プロローグ(1)
骨の軋む夜だった。
凍てつくような空気を肺に取り込むたび、内蔵は機能を失いつつあり、あらゆる骨はより軋んで唸り上げる感覚を味わう。
春はまだ遠い二月の下旬、大雪に見舞われた昨年の寒さに負けず劣らぬ所以は、報道番組の胡散臭い天気予報士曰く、大気に漂う濃霧のせいだという。
「はぁ……はぁ……っ!」
視界を奪い、肌をなぶる薄気味悪さは逃走する少女へ恐怖を植え付ける。
息を荒く、骨が軋んでは唸る。
疾走と逃走の違いは、そこに命が賭けてあるかどうかだ。
もっとも動物らしい危険の回避であり、人間の本能にしては珍しく明瞭な判断である。
この期に及んで、少女は命惜しさにただの動物となった。
無理もない、彼女が遭遇した怪奇こそ、巷に噂される異質な怪人――『棺桶男』だったのだから。
学生服に身を纏う少女のみを狙い、棺桶に幽閉して連れ去るという都市伝説の怪人は、霧が烟る夜に出没するらしい。
真偽は不確かだったが、異常気象に見舞われたこの街では現に、女子生徒の失踪が病のように伝染している。
様々な憶測が報道されていたのを知っていながら学び舎を後にするのが遅くなったのは、少女にとって致命的なミスとなった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
生まれ育ちの街を覆う灰色の濃霧は、土地勘のきく彼女から帰巣本能を剥奪し、骨は軋む。
家路についていたはずの道が、難攻不落の迷宮へと姿を変えていく。
未知の世界は常識を逆さまに、理性を逆さまに、思考を逆さまに、来訪者を踊り狂わせるのだ。
それはさながら、不思議をさ迷うアリスのように。
軋む骨が絶えず疲労を伴おうとも、走ることをやめてはいけない。
何故なら、それが少女に課せられた使命なのだから。
「ハァハァハァハァハァハァ――ッ!」
夜の訪れと共に人気を失う地方都市の住宅街には、骨を軋ませた二人の足音が濃霧の中へと掻き消える。
命を追う者と命を乞う者が奏でる骨の軋みは不協和音によろしく、歪なものだった。
「ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ」
骨の軋む少女が丁字路にさしかかったと気づいたのは、自分が走る道幅よりも広がる人影の群れを微かに目視したからだ。
そして、僅かながら安堵を覚えた所以は、異質なこの世界に迷い込んだ真っ当な人間が自身だけではなかったことと、此度の丁字路が自宅付近だと示していることにある。
「ハァ、ハァ、カッ――タ、タス、タスケッ」
未だ拭えない恐怖に喉は枯れ果て、骨は軋む。
冷気に犯された肺は呼吸をする機能さえ忘れかけていた。