第一幕 ここは地獄か異世界か、光は未だ芽を出さず。 弐、異界考察
紆余曲折あったが、ともかく僕はこの世界に来てから初めて人間(?)と出会うことができた。今の僕はとにかく『情報』が欲しい。この世界に関することはもちろん、戦うすべや生き残るすべ、それからあの化け物のこと、何より僕がどうなってしまったのか。
そのためにもまずはお互いを知るところから始めるべきだろう。僕は礼儀として自分から名乗ることにする。
「……僕は、……人貴光夜っていうんだけど、その……君は?」
「えっ、あたしですかっ? ……えっと、その。あの……」
女の子は先ほどまでの凛々しさはどこへ行ってしまったのか、顔を真っ赤に染め、しどろもどろになって答えられない様子だった。
突然自己紹介を始めた危険な男に引いているのかと心配したが、そういうことでもなさそうだ。もしかしたら戦っている時だけは饒舌になり本来の自分を曝け出せるという、戦闘民族的な子なのかもしれない。あまり口に出さないほうが身のためな気がするから言わないけど。
「あの、君ってもしかして、……戦闘民族なの?」
「はい?」
……ッ!? 何を言ってるんだ僕はッッ? 心の声が漏れているんだが!?
「ふ、ふふ……っ」
「え……?」
だけど、女の子の反応は僕が思っていたものとは全く違うものだった。苦々しさと恥ずかしさの同居したような先ほどまでの表情がから一変、楽しそうに顔をほころばせた。
戦っているときの凛々しい顔は美しい戦士のようだったけれど、今の彼女は年相応の女の子のようでとても可愛らしい。
――って何考えてるんだよ僕は。初対面の女の子に失礼だろっ。
「あはは、はははは……センパイって面白い人なんですねっ。なんだか、すごく嬉しいですっ」
「センパイ……?」
なおもくすくすと、夢が叶ったかのように嬉しそうな顔で笑う女の子に問いかけると、またも何かに気付いたように顔を赤くした。……さっきから本当に表情が忙しい子だなあ。
「えっと、センパイはあたしのセンパイなんで」
「……???」
「えっと、ダメですかね……?」
「えっと、いや……いいけど……」
「やったっ、ふふっ」
やったっ、じゃないよまったく。顔を赤く染めて上目遣いで聞かれたら、僕みたいな非モテは敗北するんだよ。わかってるのかなその辺。わかってないよね。わかってくれ……わかれ。
「あ、名乗るのが遅れました。あたしは霧雨刀火です。これからよろしくお願いします」
「そっか。よろしくね、霧雨さん」
「――――――――」
「ん? どうしたの霧雨さん」
「――――ぁ、ぅ……」
なぜだろうか。名前を呼んだその瞬間、霧雨さんの顔が、湯気が立ち上りそうなほど紅潮した。見開かれた瞳には今にも零れ出しそうな雫がたまっていて――
それをぐしぐしと袖でぬぐうと、霧雨さんはその面貌に強い意志と凛々しさを取り戻して、
「はい、センパイ。よろしくお願いしますっ! センパイの身はこのあたしが守るんで、安心してくださいっ!」
「いや、それはどうなんだろう……」
「大丈夫ですよセンパイっ。あたしは正義の味方を目指してるんで、ちゃんとセンパイを守り切ってみせます。もう二度と、センパイを死なせたりなんてしません……ッ」
女の子に絶対守る宣言をされてしまい、自分の情けなさに少し泣きたくなったが、すぐ後に見せた痛ましげな顔を見た瞬間に、そんな小さな悩みはどこかへ消え去ってしまった。
「ていうかセンパイ、そろそろ行きましょう」
「え、行くって……?」
「ここにいたら、また化け物に襲われますから。少し歩いた先にある廃村で、あたしらみたいな人間が寄り集まってるところがあるんで」
「そっか……ありがとう」
「お、お礼なんてそんな……っ! あたしがやりたいことなんでッ」
もたつく僕を苛立ちもせず待ってくれる霧雨さんに感謝しながら、僕は彼女についていく。
霧雨さんの少し後ろを歩きながら、改めて彼女を眺め見る。本当に綺麗な人だと思う。
赤いセミロングの髪に、気の強そうな吊り上がった瞳。腰に差した日本刀や、火と花の模様をあしらった赤い色彩の羽織を纏う彼女の姿は、火や炎という熱い何かを感じさせる。
ただ、何よりも気を引くのは羽織の下に着ている服だろう。
どこかの学校の制服だった。全く見覚えのないものなので断定はできないが、デザインや霧雨さんの雰囲気からして中学校のものだろう。制服の中では結構かわいい部類に入ると思う。
そのあまりにもこの世界の雰囲気と合わない衣装に違和感を覚えてしまう。
おどろおどろしい赤い色彩の世界。怨嗟と憎悪の叫喚が常に充満する地獄のようなこの場所で、制服を着ているというのはどうなのだろうか。
そこでようやくというか、僕は自分の格好に意識が向いた。
紫色のTシャツと黒の長ズボン。そしてその上から紫色の羽織を纏っていた。
地味で冴えない衣装の上からこんな派手な羽織を着るのはどうなんだろう。一瞬脱ごうかなとも思ったが、こういう和服的なものを着るのは初めてで少し楽しいのでそのままにしておく。
広野のような場所からしばらく歩くと、崩壊した街に差し掛かる。それなりに大きな町だったのだろうか、結構な数の住居が並んでいる。そしてやはり、家屋はどれも天井が低く現代のものではない。というか、よく見れば地面の下に空間がある。竪穴式住居だ。竪穴式と言えば縄文時代を思い浮かべてしまうが、平安時代の庶民の家屋も竪穴式だと何かで見たことがあるので、もしかしたらこの世界は千年前の日本なのかもしれない。……――まさか。
脳裏にある考察が浮かび上がる。それを補強するため、霧雨さんに声をかけることにした。
「ねえ」
「ひゃ、ひゃいっ!」
「え、なんて?」
胸に浮かび上がった気持ちの悪い推測が正しいかどうか確かめるために声を掛けたのだが、思いのほかびっくりさせてしまったらしい。霧雨さんはかぁあっとその端正な顔を朱に染めて俯いてしまった。
「あの、ごめん」
「いえ……その。謝らないでください。あたしが悪いんで……」
恥をかかせてしまったことが忍びなくなって謝罪したが逆効果だったらしい。
僕は気を取り直して質問をすることにした。だいぶ物陰も多くなったし、良い頃合いだろう。
「ねえ霧雨さん。霧雨さんはこの世界のこと、どれくらい知ってるの?」
彼女は僕のほうを振り返るとふるふると首を振って、
「すいません……あたしも現実世界からこっちに飛ばされてきた口なんで、この世界のことは全然わかってないですね。他の人もそうだと思います。少なくともあたしが会った人たちが何か目新しいことを知ってる感じはなかったです」
「そうか……」
神妙につぶやく僕を変わらず見つめながら、霧雨さんは「でも」と続けた。
「敵とは何度か殺し合いました。しかもさっきみたいなバケモンじゃありません。誰も彼も人型。まあどっちかっていうと、人間の形をした怪物って感じでしたけどね」
「結構物騒な言葉使うね……それでどうだった? 喋ってくれた?」
「一人だけ。多分あたしを絶望させようとかそんなことを思ったのかもしれないですけど、『もう死んでるんだからお前はやりたいこととかないだろうし、俺のために死ねよ』みたいな。最低の悪党だったんで二度と悪さできないようにタコ殴りにしましたけど」
…………。今なんて言った?
だが、霧雨さんは僕の戦慄や疑問には気づかずに、そのままさらに言葉を続ける。
「あいつの口ぶりからして、ここにいる人たちは全員死んでますね。少なくとも、あたしらが現実って呼んでた世界で一度は必ず」
事実、少なくともあたしは一回死んだ記憶がある――そんな重い事実を、霧雨さんはあっけらかんと口にした。
自分の死に対する感慨が薄すぎやしないだろうか。
そう思っていたが、しかし次の瞬間にはその表情に影が差す。苦々しげに唇を噛む彼女は僕のほうを向いていて、
「……センパイも、同じなんですよね」
「え、まあ……うん」
それを聞いて、まるで見たくないものから目を背けるようにそっぽを向いてしまった。
そういえばさっき僕と出会った時も、その後に僕を守るといった時も、今と似た反応をしていた。順当に考えれば、その反応は僕の死を彼女が悼んでいるというものだろうが、どうあっても彼女と面識があったようには思えない。僕が忘れているだけだろうか。
もっとも、これに関しては彼女の口から聞かねばわからないことだ。現状、霧雨さんが生前僕と面識がないと主張している以上、この話はここで打ち止め。進める意味はないだろう。
よって、思考の行き先は最初へ戻って『この世界』のこと。
霧雨さんからもらった情報は『ここにいるのは一度死んだ人間のみ』というもの。
そして僕が自分の足で手に入れた情報は『この世界の地形は日本列島と酷似していること』と、『家屋は全て竪穴式住居。それも全て倒壊している』という二点。以上から――
「もしかして、この世界って並行世界みたいなものなのかな?」
「並行世界? ……パラレルワールドってことですよね」
そういうの知ってるんだ、と少し感心したが、それは表に出さず僕は考察を続けた。
「うん。安直に考えればこの世界は天国や地獄みたいな死者の世界なんだろうけど、ちょっとどっちもしっくりこない。だとすればそれ以外の何かじゃないかなって」
そこで注目すべきが崩壊した集落、朽ちた竪穴式住居の数々。
「この世界は千年前――あるいはもっと前――に人類が滅びて、それからも変わらず時計の針が止まらなかった世界なんじゃないかな」
これが現状の結論――というか、僕の今の段階での推測だった。
……なんてドヤ顔で一席ぶってしまったが、正直合っている気は全くしない。というか絶対に間違っている。
そもそも、こんな穴だらけの考察を聞かされた霧雨さんはどう思うだろうか。鼻で笑われてもおかしくないような気がする……
そう内心その反応に怖がりながら彼女のほうを伺いみると……
「な、な、な……なんて素晴らしい考察なんですかセンパイ! 卑賎にして凡俗、センパイに比べれば下水道を這い回るネズミ以下の存在でしかないあたしにはその一端にすら触れられない高尚な頭脳! その頭の中にはいったいどれほどの神秘が詰まってるんですか本当に! ああ――こんな特等席でセンパイの演説を耳にすることができるなんて、あたし死んでよかったです!」
「は、え……はぁ!?」
何言ってるんだこの子!? 怖いっ、ちょっと怖いよ! ていうかこれ、本当に褒めてるのッ? 褒めてるように見せかけて本当はめちゃくちゃ貶してないかな!?
「ぐっ……一生センパイについていきますっ。この出会いに、感謝を! ありがとう神様」
「キャラ変わりすぎだよ霧雨さん……!」
「はっ! う、うぅ……しまった、お見苦しいところを見せてしまいました……っ」
「いや、別にいいんだけどさ……」
それはそうとして、よくもまあ出会って一時間も経っていない男をこれだけおだてられるものだ。いや、皮肉とかではなく本当に。強くてかっこいい女の子だと思ってたけど、意外と面白い子なのかな。
しばらくそんな風に見ていると、霧雨さんが僕の視線に気付いたらしく、かぁあっと顔を赤くした。それを見て、つられて僕も赤くなってしまう……って、だから何を考えてるんだ!? ぼ、僕には一応、きちんと好きな人がいるっていうのに。いや……まあ、死んでしまったので想いを告げることもできないのだけど……。
というか、ああ――そっか……僕はもう死んでしまった以上、ゆかりちゃんに告白することすらできないんだ。
そんな当たり前のことに気付いた瞬間、僕の心は急速に冷えていった。
たとえこの世界の真実を突き止めようとも、僕がどうなったのかを知ろうとも、僕が死んでしまったことにかわりはない。
そして、それを自覚するたびに何度だって僕を襲う恐怖。すなわち、僕はもう何も成せず、何者になることもできない亡者だ。
「……センパイ」
そんな僕の心中を悟ってか、霧雨さんが沈んだ声を出す。
ああ、まったく僕は何をやっているんだ。女の子に気を遣わせるなんて。
沈むのは後だ。今は生き残るすべを考えないと。この世界に転生したことに意味があるのかは未だわからないが、それでもここで終われば本当に今度こそ次はないと確信しているから。
だから、光も希望もなくとも前を向かなければ――そう認識したその時に。
どくん――左腕が、脈動した。
同時、走る悪寒と巡る戦慄。全身が粟立つ感覚は、根源的な恐怖から。突き刺さる憎悪怨嗟と絶望の螺旋波濤に、僕の魂が震え上がった。
しかも、何だこれ……膨大? 濃密? 違う、もはや言葉で言い表すことすらばかばかしいほどの負の想念、その総数と質量が、一キロほど先から全方向へ無尽蔵に吐き出されていた。
さっきの三つ目とは比較にならない気配――いいや、もはや重圧とすら言えるこのプレッシャーは、物理的圧迫感すら与えてくる。
「なん、だ……これ」
「え? センパイ何か言いましたか? ……って、あ。センパイ、村が見えてきましたよ!」
声に、霧雨さんが振り返る。その表情は目的地が見えたことで喜んでいる様子。……まさか何も感じていないのか? これだけの負の波濤を押し付けられて。信じられないものを見るような視線を霧雨さんに向けても、彼女はわかっていない様子だった。
……だが、次の瞬間に僕らの前に広がった光景を前にして、彼女もまた異常事態に気付いた。
「滅んじまった街なんで家とかはボロボロですけど、って……え……?」
言葉が途中で切れる。続いた疑問の声は、あまりに唐突な狂騒に困惑したからだろう。
燃えていた。赫々たるこの地獄のごとき世界のなかであってなお煌々と光る炎。
おそらく僕らが向かっていた廃村だろう。少なくない数の人が寄り集まって生きていると聞いていたが、あれでは無事なわけがない。
燃える廃村の上空には、明らかに既存の生態系から逸脱した姿の化け物たちが、金属を擦り合わせたかのような不快な鳴き声を発している。無論、地上からは苛烈な怒号や絶叫がここまで響き渡っている。だが、何だろうか……この違和感。何かが、おかしい……?
絶叫や怒号が響き渡っていることは何もおかしくない。だが、何かが引っ掛かった。
その違和感の正体は全く分からないが、なぜかこの違和感はこの世界の謎に直結しているという確信もまた同時に存在した。
「行きましょう、センパイ……ッ。あんなの、見過ごせるわけないです……ッッ」
僕がつらつらと考え事をしている間に、すでに彼女は覚悟を決めていたようで、僕を促す。
しかし……
「え、え……?」
行くのか、あそこへ……? あんな狂乱極まる地獄の渦中に、僕ら二人で乗り込む……?
「センパイ……?」
困惑し返答に窮していると、霧雨さんが不思議そうに僕に振り返った。
「え、いや。あ、ああ、うん。そう、だね。行こう……っ」
――ッ。何を、やってるんだ僕はッ。
何を怖気づいているんだよッ。今もあそこで苦しんでいる人がいるかもしれないのに、わが身可愛さに逃げようだなんてどうかしてる。
心を叱咤し、覚悟を決めて街を仰ぎ見る……が、どうしても根源的な恐怖はぬぐえない。足が震える。行きたくないと無意識が叫んでいる。あんな騒乱のさなかへ突っ込んでいくと考えただけで唇が渇き呼吸が詰まった。
だって、これまで僕はこんな世界とは無縁だったのだから。これまで過ごしてきた世界は空が青く空気は澄んでいた。そこに真っ赤な泥を吐き出す孔なんてなかったし、空気の中に人間の絶望が漂っているなんてこともない。当然、異形の怪物だって一匹たりとも存在しなかった。
そんな僕の心中を察してか、こちらを見る霧雨さんが張り詰めた表情を一変、慈愛に満ちた柔らかな笑顔を向けてきた。
「……センパイ。怖いならここにいても大丈夫ですよ。あたしが全員助け出してくるんで」
「――――っ」
「あんなとこ、普通は行きたくないもんです。だから、行きたくないならそう言ってください。……せっかく会えたのに、今度はセンパイが遠くに行くなんて……そんなの絶対嫌なんです」
そう言って僕に背を向ける霧雨さん。その後ろ姿は相も変わらず凛々しかったが、今はそこに感慨を覚えられるほどの余裕はなかった。
……自分の情けなさが嫌になる。僕は血が滲むほど拳を握り締め、その痛みでもって覚悟を決める。
怖くても、死にたくなくても……それでも、女の子にここまで言われっぱなしでは、本当にどうしようもない人間になってしまう気がするから。
「行くよ。大丈夫」
精一杯の空元気で、微笑みかけた。霧雨さんはかぁあっと顔を赤くしながらも、嬉しそうにうなずく。
「先行しますッ。あたしについて来てくださいッッ」
そうして辿り着いた廃村で、僕はようやく先の違和感の正体を理解した。