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ナラカマンダラ  作者: 上滝
2/5

第一幕 ここは地獄か異世界か、光は未だ芽を出さず。 壱、遅延邂逅

 ああ――寒い。

 痛みも苦しみもない、ただ凍るような寒さだけが僕の身を包む。

 胸と腹から暖かな何かが流れ出て、僕の中にあった命の熱が消えていく。


「――ず! ……でっ! ――――! ……ッ! …………! っ、……!」


 隣で僕と同じように刺された見ず知らずの誰かが喚いていた。

 聞こえるのは――『役立たず』『助けてよ』『なんであんたなんか』『わたしはしにたくない』


 ……ああ、僕は。守れなかった、のか……。


 ごめんなさい、僕で。

 やっぱり、だめみたいだ。僕は下らない人間だから、何もできない。

 あなたのもとに駆け付けたのが僕じゃなかったら、助かったかもしれないのに。


 ああ、だめだ。もう、いしきが…………――


 ごめん、ゆかりちゃん。


 いっしょに星をみるっていったのに、やくそく……まもれそう、に……な……――――……


☆ ☆ ☆
















 結局、僕はこの世界に何も残さず、何も刻めず、誰にも見向きもされないまま死んだ。


 それでも終わりは、来なかった。
















☆ ☆ ☆


『地獄』――その単語に、人はどんな光景を想像するだろう。

 血の池? 針の山? 岩の如き肉体と壮絶な面貌を持つ悪鬼の群れ? 苦しみ悶える罪人の悲鳴絶叫? 夜明けの来ない暗色の空と、毒々しい赤色の世界?


「……なん、なんだ……ここ…………」


 おそらくそうしたイメージは人類共通のものだろう。基督教や仏教、あるいはダンテの神曲、地獄のイメージとはおおよそが赤と黒で構成され、咎人が閻魔や冥王の判決に応じた罰を受けて絶叫する。それらは心理学用語では元型などとも呼ばれる、多民族・他宗教間に見られる神話的共通項だ。

だが実際は、順序が逆だったのかもしれない。


 つまりは、最初からそういうものがあったのだ。どの宗教にも地獄という概念が存在するのは、それが実在していたからなのかもしれない。


 かつて僕を無感動に見下ろしていた青い空はどこにもない。星一つない暗色の下地と、その中天に穿たれた孔。そこから憎悪と怨嗟と悲嘆に塗れた赤い泥が常時垂れ流れており、その赤色が暗黒の空に禍々しい赤色を塗っていた。

 目に見える範囲の景色は殺風景というか、荒廃していた。倒壊する木造建築の数々。明らかに現代の科学技術には遠く及ばぬ建築技術で作られた建物の数々は、原型を保っているもののほうが少ないくらいだ。


 小鳥のさえずりや虫のざわめき、人の忙しない足音はどこにもなく、耳に届くのは行き場を無くした亡者の叫喚ばかり。周囲三百六十度から突き刺さる大小さまざまな負の感情の出どころは特定不可能。おそらくそれらの大半があの孔から溢れ出る泥を源としているのだろうが、この異世界の空気そのものがもはや負の想念に侵されているようにも思える。


 鼻に突き刺さる異臭も、この世のものとは思えぬ血や臓物を連想させるような異臭だった。


「僕は、何を……、それに。ここは何だ……?」


 明らかに地獄。紛れもなく罪人の行きつく先のようにも思えた。しかし、そう断定するにはあまりに自由が許されすぎているようにも思う。

 手足は縛られず、列には並ばされず、閻魔大王もおらず罰も受けない。見える範囲に血の池や針の山も見えないし、どうも想像した通りの地獄というわけではなさそうだった。


「…………」


 数秒黙り込み、思考を巡らせるが答えは出ない。あまりに材料が足りなさすぎるし、何より僕自身混乱から立ち直っていないのだ。

 僕はつい先ほど死んだ。

 ほんの数分前、暴漢に襲われていた女性を助けようとしたが、返り討ちに遭い殺された。

 そして、すぐに目が覚めて、今こうして謎の世界に一人取り残されているわけだ。


「あの人は、どうなったんだろ……」


 沈んだ声が口から洩れる。いいや、わかっているはずだ。きっとあの人も殺されてしまったのだと。

 ……なら、もしかしたらこの近くにいるのかもしれない。同じ場所で、ほぼ同時に命を落としたのならば同じ場所にリスボーンしてもおかしくないはずだ。

 が……人の気配は感じない。ただ怨嗟と憎悪の想念が渦巻いているだけで、確固たる人間の姿が見当たらなかった。


「……とにかく、行こう」


 ここが何なのか、どういう世界なのか。

 僕には皆目見当もつかない。辛うじて『地獄』なのではと想像してはいるが、それを妄信してしまうのは確実に危険だ。

 自分の身を守るためにも、今すぐ動かないと――――


「ぐ、っ。うっ!?」


 自分の身を、守る――?

 自分の身って、何だ……?


 僕は死んだ。死んだんだぞ……? それなのに、何を何からどうやって守るというのだろうか。

 もう、僕の人生は終わったんだ。もう、あの世界には帰れない。苦しくて、息苦しくて、だけどそれでもまだ光を目指す余地が残っていた現実には、もう戻れないのだ。


 だって、死んだのだから。

 そう、死んだ。死んだのだ。僕は死んだ。人貴光夜は死んだ。死んだ、死んだ、死んだ。

 ここがどんな世界だろうと、僕の命は明らかにあの時終わった。

 死んだら生き返れない。死んだらそこで終わり。死んだら何もできない。


 高尚な夢や、成したい理想があったわけではない。それでも、今は駄目な男だったとしても、将来には明るい未来が待っているかもしれない。頑張れば僕にだって誰かの光になれるかもしれない。僕は弱くて頭が悪いくだらない人間だったけど、それでもそれくらいの期待や希望は持っていたのだ。


 だけど、それはもう叶わない。


 幼馴染(ゆかりちゃん)とした、今夜星を見に行こうという約束も、彼女に僕の気持ちを告げるという些細なことも果たせないまま、僕は死んだ。


 それでも、僕は歩き始める。

 希望が失われたのだとしても、今こうして〝僕〟という存在がいる以上、死――と呼んでいいのかわからないが――に対する忌避感情は残っているのだから。


 当てのない旅。地獄旅行が始まった。


☆ ☆ ☆


 歩いて数分。わかったことと言えば、この異世界は日本列島と同じ地形をしている可能性が高いということくらいだろうか。少しばかり歩いたけれど、僕の地元と共通する地形がいくつか見つかったのだ。

 その一つが、少し遠くに見える小高い山。生気溢れる森林は見る影もなく、異臭を放っていそうな腐った木々に覆われているものの、あれは家の近くにあったものだ。見間違いではない。


 幼馴染の女の子――ゆかりちゃんと、一緒に星を見に行こうと約束した場所で、今日僕が登るはずの山だった。


 あとは何もわからずじまい。人の気配は相変わらず見当たらないし、周囲に充満する陰の気に変化もない。

 もう少し歩いてみよう。そう決めて歩を進めた瞬間のことだった。


 フッ――、と影がかかる。大きな物体が頭上に覆いかぶさるように出現した……?

 疑問にとらわれ。何だろうと呑気に振り返り、見上げたそこに――


『ギ、ギギ……ダマ、じィ……イダイだすげで、げぎょぎゃ、ビブ……だず、』

「は、え……?」


 体調は三メートルか四メートルはあるだろうか。僕よりも一回りか二回りは巨大な体を持つ三つ目の異形が、まるで餌を前に舌なめずりでもするかのようにこちらを見下ろしていた。


「…………な、にが」


 その体内にて渦巻く陰の気。霊感などない僕でもわかる。あの中にある邪念の総数・質量は、この世界の空気中に漂うそれよりも遥かに巨大で、濃縮されている。というよりも、これら負の想念を集めたものがこの異形なのだろう――などと冷静に分析しているのは、状況を呑み込めていないから。こんなことをしている場合ではない。今すぐ動け、でないと、あの人ひとりを丸呑みにできそうな大口に食われて終わる――ッ!?


「ぁ、ああああああああ!?」


 恐怖を押し殺すように腹の底から声を上げ、ようやく体が言うことを聞いてくれた。その巨体をもって僕を押し潰すかのように迫ってくる化け物から逃げるため、先のことなど何も考えず回避行動をとった。恥も外聞もなく、地面に飛び込むように横へ逃げる。

 背後でガチン! という硬質な音が鳴り響く。僕の体には紙一重届かず、第一撃を何とか無傷でやり過ごしたことを悟る。


 しかし、それで窮地を脱したわけではない。

 歯が空気を噛み獲物を食い損ねたとすぐに理解した異形は、首をぐるりと捻ってこちらを向いた。三つ目がちろちろとあちこちを動き回り、やがて情けなくしりもちをつく僕を射抜く。


「――、っ!」


 恐怖に身を竦められぬよう唇を噛み千切ると、砂を握り締め三つ目めがけて投げつけた。

下らない抵抗だとはわかっているが、何かしなければ心が恐怖に屈しそうだったのだ。


『ギキィ! イダイ! メ、め、メッ! イダイ! ナニ、ズルゥぅウあアあギャァァアア!?』


 悍ましい絶叫を上げ、僕へ明確に怒りを向ける三つ目の異形。

 心臓が縮み上がり、卒倒しそうになる。唇の痛みのおかげでそれだけは避けられたものの、体が言うことを聞いてくれず、しりもちを付いたまま後ずさることしかできない。


 どうする、どうする、どうする――!?


 このままでは食われて死ぬ。

 そして死ねば、本当に終わりだろう。次はないに決まってる。今回のように自我を持って違う世界へ飛ばされるなんて、そんな都合のいいことは絶対に起こらない。


 だから、嫌だ。まだ、終わりたくない。まだ終われない、終わるわけにはいかないんだ。

 だって、僕は――

 僕はまだ、だって――何も、成していないじゃないか。


 その最後の未練(いじ)が、僕に勇気(ちから)を与えてくれた。

 叫び散らして特攻しそうになる弱い心を押し殺して、思考を巡らせる――その刹那。


 どくん――と、左腕が脈動した。


 何かが目覚めるかのように。あるべき僕の魂が、ようやく励起するかのように。


 どくん、どくん、どくん――と。


 三つ目が僕に向ける怨嗟が膨張に呼応するかのごとく、僕の左腕は熱を帯びていき――


「――伏せてッッ!」


 その何かが目覚めるその直前、凛々しい少女の声が響き渡り、銀の斬光が異形を襲った。


『イダッ!? ゲギャァ!?』


 苦悶を漏らしてのけ反る異形の背後から、一本の日本刀を持った少女が飛び上がる。セミロングの赤髪がふわりと揺れる。凛々しい黒瞳(こくどう)が三つ目を正面から睨む。頭を地面に向けて異形の顔のさらに上を舞う少女は、力を溜めるかのように腰に刀を構えた。だが、間合いから大きく外れている。あれでは刀が届かない――そう思っていたが、しかし。


妖畏(オソレ)()レ――〝髭切一刀(ひげきりいっとう)〟」


 一言――静かに唱えた――その直後。

 キン、と少女の中心から得体のしれない力の奔流が吹き上がる。剣気か? ――いや、違う。


「ふっ、ハァアアッッ!」


 気合の喝破とともに振るわれる一閃。だがしかし、どう見ても間合いの外だ。

 だけど――銀線が、飛んだ。


『ギジャァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッっっッ!?』


 地獄の赤すら弾き返す銀色の斬撃が飛翔して、三つ目の顔面を深く切り裂く。裂傷部から真っ黒な液体のような〝ナニカ〟が噴き出し、まるでそれを追い求めるかのように三つ目がよろよろとこちらへ歩いてくる。


「――ッ!」


 身を強張るのを必死に我慢し、僕は立ち上がった。

 どうすればいいかわからない。だけど、少なくともここでしりもちを付いていれば彼女の邪魔になることだけはわかる。


「下がって!」

「う、うん!」


 男として女の子に守られているという状況には、正直忸怩たる思いがある。だが、だからといって意地を張ってもいいことはないだろう。僕は弱いし、頭も悪い。なら、せめて今はこの子の邪魔にならないよう下がるべきだ。

 とん、と一歩下がる僕。そこにちょうど女の子が着地して、またもセミロングの赤髪がふわりと揺れた。着地と同時、刀を鞘に納めて――深く息を吸う。


「もう休めよ、霧散しな。あたしがあんたらを終わらせてやる」


 抜刀。

 神速の居合は間合いをいとも容易く超越し、三つ目の異形を上下に両断した。

 黒い液体のようなナニカが先ほどの倍以上の噴き出し、その体がグズグズと崩れていく。

 赤髪の女の子は残心を取り、やがて異形が原型を残さぬほど崩れ去ったことを認識すると構えを解いて刀を収めた。


「――――」


 凄い、何て身のこなしなのだろう。

 僕なんかでは到底届きそうにないその闘気と剣気、そして積み重ねた鍛錬を垣間見て、掛け値なしの尊敬をその少女に抱いた。

 少しの間圧倒されてしまった僕に対し、少女のほうは慣れているというか、特に緊張をしている様子はなく、ため息交じりに呆れた調子で話しかけてきた。


「ふぅ――大丈夫ですか? 多分ついさっきここに落ちたばっかなんでしょうけど、いくら何でもだだっ広い道を一人で歩くなんて――」


 何気ない様子でくるりと振り向き、呆けてバカみたいな顔の僕と目が合う。


「――まったく、不用心すぎで、す………………………………よ……………………って、え?」


 瞬間、赤髪の女の子はまるでありえないものを見たかのように目を見開き、次いで硬直し、さらに顔を真っ赤に染め、すぐさまその色を蒼白に変えて――


「うそ」


 そして、俯いてしまった少女は、この世の終わりに直面したかのような絶望に塗れた声を上げた。


「え?」

「…………うそ、だ……こんなの」

「???????????」

「なんで、こんな……っ。あんまりだ……ひどい……」


 ぐっと唇を噛み、何かを堪えるように拳を握るその姿に、僕は困惑を隠せない。訝しげに眉をひそめ、首をかしげてしまう。だが、少女が僕の困惑に気付く様子はついぞなく、僕は失礼とはわかっていても仕方なく問いを発した。


「えっと、ごめん。もしかして、僕らってどこかで会ったことあるっけ?」


 その一言でようやく我に返ったのか、女の子は伏していた顔を上げ、まっすぐに僕を見つめる。

 その表情には痛々しさとやるせなさ、そしてなぜか怒りが宿っている。

 全く身に覚えのない僕にはその理由は全くわからない。

 少女はしばらく逡巡する。ただしそれは、答えられないというよりも、どう答えていいかわからないからという部分が大きいように思えた。


「いえ……初対面です」


 血が滲むほど唇を噛んでそう答えた。

 釈然としない想いを抱きながらも、ともかく僕らはこうして出会ったのだ。


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