ホワイト・ゼログラウンド
メアリーは、朝食用のヨーグルトを持ったまま、突然横揺すりの強震に襲われ、会議室の椅子から投げだされた。自由の女神立像が、ガラスの煌めきの中で揺れていた。
午前八時四十六分。時速八百キロのスピードで、アメリカン航空機11号は二万ガロンの燃料を積み、世界貿易センター北タワーに吸い込まれるように没した。大爆発が起こり、その黒煙は秋空を焦がした。ボーイングの左翼は、九十三階天井を切り裂き、右翼は九十九階フロアに、めり込んでいる。
闇の深淵で、呼ぶ声が響いていた。工事現場のような雑音、そして悪魔の様な喚きも後頭部で、谺していた。肩を揺り動かされ、頬に冷たい手が黒田には感触があった。後頭部には、重い違和感がある。意識はあるはずだが、体は海底に沈んでいるように、重圧が掛けられている。大丈夫ですかと、再び遠いところで、女性の優しい声が、それも日本語で、呼び掛けている。鈍痛の伴う目蓋に力を込めて開けると、風に嬲られた長い黒髪が、頬にかかり、黒い炯々とした双眸が見つめていた。動けますか、と女性の冷たい手が頬を優しく撫でた。セピア色の写真を見ているように、その人は、どこか懐かしい顔をしていた。それが誰なのか、この状況では、思い出せない。黒田は、ハッサン、キャメラだ、と叫び廃墟と化した、黒煙の渦巻く暗いフロアを這いずり回った。シンディもハッサンも消えていた。冷たい風が、崩壊したビルの外に、悪魔の吐息のような黒煙を吐きだしていた。いったい何が起こったのだ。黒田は、これが遠い、遠い過去のように、記憶が薄れていた。ここにいたら、危ない、急ぎましょう。ビルの崩壊が、まもなく起こるから、早く退去するように彼女に促がされた。アキレス腱が切れたように、膝に力が入らない。更に体の節々を、激痛が刺す。重油臭い黒煙が爆風して降る。異臭が喉と目鼻を糜爛させ、溢れる涙が視界を曇らせ、両目を開けているのが辛い。夢中で、黒田は、彼女の肩に縋り、痛む右足を引き摺りながらも、その部屋から廊下に逃れた。八十八階、その廊下には、金きり声を上げて、パニック状態に陥っている女性、足を引きずり死にたくないと譫言を繰り返す男、盲導犬をなだめながら、若者に手を引かれて、避難する老人など男女十人ほどと、黒田たちは遭遇した。メアリーは、肩辺りの衣服が焦げていた。赤毛の後頭部は、赤黒く火傷した皮膚が露出している。盲導犬は、嗅覚が薄れ、頻りに悲しそうに鼻を鳴らし、長いシッポを下げて、怯えている。老人の顔を幾度となく見上げて、主人の引くリードに頼っている。一瞬に地獄に堕とされて、誰もが、この惨事を呑み込めていない。黒田に肩を貸している娘は、旅客機が、この貿易ビルに衝突したことを告げた。ありえないことだと、煤けた顔の肥った男が怒鳴る。これは、きっと大地震よと、早く避難しなければ、と焦る婦人。その時、誰かが、エレベーターで逃げようと喚く。彼ら一団は、エレベーターホールの方向に歩き出した。その前に出て、コックの林が止めに入った。