咢で食い千切った。鮮血――否、あの真っ黒な液体のような力の塊が、噴水のごとく迸る。
異形の蜘蛛はなおも止まらず周囲一帯をめちゃくちゃに食い破る。時には糸を吐き出し絡め取ってから殺し、時には棍棒よりも太く重い八本の足で踏みつぶして殺す。そして、殺したそばから黒い力の奔流を吸い尽くしていき、その巨体をさらに肥大化させる。
どくん、どくん、どくん――蜘蛛の金切り声と、人々の無念の断末魔が重なるに従い、僕の左腕の脈動が強くなる。それとともに沸き上がる義憤の念。しかしそれを塗り潰す恐怖の震え。
だが――そんな僕の葛藤など吹き飛ばす――底冷えする低い声が隣から聞こえてきた。
「どいつも、こいつも……ッ!」
「え……?」
「センパイ、下がっていてください。あれは、あの〝悪〟は、あたしが叩ッ切りますんで」
「なっ――」
何だ……ッ?
過剰なまでの赫怒に燃えた絶対零度の声に、敵意を向けられていないはずの僕ですら心臓を凍らされる気分だった。
確かにあの道化の少年が行っている虐殺の行為は許されざるものだ。だが、これほどまでに怒りを発するのは、少し過剰というものだろう。
そういえば、先ほど修羅道のごとき光景を目にした際も、彼女は同じような反応をしていた。
ただの思い過ごしかもしれない。だが、彼女の悪に対する怒りに、僕はどうしても困惑を隠せない。
しかし彼女は、そんな困惑など放って大蜘蛛目掛けて走り出した。途中、襲い来る異形の群れを切り飛ばしながら、一陣の風となって決して短くない距離を踏破して、蜘蛛の体を気づかれぬ間に駆け上がる。見る間に少女は術者の背後を取り、間合いの外にて納刀――抜刀、神速。
「死ねよ悪党――あたしの正義の錆になれ」
そして、銀色の斬閃は捻りなく順当にその首へと吸い込まれて――
「くははっ、貴公もなかなか気骨のある女子だな。――気に入った、お相手しようではないか」
だが、そんなことはすでに察していたらしく、体を傾けて難なく回避。同時、手のひらを霧雨さんへ向けるや紫電が迸った。
直後、霧雨さんの体からバキンッ、と硝子が破砕するがごとき音が鳴り響いた。
「ははっ、ふはははは! 我が電光で霊鎧を失うか。となれば貴公の屍人としての等級は二といったところか? ああ、惜しいな。実に惜しいッ! 最下級の一等級であるならば、貴公のような正義の体現者に敗北するのも一興であったであろうにッ!」
音の正体はわからない。しかし――次の瞬間に起きたことは、実に明快にして簡潔だった。
まさしく電光石火。霧雨さんの疾走など亀のごとしと言わんばかりの踏み込みで接近し、その腹へ痛烈な蹴撃を叩き込んだ。
「ガッ――ァ……ッ!?」
がくんっ、と小さな体がくの字に折れる。目を見開き、喀血しながら後方へ吹き飛ばされた。
四十メートル近い高所から投げ出される小さな体。まずい、受け止めなければ――ッ。
「――ッ、霧雨さんッ」
「ほう――恐怖も忘れて助けに走るか」
投げ出され、地面に落ちる霧雨さんを受け止めるために走り出したその瞬間、ゾクリ――総身を粟立たせるような、法悦に塗れた視線とともに邪悪な思念が僕の魂に突き刺さる。
同時、さらに強く僕の左腕が脈動する。もはや重みや痛みすら伴うそれによって、腕の神経が焼き切れているような錯覚すらあった。
「貴公はどんな味をしているのかなぁ。魅せてくれよ、貴公の勇気も」
ぱちん。再度指を鳴らしたその瞬間、バヂバヂバヂバヂッッ――と紫電が弾け、大蜘蛛の体から投げ出された霧雨さんをとどめとばかりに追い詰めた。
「づ、ァ――ッ! 舐め、てんじゃねえぞ悪党ォッ!」
神速の一閃で紫電を叩き切らんとするが、彼女の技量は雷を切れる域にはなかった。飛翔する斬撃の合間をすり抜けて、小さな少女の体を打ち据える。
「ぎ、ィあ――」
ビクンッ、と跳ね上がるように痙攣し、全身から力が抜けた。その瞳は未だ苛烈な戦意に燃えているが、体が言うことを聞いてくれないらしく、力なく墜落するその姿はどう見ても肉体の制御を手放している。あれでは受け身すら取れず地面に叩き付けられることだろう。
「霧雨さんッッ――!」
地面に激突する直前、間一髪腕を滑り込ませて抱きかかえる。生前の僕ならば絶対に受け止めることが不可能だっただろうが、どういうわけか今は膂力が強化されているらしい。
「霧雨さん大丈夫ッ? なんでこんな無茶をッ」
「ふははっ――油断するでないぞ小娘ッ! あまりわたしを興醒めさせてくれるなッ」
「ぐっ――」
「セ、……パイッ! 逃げてください……っ」
「――――ッッ」
少年の掌の中で暴れ狂う紫電の塊が僅かに励起した。来る――そう確信した瞬間、僕の足が竦んで動かなくなった。動け、動け――そう強く念じるが、石のように固まってしまう。
だが、腕の中にある温かいぬくもりがその鎖を千切る。守らなければ――より強く、決して取りこぼさぬように霧雨さんを抱きかかえると、死に物狂いで駆け出した。
電撃よりも速く走れるはずもない。ゆえに僕が取った回避行動は、彼女を抱いたまま地面へ飛び込むというひどく不格好なものだった。意味があるのかはわからないが、後頭部に手を当てて、僕自身は彼女を雷撃から守るように覆いかぶさる。――そこへ、紫電が迫った。
「づゥッッ! ――ガァァアアッ!?」
「センパイッ! 何やってるんですかッッ!?」
全身を焼かれるかのような激痛が弾ける。神経を、筋繊維を切り刻まれているかのような。これまで経験したこともない壮絶な痛みに意識がスパークして闇に落ちてしまいそうだ。霧雨さんの悲鳴がなければおそらく昏倒していただろう。
「いや……いやだ。やっと会えたのに、また……っ。もう、そんなの……ッッ!」
苦悶の喘ぎを漏らすこんな体たらくの僕の下、霧雨さんに被害は及んでいないようだった。相変わらず僕にはわからない論理で何か言っているが、今はそんなことに気を割いている余裕はない。
だって、もう、助けられないのは嫌なんだ。
誰かを助けられる位置にいたのに、心が体が弱かったからと言って、取りこぼすのは。
今でも絶えず悔いている。ほんの少しでも我が身を犠牲にしてでも勝とうという意思があれば、結果は変わったかもしれないのに、と。
少なくとも助けようとした女性が逃げ切るまでの時間くらいは稼げたはずだ。
ナイフを前にして体が竦まなければ。
だから――ああ、もう二度と取りこぼさない。
「ひっ、ァ……ッ。ぐゥッ! ……センパイ、どいてください! あたしが戦いますッ。あたしが時間を稼ぐから逃げて下さい!」
「――ッ!」
そんな提案を、呑むわけにはいかなかった。
凍りつく心を無理やり燃やして、震える足に力をこめる。
「――下がっていて」
体の中心から末端まで、全てが痺れて痛い。
「なっ――」
それでも、片膝に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。
「……だ、大丈夫だから。霧雨さん……、きみは、僕が守ってみせる……」
ちくしょう、声が震えてるじゃないか格好悪い。
男が女を守るって安心させるシーンで、こんなに格好のつかないことはない。
それでも――
「ぁ……ぅ……っ」
背後で何も言えなくなった霧雨さんの反応を見るに、これ以上戦わせないという僕の目的は達成できたらしい。
だから、あとは敵に集中しろ。
体が震える。心が凍る。それでも魂に炎を灯し、人貴光夜はこの惨劇の奏者を睨み上げた。
「ふはっ、ふはははっ! ははははッ、あはははははははははっ! 素晴らしい、素晴らしい素晴らしい素晴らしいぞッ! なんと鮮烈な光なのだッ! 貴公のような男を待っていたッ! 儚く脆くも輝かしい、勇気を抱いた只人よ。わたしはわたしを殺す得物を貴公に定めたッッ!」
道化の少年の邪悪な期待が僕に突き刺さる。
瞬間、左腕の脈動がさらに強くなる。痛みが無視できないレベルまで跳ね上がった。
それでも、僕は左手を握り締めて、拳の形を作る。――この痛みは、力になってくれると、なぜかそんな風に思えたから。
それを見た道化の少年が嬉しそうに笑顔を咲かせた。
「そうか、そうか――そうかっ! 貴公、このわたしに立ち向かうかっ! その身一つで、妖畏すら満足に扱えぬ小さな身で、出会ったばかりの少女を守るために拳を握ると、そう言うかッ! ならば良し、受けて立とうではないか。そして見極めよう、貴公がわたしを殺す光にふさわしいかどうかを!」
道化の少年が拳銃のジェスチャーで僕を指差す。
「我が名は小満ッ! 尊き至高至上の敗北を求め、奈落を彷徨う五等の屍人。『白虎』の小満であるッッ。さあ、名乗るがいいぞ少年よッ! 戦の前に口上を謳い上げるは作法なりッ! わたしに光を下す男の名前を教えてくれェえッ!」
「……人貴光夜」
「くく、はははっ! 簡素で寂しい名乗りであるが、まあ良かろう。主題はこれより始まる戦争にあるのだから。さあ行けいッ、――さあ、我が障怪らよ。かの少年を貪り食うがいいッッ!」
瞬間、憎悪の絶叫とともに、少年が従えていた無数の異形怪物たちのうち数体が押し寄せた。
そして、化け物たちとの距離が縮まり、突き刺さる憎悪の質と量が跳ね上がるたびに――
どくん――、どくん――、どくん――、どくん――、どくん――、どくん――。
左腕がより強く、より速く脈打つ。
どくん――――ッッ。
その果て――憎悪の波濤が最高潮に達した瞬間、左腕の脈動は無視できないものとなった。
痛い、重い、痛い痛い痛い重い重い重いッ――!
「がッ、う――」
「む?」
配下の魑魅魍魎をけしかけた小満ですら、僕の異常に訝しむ。
「駄目です、センパイ逃げてくださいッ!」
それは、僕の体に起きた異常を憂慮しての言葉だったのだろう。
だけど、霧雨さん――それは勘違いだよ。
わかる、僕にはわかる。この脈動、この熱、痛み――これは状態異常なんかじゃ断じてない。
これは力の予兆だ。霧雨さんの飛ぶ斬撃や、小満と名乗ったあの少年の紫電のような。
僕の、僕のための力が、敵の悪意を引き金にして、今、目覚めた。
「妖畏、在レ――〝死穢左手〟」
瞬間、敵の沸騰する悪意は僕の力と成り、形を結ぶ。
その咒の通り、僕の左腕が肩から順に汚泥と悪意と憎悪と邪悪を塗り固めたような、穢れた闇黒の異形のそれと化した。
そして――
「ハァァァァァァァアあああああああああああああああああああああッッッ!」
迫り来る魑魅魍魎の第一陣、それを一撃で押し返したのだった。




