序幕 英雄と凡人
八月二十日、僕の命は終わりを迎えた。
――――それでも人貴光夜の人生は終わらなかった。
序 英雄と凡人
地獄の、底の、底の、底の、底の、底の、底の、底の、底の、底の、底の、底の、底――
弱者に敗者、落人、溢者――総じて己の生に絶望を抱き、されど否だと吠え狂う者どもだけが跋扈する死者の世界で、僕は二度目の死を迎えようとしていた。
「ぎ、ィ――が、ァ……ぐぅッ……は、ァっ!」
激痛と恐怖、加えて疑問に彩られた呻きを漏らす。
これはいったいどういうことか、つい数時間前に死んだばかりだというのに、どうして僕は今またこうして死に瀕しているというのだ。
ここがいわゆる地獄だということは堕ちて数秒で理解した。
霊感などない僕でもわかる、肌に突き刺さるかのような悪意と怨嗟と憎悪の波濤。これに晒されてここが天国だと言える人がいるならば、僕はきっとそんな人とは仲良くなれないだろう。
――が、僕に二度目の死を与えようとしているのは、そんな曖昧模糊とした概念などでは断じてない。
「くく、くははははは! ははっ、ふはははははははははは! 良い、良いぞ貴公ッ! 見ず知らずの女子のために未練を諦めるか!? 何たる愚挙、何たる蒙昧! しかし、だからこそ良い、だからこそ期待できる! つい先日この奈落に落ちたばかりの一等級、未だ己一人分の呪力しか持たぬ屍人の身で、格上たるこのわたしに抗うその気概や良し! ならば奮い立て、覚悟を決めよ。そしてわたしを撃滅するのだ! 至高の敗北を! 至上の終焉を! さあ、貴公の光でわたしという邪悪を討つが良い! それを誰より、敵対者たるわたしは望んでいるっ!」
朝日は昇らず、星々の瞬きすら存在を許されぬ暗色の空――その中天にて、血色の涎を吐き出す孔を背に呵々大笑する道化のような少年と、彼の周囲に侍る大小さまざまな異形の化け物。
少年の発する紫電は的確に退路を塞ぎ、異形の爪牙はそのひと振りで地獄の大地を深く抉る。
支援と必殺――その双方を駆使されて、僕は対敵から五分足らずで満身創痍と化していた。右腕は千切れ飛び、全身に裂傷を負っている。
痛い、怖い、逃げたい、嫌だ、苦しい助けて。なんで僕がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。勝てるわけないだろうあんなもの。僕は陰気で友達も少ない、本当にただの弱虫のガキなんだぞ――そう叫びたくなる気持ちを必死に抑えて、それでも僕は女の子を守るように二本の足で赤い大地を踏みしめている。
異形の左腕を軽く振り、指を一本ずつ閉じて拳の形を作る。
「……っ、下がってて」
「――っ! セン、パイ……センパイっ! もう、もういいです! 逃げてください! あたしは、センパイがこんなところで……ッ! あたしなんかを守るために死ぬのなんて見たくないです……ッ!」
「騒ぐでない小娘っ! 今その男が貴公を守るため、わたしを撃滅するがために奮い立っておるのだ。その意地に口を挟むでないわ。口を慎むがいい。もはや貴公の出る幕ではないッ!」
「……――っ! て、めぇ……!」
「――大丈夫だから、下がってていいよ」
怒気をあらわに、今にも少年目掛けて飛び出さんとする少女を無理やり抑えて、僕は挑むように一歩前へ踏み出した。
「ほう……ほうほう! 覚悟を決めたか? 決意を固めたか? わたしに打ち勝つ算段が整ったか!? ならば良し、試すがいい。わたしは全力で迎え撃とうではないか! 貴公はわたしの本気を超越してくれるか? このわたしに、閃光のごとき終わりを与えてくれるのか!?」
「ぐ、ぅ……ッ」
見逃してくれる気配はない。だったら――
「ぅ、ぅう、ううう……っ」
もう、勝てる算段なんてなくても、特攻するしかないだろう?
だって――僕の後ろには、女の子がいるんだから。
守るしか、選択肢なんてないじゃないか。
だからこれが、一世一代の大博打。人貴光夜の最初で最後の決戦だ。
「ぅぅぅうううぅううあああああああああああああああああああああああああああああッッ!」
「素晴らしいぞ貴公ッッ! さあ、貴公の光でわたしを殺せぇぇぇぇぇええええええッッッ!」
今にも逃げ出したくなる自分を殺して、今こそ僕は、終わりへ続く道を駆け出した。
紫電が身を焼く。
異形の爪牙が降り抜かれる。
こうして僕は、予定調和の結末とともに、今度こそ無明の底へと落ちていく。
――その刹那。
「妖畏、在レ――〝嚩嚕陀祈雨〟」
僕と異形の間に、雄々しく眩しい『英雄』の背中が割り込んだ。
戦時中に主に着用されていた国民服と呼ばれる着衣の上から、いくつもの布で継ぎ接ぎされた羽織を纏う益荒男。
水色の髪はこの地獄にあってなお荘厳な正義と慈愛の輝きを宿しており、僅かに覗く横顔とその瞳には、冷淡にして熱烈という矛盾した決意が宿っていた。
僕を庇うように立つその人が拳を握る。握った拳に水流が渦巻き、ぎゅるりと音を立てた。
そして――
「――――」
無言の意気を発っされるとともに、岩のごとく握り締められた拳が彼の十倍以上もある異形目掛けて振り抜かれ、いとも容易くその爪牙を木っ端微塵に粉砕した。
「な、にィ……?」
「うそ……」
道化の少年、そして背中に庇う女の子が驚愕の声を上げる。
そんな中、僕は彼らとは全く異なる反応を示していた。
「――――――――」
すなわち、絶句。
言葉を無くした。
その輝きに、眩しさに、心の奥底からマグマの如き憧憬が沸き上がる。
強く、気高く――雄々しい益荒男。
こんな人がいるなんて。
こんなにも正しくて、強くて、眩しい人が。
ああ――僕は彼に、光を見た。
英雄は異形を拳一つで押し返したことに対して、まるで誇っていない様子でさらに構える。
――この日、僕の旅路は決まった。
「安心しろ、少年――ここから先はオレが担おう」
――人貴光夜は、英雄のような男になりたい。