ホワイト・ゼログラウンド 2
午前八時十七分。ノースタワー百七階のレストランで、港湾警察の副部長のサムが、朝食を取っていた。隣のテーブルでは、商社の取締役専務のカマロフが、予約したテーブル席で秘書のシャロンと来客の到着を待っている。取引先部長たちの一行の八人は、ツインタワーの狭間に建つ、マリオットホテルを十五分前にチェックアウトをしていて、すでに到着してもいいはずだが。このビルの複雑なシステムのエレベーターに乗り間違えたに違いない。この高層ビルのエレベータのシステムは、エキスプレスが二十三基、ローカルが七十二基、そして荷物用が九基と、実に目まぐるしく、それらが絶えず稼動している。エレベーターは、効率よく運行するため、四十四階と七十六階にスカイーロビーを設け、そこまで高速で直行運行させている。その階から、各階で昇降出来る乗り換え方式である。午前八時二十五分。まだ、モーニングの時間帯なのに、すでにこのビルには、一万五千人ほどの世界八十七カ国の人々が、働いている。地下一階の管理本部にモニターが壁一面にはめられ、二十四時間態勢で、エレベーターのコミニケーションシステムからのメッセージを監視している。
午前八時四十四分。NΒワールドテレビ局ニュースグループのキャメラマンの黒田一平は、撮影の機材設置を進めていた。トムソン保険会社のモルガン部長のインタビューと録画撮りが、午前九時からスタートする。インタビューアーのベテイは、九時前に、到着することになっている。この番組は、当局の経済ニュースの中で企業戦士にスポットを当て、インタビューと彼らのワークショップを放映する。企業戦士のほとんどが、テレビ局の番組スポンサーでもあるから、お互いに損はない企画構成になっている。営業部長のモルガンが揃えばベテイとの対話の、リハーサル撮りからキャメラを回す。トムソンの広報担当マネージャーのシンディ・カーンは、この撮影のため、今日は八時の早朝出勤になった。いつもより一時間早い出勤は、低血圧症の彼女には辛いらしい。先ほどから窓際でチョコレートシロップを溶かしたカフェ・ポルシアを、パープルラインの目を重そうに開けて、頻りにすすり続けている。
「ハッサン、部長の机に、ポジチェック用の蛍光灯を置いてくれないか。イケメン部長の顔が旨く映えなないと、俺は首だからな」
(何がイケメンよ、あんなパンプキンのあばた顔でも、東洋人はゴマスリがうまいね)と、シンディは、俯き加減に、含み笑いをした。助手のハッサンは、ソフトライトのスタンドを組み立てていた。廂を後ろに野球帽のハッサンは、ママが黒人で、パパが白人の混血児で、夜も副業を持つムーンライターだ。
「オーゥー、ノーゥ!いま手を離したら、俺は、切腹ものよ」
「わかった、お前はサムライだ」
黒田はオフィスの入り口においた、照明器具を取りに、窓際を離れた。今朝方出かけに、妻の抗議めいた愚痴が、頭を掠めた。前々から、この愚痴は出ていたが、最近になって段々エスカレートし、いまはオーバーヒートして、すでに危険な状態だ。妻の年老いた両親が、東京の荒川に二人きりで暮らしている。妻には兄が一人いるが、大阪でコンビニを営んでいて、夫婦供に、忙しくて、店から離れられない身である。かえってアメリカにいる娘を両親は頼っている。だが、そう度々帰国できるものでもない。東京に転勤すれば、その問題は概ね解決する。妻の希望に背くことになるが、黒田はいまも、この街を離れたくないのが本意である。もともと、仔細あって大学を中退すると、代議士の叔父の紹介で、アメリカで働ける条件のいいワールドテレビ局に就職して、日本を逃げ出している。家内は、日本の支局に転属願を申し出てほしいと再々懇願している。息子が来年で三歳になる。日本の幼稚園に通わしたい訳もあって、父親として弱いところを突かれると、黒田もそう強く反論できない。もうあれから七年、あの事件は、忘れてもいいのではと黒田は、自分に言い含めている積もりだ。だが、それを考えると、トラウマのように、あの少女の美しい眸子の煌めきが、ナイフのように、胸を抉り、心臓をわしづかみされたように、息苦しくて、苦悩の縁にはまり込んでしまう。一生、その罪から逃れられない。贖罪でもしない限り、彼女の血の涙の眼差しから、一生逃れられない。
2
女の短い悲鳴が上がった。黒田は足を止めて、振り向いた。シンディが、コーヒーを膝当たりに、零したのだ。俯いて、スカートの裾をハンカチで、慌てて押さえている。その彼女の肩口に小さな旅客機を捉えた。驚くほど低い位
置だ。すでに次の瞬間、旅客機の機影が、黒田たちを襲った。爆発音と鳴動が、躰を割いた。一瞬にしてデスクも椅子も黒田も爆風で飛ばされ、壁にたたきつけられた。窓際のシンディとハッサンの二人は、粉砕したガラスの煌めきとともに、青空に投げ出された。黒田は、痛む肩を押さえながら起きあがろうとした。だが、不快な轟音をたてて天井の照明やモルタルが、崩れ落ちてきた。