一面の青だった
20191003改稿。
一面の青だった。
目に鮮やかで、どこまでも続いている。
まるで心まで吸い込まれそうな清々しい青だ。
それが全周に広がっていた。
遥か彼方に霞んで見える地平線は緩やかなカーブを描いている。
「地球って、本当に丸いんだ……」
そうつぶやいたはずの自分の声が聞こえない。耳に届かない。
聞こえてくるのはゴゥゴゥ、ビュウビュゥという風を切る音ばかりだった。
髪の毛は逆立ち、衣服も千切れんばかりにはためいている。
「これは……夢?」
そういえば夢の中で空を飛んでいる場合は上昇を続けるよりも落ちる方がよい夢だなんて話を聞いたことがある。
それが事実なら、これほど明確な落ちる夢なんてラッキー以外なにものでもない。
だが、しかし、ちょっと待ってほしい。
「こ、これはいくらなんでもリアルすぎないか?」
全身に感じる風も、重力に引かれて落ちていく感覚も、ぐるぐると回り続けている青い空と緑あふれる大地も。
このまま落下を続けて地面に激突すれば命はない。
それを覚悟できるだけの現実感があると五感が訴えていた。
両手と両足を広げて全身で風を受け、海老反りの姿勢を取ろうとする。
要するにあれだ。テレビなんかで見るあのポーズだ。
風圧で思うように体は動かないし、視界が回るからどっちが上だか下だかもわからない。
とにかく手を伸ばす。足を振ってバランスをとる。
もがきながらも少しずつ状況を整え、なんとか思い通りの形にすることが――
「ぐはあああぁぁぁぁぁぁぁ……っ」
これでよしと思ったのも束の間、今度はまともに目を開けていられなかった。
顔をそむけ、ぎゅっと目をつむる。
風圧に顔の肉が歪められるのがわかる。
おそらく、にらめっこをすれば百戦して百勝できるであろう表情になっているはずだ。
周囲に空気があるはずなのに、まったく呼吸することができない。
息苦しい。
目が開けられない。
駄目だ。これは駄目だ。
「くっ……このぉ!」
なんとか体を回転させて、背中を下にすることができた。
おそらくそうなのだろう。
目に入るのは一面の青い空。
背中には相変わらず圧倒的な風の圧力。
感覚が間違っていないのなら背中を下に向けているはずだ。
「すううぅぅぅぅ……はぁぁぁぁぁぁぁ……」
大きく深呼吸をする。
とにかく肺へ空気を送り届ける。
「ごほっ、ごほっ、ごほ……っ」
いきなり空気を吸い込んだせいか咳が出た。
「ふぅふぅ……これでなんとか……」
状況を整えることができたはずだ。
両手足は広げて少しでも風の抵抗を受けるようにする。
ひっくり返ってしまわないようにバランスを取るのは思っていたより簡単だった。
「うおぉぉ……やっぱり、すごい……!」
見えているのはどこまでも鮮やかな青。
落下しているのに、まるで吸い込まれそうなほど空は青かった。
『空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた』と残した宇宙飛行士がいたが、この青を見るとにわかには信じられない。
世界は青かった。
「あおい……」
落下している状況を忘れて、思わずその青さに心が縛られる。
「あおい、ですか。よい色です」
「ああ。こんな空をあいつにも見せて………………誰だ?」
大量の細く長いものが背後からばさりと広がって視界を覆い尽くそうとする。
「な、なんだぁ?」
心なしか背中に感じていた風圧が弱くなったようだ。
それでも落下している感覚は続いている。
「吾と主様の心はこれで一つとなりました。吾の力を存分に振るってください」
「だ、誰だ? 誰かそこにいるのか?」
耳から聞こえてくるのではない。
まるで心に直接囁かれているかのような感じがする。
そもそも風のせいで自分の発した声すら聞こえないような状態で、こんなにはっきりと言葉が理解できるとはどういうことなのか。
「吾は主様のもの。常にお側にあるもの。いかなるときも主様を守るもの……いかようにもお使いください」
「そ、それなら、まずはこの状況をなんとかしてくれっ」
自分の体重とこれまでの経過時間を考えると、すでに二千メートル以上は落下しているはずだ。
ミンチよりひどい状態になるまでそう時間はかからないだろう。
「わかりました。どちらにせよ、主様にはやらなければいけないことがありますから」
体の自由がきかない。
手足の先からゆっくりと感覚が失われていく。
「こ、これは……」
青一面だった視界が、四隅から暗く滲むようにぼやけていく。
「戦って生き残らなければなりません。大丈夫です。主様には吾がついているのですから……」
おいおい。「戦って生き残らなければならない」だって?
そのセリフには聞き覚えがある。
僕が書いた文章だ。収録のときにだって何度も聞いた。
だからわかってしまった。
「君は……君の名前……き、君は誰なんだ……」
「先ほど主様がつけてくださったではないですか」
まるで誇らしそうに、それでいて秘密をそっと打ち明けるようなひそやかな声だと思った。
「葵、と。吾の名は葵。機巧姫――葵の君です」
優しく包み込むような声に確信する。
「……僕は夢を見ているわけじゃないんだな?」
「はい、主様は夢を見ているわけではありません」
「……僕には目的がある。そうだな?」
「はい、主様には目的があります。戦って、生き抜いて、戦乱を鎮め、世を平定していただきます」
「……戦うのは嫌だな。でも生き残るためなら仕方がないか」
「覚悟は決まりましたか?」
「ああ。僕にやらなければならないことがあるのなら、やってやるさ」
「吾を存分に使ってください。吾は主様のものなのですから。それでは参りましょう。戦う者として戦乱の地へ」
ブツンと。
モニタの電源が切れるように世界が闇に閉ざされた。
ブックマークなどしていただけると嬉しいです。