15 はぅぅ
「……はぅぅ……まだ地面が揺れてるみたい……」
船坂に着いた頃には澪は干物みたいになっていた。魂が抜けた顔をして地面に蹲っている。
「お水をもらっておいたから飲んで」
「ありがと……ふぅ。人心地ついたかも。地面が揺れてないのって幸せなことだよね」
澪の船酔いがあまりに酷いので船頭さんも気を使って速度をゆっくり目にしてくれたんだけど効果はなかったようだ。
お陰で船坂に着いた頃には日もすっかり傾いていた。
「舟が苦手だったのなら他の移動手段にすればよかったね。ごめん、気が利かなくて」
「ううん、いいの。いつもなら平気なんだけど……うぷっ。なんとなくあの舟というか船頭さんに問題があるような気がしないでも……う、ううぅ……」
「大丈夫? 背中さすろうか?」
「ふぅふぅふぅぅ。もう平気。むしろこの匂いのが気になるかも……」
顔を上げるとそこには夕焼け色に輝く海が広がっていた。沖の方では白波が立っている。
夜が近い時間のせいか、海上には大きな船が一隻浮いているだけだ。
「海の様子はこっちの世界でも変わらないんだな」
確かに磯の香りが強い。
寄せては返す波の音も聞こえ、べた付く感じのする風が髪を乱していく。
「海ってこんな匂いがするんだね」
「澪は海を見るのは初めて?」
「うん。清正君は見たことあるんだ」
「随分久しぶりになるけどね」
小学六年生の夏に行った家族旅行が最後だろうか。妹と一緒に大きな砂山を作ってトンネルを掘った記憶がある。
「うぅ。この匂いに慣れるのは大変そうだなぁ」
「大丈夫だよ。そのうち鼻が慣れちゃうから」
「だってさ。二人とも少しの辛抱だよ」
紅寿と翠寿は鼻に皺を寄せていた。眉も斜めになっていて可愛い顔が台無しだ。
「そんなに匂いが駄目なの?」
「……っ」
「うぅ……」
二人は返事もできないようだ。
「慣れるまでは鼻をつまんでおいたら」
それぞれの手で鼻をつまむ。
「少しはよくなった?」
翠寿は鼻をつまんだのとは反対の手の親指と人差し指を近づけている。
「ちょっとだけよくなった?」
今度はうんうんと頷く。
「れほ、にほひわかんらいれふ」
何を言っているのかよくわからずに首を傾げる。
「匂いがよくわからないと言っているのではありませんか」
葵の助け舟に翠寿の表情が輝いた。
「人狼の鼻が鋭敏すぎて海の匂いに過敏反応しちゃってるんだろうね。でもまあ、慣れるまではそうしているしかないかも」
僕の言葉に二人の表情が露骨に曇った。
それでも見慣れない景色に興味はあるようで、キョロキョロと辺りを見渡している。
「ひよまははま、みへくらひゃい! あっひにおっひなひまへふ!」
翠寿が指差す先を見て何を言いたかったのかを理解する。
「大きな島だねえ」
あれが水蛟たちの暮らす水江島だろう。
「もうすぐ夜になっちゃうから、須玉匠の所へ向かうのは明日にしようか」
「それは…………うん。仕方ないよね」
「まずは宿を捜そう」
浜辺に並ぶ小舟を横目に町へと向かうことにする。
海から吹きつける風を防ぐための松林を抜けていく。
「なんだか暗いね」
太陽が傾くにつれ影は長くなり、周囲の景色は色を失っていく。
「そういえば船頭さんが何か言ってなかったっけ?」
「幽霊や魔物が出るって話? 実際は日影の仲間による破壊工作なんだと思うけど」
「私もそう思う。幽霊はともかく魔物が町の中に出るなんて聞いたことないし」
「ひよまははまほみおはまは、あらひはまほっへあへるららぁ!」
鼻をつまみながら胸を張る翠寿の頭を澪が撫でてあげている。
「主様。少し急ぎませんか。雨が降るかもしれません」
見上げると黒い雲が空に広がりつつあった。
「急ごう」
足元に気を付けながら足を速める。
「人を見かけないのはその噂のせいかな」
「そうかも。あ、そうだ。これは紀美野さんから聞いた情報なんだけど、船坂でしか飲めない珍しいお酒があるんだって」
「へえ、どんなお酒なのか気になるね」
「なんでも喉がカーと焼けるほどキツイお酒らしいよ。でも不思議と美味しいんだって」
「それは楽しみだ。食事の時に注文してみよう」
「清正君ならそう言ってくれると思ってた!」
軽口をたたき合いながら道なりに進んでいく。
「あっひみへ!」
鼻をつまんだままの翠寿が指差す先に建物らしきものが見えた。




