2:四天の将
午前一時半。
淡々と時を刻む時計を眺めながら、巫女は溜め息をついた。短く整えられた黒髪が揺れ、貌のいい大きな目が光を伴って震える。
作りすぎた――意図的にだが――煮物を、近衛家に持っていってから、もう五時間以上が経っている。
最初はただ帰りが遅くなっているだけなのだと思ったが、砌の性格を思い出すと、どこか不安になってしまった。案の定、二時間前神継に見にいってもらったら、まだ帰ってきていなかったらしい。神継はそのまま砌を探しに出てくれたのだが、巫女の不安が晴れる様子は無い。
(砌、大丈夫かな……)
ただの喧嘩なら、まず問題は無い。砌の強さは周知の事であるし、その点に関しては巫女も、快くは思えないが安心できていた。
しかし、最近の物騒さは異常といえる。行方不明者の数は例年よりも増えているし、手口の異なる辻切りが何件も横行している。特に“鬼目”と称される通り魔は、目撃者の妙な証言の所為もあってか、今や都市伝説と化している存在だ。
――左目に、二つ瞳があった。
巫女の背筋を悪寒が走った。怪談等が苦手なこともあり、噂といえど必要以上に不安になる。だからこそ、神継が二度目を引き受けてくれて、内心ではほっとしたのだ。
それに巫女には、その噂の正体に心当たりがあった。“彼”が言ったことが本当なら、“鬼目”は人間ではないらしい。
今日出会ったばかりの“彼”を、完全に信用した訳ではない。しかし、その“彼”も、“鬼目”と同じような存在だと言う。生来の人の好さもあってか、巫女はその話になんとなく納得してしまったのだ。
そういえば、当の“彼”――平八郎は、さっきから姿を見せていない。巫女が風呂に入ったのが十二時過ぎなので、一時間半も行方不明だ。
ふと、巫女の頭に嫌な映像が浮かぶ。夜の街を歩く平八郎。その姿は、あまりにもシュール過ぎた。あんな浮世離れした格好で、街を歩いたら、補導されるかもしれない。
不安になった巫女は、椅子から立ち上がって辺りを見渡してみた。少なくとも、居間・台所・廊下には見当たらない。
「平八郎さーん」
名を呼んでも返事は無い。巫女は嫌な汗を感じながら、家の中を探すことにした。
玄関から始まり、庭、広間、トイレ、風呂場、物置、両親の部屋、巫女の自室、神継の部屋を回ったが、いずれにも平八郎の姿は無い。広い家とはいえ、造りは平屋建てだ。それに、もうかなり奥まった所まで来ている。
再度、さっきの想像が巫女の頭を過ぎった。警察に捕まったりしたら、今以上に面倒なことになる。第一、まだ神継にも話していないのだ。
(なんて説明すればいいんだろ……)
廊下を歩きながら悩んでいた巫女は、突き当たりで立ち止まった。そこには、明らかに浮いた雰囲気の、金属製の扉。神社と母屋を繋ぐ、渡り廊下の扉だ。
鍵を確認する。先程戸締まりを確認した時から変化は無い。
(神社には行ってないみたい)
胸を撫で下ろした巫女は、平八郎の言葉を思い出して再び緊張した。
『儂は少々特別でな。具現も霊化も自由なのだ』
鍵なんて意味が無い。そう気付いた巫女は、扉を開けて渡り廊下に出た。季節の変わり目の風は、まだ少し冷たい。灯りの無い渡り廊下は、何処となく不気味だった。今夜は月も無い。
恐る恐る足を踏み出すと、木製の足場は軋んだ音を上げた。爪先から伝わる感触に、全身が粟立つ。
「――――!」
声にならない悲鳴を上げて、巫女は小走りに神社側の扉まで駆け寄った。十メートルも無い廊下なのに、心臓は早鐘を打っている。深呼吸をしながら取っ手に手を掛けた巫女は、ある間違いに気が付いた。
(……鍵がかかってる)
当たり前といえば当たり前。屋外に露出した扉に鍵をかけずにおけば、盗みに入られても文句は言えない。神継はああ見えて几帳面な性格だ。閉め忘れる、なんてことはまずない。
(どうしよう。鍵は兄さんが持ってるし……)
もし中に平八郎がいたとして、巫女にそれを確かめる術は無い。桐藤神社の神殿はそれなりに巨大なため、ここから呼んで聞こえるかも怪しい。何より、こんな時間に大声を出すのは近所迷惑だ。
ある種の諦観を感じた巫女は、ややうなだれ気味に神社を後にする。こうなったらもう、何事も無いことを祈るだけだ。
渡り廊下の不気味さも忘れたように歩く巫女の目に、母屋の北にある裏庭が映った。裏庭という割には、結構な広さの空間に多様な植物が植わっている。平屋建ての母屋越しでは、陽光も抵抗無く注がれるからだろうか。
そこに佇む、軽具足姿の青年。何処か粗暴な色を秘めた瞳は、何処とも無い虚空を見つめている。その瞳を縁取る眼瞼一つを取っても、彼の表情は険しいと言えるくらいの壮烈さを感じるようだった。
放つ空気は凛冽。咲きかけの沈丁花の傍らに立つ彼の佇まいは、棘を持つ野茨の趣きに似ていた。
「沈丁花いまだは咲かぬ葉がくれの くれなゐ蕾白ひこぼるる」
不意に聞こえた声に、青年はそちらを見やる。
「なんだ、お主か」
「なんだ、じゃありません。平八郎さん。心配したんですよ、急にいなくなって」
「人を幼児のように言いおって、失礼な娘だな。お主が風呂に入るというから、気を効かせて外に出たというのに」
心外だとでも言うように眉を顰める青年に向かって、巫女も不満げな視線で返す。
「本来なら女子の言なぞに気をかけることは無いのだが……。なんといったか、お主から聞いた今の世の制度……そうだ、“男女平等”と言ったな。それに則って行動したのではないか」
巫女は目を丸くした。強そうな外見とは裏腹に、随分と饒舌に語るものだ。よく見れば、表情も幾分か軟化しているようだ。
「聞いているのか?」
「あ、ハイ。そうですね、とりあえず問題も無かったから、もういいです」
平八郎の言葉を遮るように、笑いながら胸の前で手を上げる。
「時に、先程の和歌はお主の作か? 儂も一応はたしなみがあるが、あのような歌は聞いたことがない」
「あれは確か……明治の歌人の作だったと思います。作者までは知らないんですけど」
「ふむ、後世にも雅のわかる人間が生きていたか」
感慨深げに呟くと、顎を撫でながら宙空へと目を向ける。その目からは、先程までの粗暴な光は、感じ取れなかった。
「――――――!」
不意に、巫女の耳が聞き慣れた声を捉えた。遠くから聞こえたのは、他ならぬ神継の声。次いで足音が、此方に近付いてくる。
「平八郎さん!」
「わかっておる、そう急かすな」
不満げに皺を寄せた後、平八郎は溶けるように闇夜と同化した。存在が消えた訳ではなく、彼を構成する物質がこの世の物ではなくなったのだ。
「お、巫女。いるんなら返事しろよ」
渡り廊下に姿を現した神継が、笑いながら近寄ってくる。巫女の目の前で立ち止まった時、微かに香水が香った。
「兄さん、砌は?」
「家に戻った。心配しないだろ、アイツだし」
「そう、良かった」
心底安心した風に、胸の前で手を組んで息をつく。その顔は、安堵の笑みで満ちていた。
(……上せちまうな)
神継は巫女のその顔を見て、渋面に似た表情を浮かべる。探しに行った自分への労いよりも、砌の安否の確認を優先する妹に、むずかゆいような感覚を覚えた。
「安心したらもう寝ろ。いつまでもこんな所にいると、冷えるぜ」
巫女の肩に手を置いてそう言うと、神継は踵を返して庭の方へと向かう。良く見ると、靴を履いたままだったらしい。
「兄さん、何処か行くの?」
「ああ、ちょっとな」
「もう遅いよ?」
「朝には帰るから大丈夫」
「朝には、って……」
神継は呆れる巫女を後目に、手を振りながら裏庭を出ていった。姿が見えなくなると同時に、平八郎が暗闇から浮かび上がる。
「あの小僧……」
「どうかしました?」
「……兆しが見える」
平八郎は口調にそぐわない精悍な顔に皺を寄せ、神継の消えた所から巫女の目へ視線を移した。
「お主と同じ兆しだ」
巫女が息を飲む音がした。
巫女と同じ兆し。それは、平八郎のような人外の者と結ぶ、印だった。
「兄さん……が?」
「ああ。早ければ今夜にでも……」
――朝には帰るから。
「兄さん……知って?」
「うむ。儂のことも気付いていたかも知れん。勘のいい小僧だ」
巫女は改めて驚いた。幼い頃から共にいた兄が、なんだか違う物になっていくような錯覚を覚える。兄も、私を見てそう感じたのだろうか。と、奇妙な感覚になった自分がいた。
(砌は……どうなんだろう……)
頭に浮かぶ、昔馴染みの顔。彼の顔から笑顔が消えて、一体どれだけの時が経つのだろう。
幼き日を思い返して、巫女はまた、不安な衝動に駆られた。
先に巫女を家に戻らせ、平八郎は再度彼方へと目を向けた。桐藤家から見て南の方角、都の中心へ近い方へと。
「鬼目、か。巧く例えられたものよな」
思い浮かぶのは、反逆の将。自分よりも遥かな過去を生きた、伝聞の中でしか聞いたことのない男の姿。それは、人と呼ぶには余りにも禍々しい風采だった。
何時しか、平八郎の眼に先刻と同様の、荒々しい光が宿る。殺気と鋭気が、対象も無く宙に荒振る。
「何故人を切るかは知らんが、到底、気味が良いとは言えんな」
最後に一度虚空を睨みつけると、踵を返して闇夜へと溶け込んでいった。