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疑似恋愛  作者: ますみ純
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 野田冬実は、同じアパートの住人に「子供が風邪をひいたが寝かせる場所がないので部屋を借してほしい」と言われ、自室に人様の子供を寝かせている夢を見た。そしてなぜかそこには大学からの友人の沙希もいて「これだから二LDKの一人暮らしは」とあきれかえっていた。

 寝返りをうつ。時計を見ると八時半を回っている。今日は就職前の春休み最後の土曜日だ。

上半身を引き起こすとギィと簡易式ベッドの軋む音がした。ベッドから出ると少し肌寒く感じる。三月末に入るが、いまだ春らしい感じはしない。

リビングに行きテレビをつけ、キッチンのヤカンに火を掛ける。テレビでは春休みの観光地特集をやっていた。

春休みか。ヤカンの底に現れる泡ぶくが次第に大きくなるのをぼうっと眺めながら思った。



ちょうど一か月ほど前のことを思い返す。就職内定も決定し、単位を問題なく取得し、卒業論文も無事終えた頃、卒業を二週間後ほどに控えた私たちは講堂に集められた。

「卒業前の最後の説教ってやつね。この学校もどこまでめんどくさいんだか」

沙希はそう言っていた。

 沙希の言ったことはまさに的中し、小1時間ほど今後の社会人としてのありかたをさめざめと説明された。どこをとっても否定的で希望のない内容だったことは確かだ。

「これから待ち受ける社会は今よりももっと厳しいぞ。どんなバイトよりも、どんなインターンシップよりも新人というのは本当に大変だから心しておくように」とありきたりな言葉を教授は並べ、他にも社会学論的なことまでもしゃべり倒していた。―いいか、働くというのはな、生きることだ。

 

 

ヤカンのお湯が沸いた音が部屋中に響く。はっとして火を消し、マグカップに注ぐとあたりに香ばしい香りが立ち込めた。香りが部屋に広がる様子が目に見てわかるのと同じように、自分の中で得体のしれない感情が膨らんでくるのも感じ取れた。

 新しい新居に越してきて三週間ほどになる。一人暮らしというのにも少し馴染んできてはいるが、ふとした瞬間、どうしようもないようななんとも言えない感情になる時がある。それはこれからの社会人生活に対する不安や、もしくはそれに似たものなのかもしれない。タイミングを見計らってか、それは突然やってくる。

 マグカップを手に取り、リビングへ行く。ワイドショーはまだ春休み観光地特集をやっていた。どうやらパワースポットらしい。

「働くことは生きることだ」

パワースポットが人気になるのも、世の人々は生きるのに窮しているのだからだろうか。生きるパワーをもらいにこうして全国各地のスポットに足を運んでいるのだろうか。

ある時こんなことを言われたことがある。

「あなた、やる気がないわね」確か初めてのインターンシップの時だった。一緒に行動することになった同級生と意気揚々と業務に取り組んでいる際、学生担当のスタッフに言われたのだ。

「そんなにふてくされなくてもいいじゃない」

 全くそんな気はなかったし、むしろ楽しんでいた。しかし、思いにもよらないことを言われ一気に意気消失したのを覚えている。奥二重のせいだろうか?冬実は野田家の中で唯一の奥二重だった。腫れぼったい目が余計に「やる気のなさ」を感じさせたのかもしれない。確かに、それまで奥二重であることを気にしてないわけではなかった。ただ、改めて面と向かって言われたことでさらに増強される思いもあるということだ。

 それ以来、冬実は今まで以上に鏡を覗き込むようになった。ぷっくりした奥二重、垂れ下がった目じり、頬に広がって点在する広がった毛穴、ぽつぽつとできた白にきび。見れば見るほど、やけに自分の顔の嫌なところが目に付くようになった。

 VTRの中の観光客は、うわぁ、すごいと感嘆しながらパワースポットを楽しんでいる。この人たちも生きていくうえでさまざまな悩みを抱えて「生きることに窮して」いるのだろうか。

 自分の考えていることがあまりにも哲学のようになっていることに気づき、いやいやと冬実は苦笑した。この人たちには、そんなに深い意味はないだろう。



 思い立ったら即行動とはまさにこのことだ。引っ越してきてからまだ一度も近所を散策していない。まずここがどんなところなのかもいまいち把握しきれていなかった。ワイドショーでパワースポット特集を眺めていた冬実はネットを引き、近場にパワースポットはないか検索した。

 しかし、パワースポットらしきものは引っかからなかった。ただ、家から歩いて十五分ほどのあたりに観光名所の神社はあるようだ。

 画面をスクロールしながら見ていくと、豊玉姫神社という名のその神社は、美肌の神様と称された「なまず様」を祭っており、なんでも海の神様の娘であるその豊玉姫大神という神は、水やだけでなく、ご縁や子宝もつかさどるというなんとも多才な神らしかった。のちにどこかの男神と結ばれ子宝にも恵まれたとか。

 豊玉姫神社はわりとこじんまりとした所にあった。建物と建物の間に影に隠れてひっそりと佇んでおり、日光には当たっておらず靴で踏んでも土が冷たいのがわかる。吹いてくる風は余計に冷たく感じられ、観光地としてはあまりパッとしない印象を受けた。観光客らしき女性が二、三人ほどパラついて参拝しており、きょん、きょんとどこからか鳥の鳴く声さえも大きく聞こえるほどあたりは静まり返っている。

 まずはお賽銭箱に五円を投げ入れ、参拝をする。「二重になれますように、ニキビがなおりますように、背中の汗疹も治りますように、肌が白くなりますように」と冬実は願った。そして、今朝ワイドショーに出ていた人気若手女優のことを思い出す。彼女はもうすぐ公開になる自分の映画の宣伝で出演していた。あんな白くて綺麗で細い人になりたいとイメージが明確に伝わるように願った。

 白なまずは本殿のすぐ隣に静かに鎮座していた。土やらなんやらで作られた疑似体ではあろうがこうして見るととてもありがたく、そして艶やかな身体は神聖さを感じさせる。なまずなのに。



「そげんまじまじ見たら恥ずかしいちゃ」

突然聞こえたその声に冬実は固まった。辺りを見回す。先ほどまでいた観光客はいつの間にか姿を消していた。木々のざわめきがいっそう大きくなった。

「おれちゃ、おれ。おれの声が聞こえると?」

 もう一度声が言った。視界の端っこに気配を感じ、振り向くと立札のところに男が立っていた。

 中途半端にヘラっと笑った男だ。色黒でこんな時期に白い長袖一枚に綿織物のような生地の紺色のズボンを履き、足元は草鞋だ。細身で身長は冬実よりも十センチばかし高い男。なんとなく田舎者を思わせるような風貌になぜか安心感と懐かしさを冬実は覚え、「なぁんだ、あんたか」と言いたくなった。しかし、見ず知らずの男に声を抱えられたことを思い出し、警戒する。

「やっぱりな。何年ぶりやっけなぁ。おれん声が人に聞こえたんは」

と何年ぶりかに再会した同級生に言うかのように、片手を上げて軽く挨拶そぶりをしながら男は近づいてきた。冬実はどうしたらよいのかわからずじっと身体をこわばらせ、まじまじと相手を見た。

 頭のてっぺんから足のつま先まで黒い。まるで猿だ。髪は綺麗に短くまとめられてはいるが、どこかで田植えでもしてきたのかというくらい足元は泥だらけで、その泥もすっかり乾燥してこびりついている。

「もうまじまじ見てくるき、もしかしたらっち思ったけど、やっぱ見えちょったんやね。もし違かったらち怖かったけどまぁ話しかけてよかった」と早口にまくしたてしまいに「おれは白っちいうんね。よろしく」と手を差し伸べてきた。

「私は冬実。白って名前ですか?」どことなくすっと心に白の声が入ってきたので、冬実は不思議と自然に警戒を解いていた。握手して握った手を離すと、砂が付いてきた。

「あ、まぁね。人ではおらんやろ、白ち。本当はもっと長いっちゃけど。ここは略称で」

「白さんは人ではないんですか?」手についた砂を払いながら言う。白はその冬実の動作に気づいていない。

「…人ではないつもりで話しかけたっちゃけど」

「でも人ですよね」

「人だね。見た目は」

「中身は?」

「中身はもちろんなまず」

 なまずって普段田植えなんかするんだ。と、つい声に出して冬実は感心してしまった。え?と白が聞き返すが冬実には聞こえなかった。

「なまずってもしかしてこの白なまずのことですか?」

冬実は静かに鎮座していた白なまずの御神体を指差すがそこにはもう御神体はない。

「そう、その白なまず」






 木々のざわめきはいつの間にかしんと静まりかえっていた。一層大きく口を広げ嬉しそうに白は笑う。


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