婚約者を奪われたのに、親切な友人の伯爵令嬢
「レオンハルト様はとてもすてきな方よ。絶対に逃してはいけないわ」
伯爵令嬢エルネスタ・クラウゼは、伯爵邸を訪ねてきた親友のマリアンヌ・ベルナーにそう言った。
「でも……レオンハルト様はあなたの元婚約者なのに……何だか心苦しいわ……」
マリアンヌは申し訳なさそうな顔をするが、エルネスタは微笑んで首を振る。
「マリアンヌ。私はいろいろな事情で、レオンハルト様に婚約を破棄されてしまったけれど、あなたにならレオンハルト様をお任せできるわ」
「ありがとう、エルネスタ。あなたは本当に私の大事な親友だわ」
マリアンヌも微笑み返す。
——エルネスタって本当にお人好しだわ。私のせいで婚約破棄されたとも知らずに。
同じ伯爵令嬢であるマリアンヌとエルネスタは幼い頃からずっと親友だった。とはいえ、勝ち気なマリアンヌが大人しく人の好いエルネスタを子分のように扱っていた。
だからこそ、自分より下だと思っていたエルネスタが、侯爵令息であるレオンハルトと婚約したときは悔しかった。今まで見下してきたのに、見下されたように思い、一方的に激しく嫉妬し、裏切りだとすら思った。
そこでマリアンヌは、エルネスタの架空の浮気相手を作り上げた。
偽の恋文を作り、レオンハルトの目に留まるようにした。さらに、レオンハルトが見ているところで、知り合いの貴族令息に、エルネスタに親しげに話しかけさせた。
思い悩むレオンハルトに近づき、「エルネスタが浮気なんてするはずがない」と言いながら、「結婚を迷うそぶりを見せることはある」などと暗に浮気を仄めかした。
そしてレオンハルトはついに婚約破棄を決めた。
その上、相談に乗ってくれたマリアンヌへの信頼を深め、やがて二人は婚約した。
マリアンヌは、正しい決着になったと安堵し、再びエルネスタを見下すようになった。
「まずは私の二の舞にならないように、結婚のときの契約をしっかりしておいた方がいいわ」
エルネスタが提案する。婚約破棄に追い込んだ自分が婚約破棄されないように考えるなんて、お人好しにもほどがあるわ、とマリアンヌは心の中で大笑いしてしまった。
「離縁になった場合、二人の財産と領地を救護院に寄付する、というのはどうかしら。それから……。念のため、もし相手が不審死した場合も、残った方には財産を相続させないようにしましょう。マリアンヌもレオンハルト様もそんなことをするはずはないだろうけれど、念のためね。あなたには、私みたいになってほしくないの」
マリアンヌは少し意外に思った。エルネスタが本当にそこまで真剣に考えてくれるとは思っていなかったのだ。
「それはいいわね……」
離縁になって不利なのは、侯爵家のレオンハルトより、伯爵家の自分だ。離縁を避けられるなら、それに越したことはない。
「マリアンヌ。この提案は、あなたが財産や地位を目当てではなく、真実の愛のために結婚する証明になるでしょう? もしレオンハルト様が拒否するようなら、こう言うといいわ。『私を本当に愛しているのなら、この契約に応じられるはずだわ』と」
マリアンヌはすばらしい提案だと思った。
「すばらしいわ。ありがとう、エルネスタ」
※
マリアンヌは無事、レオンハルトとの結婚式を終え、結婚生活を始めることとなった。
婚約破棄をされた立場上、親友とはいえ、エルネスタは式には参列しなかったが、貴族らしい豪奢なすばらしい式だと聞いていた。
そんなある日、再びマリアンヌはエルネスタのクラウゼ伯爵邸を訪ねた。
「エルネスタ、無事に契約は結べたわ。最初は渋っていたけれど、あなたの助言どおりに言ったら受け入れてくれたわ」
「まあ、よかったわ。これで離縁の心配はなくなって、結婚生活を思いっきり楽しむことができるわね」
そうマリアンヌに応じるエルネスタは、心から嬉しそうに見えた。
「それで、また相談に乗ってほしいの」
マリアンヌはとことんエルネスタを利用してやろうと考えていた。
「もちろんよ、マリアンヌ。親友のあなたのためになるなら喜んで」
エルネスタはまた優しい笑みを浮かべて応じた。
「あのね。これから結婚生活を営んでいくのだけれど、離縁は避けられたとしても、やっぱりレオンハルト様とはずっと仲良く楽しく過ごしていきたいの。どんなことに気をつけたらいいかしら。あなたならレオンハルト様のことをよく知っているでしょう?」
マリアンヌは、エルネスタを利用することを隠そうともしなかった。エルネスタはそんなことにも気づかない、愚かなお人好しなのだと確信していた。
一方のエルネスタも、気を悪くする様子も見せず、真剣に考えた。
「そうね。レオンハルト様は隠し事をとても嫌がるわ。私が婚約を破棄された理由の一つも、浮気を隠していたと思われたことだし……。最初から疑われないように、二人の間で秘密はないことにして、自室や机の鍵を預け合うといいわ」
「自室や机の鍵?」
「そう。もちろん信頼しあっているなら、本当に手紙なんかを見る必要はないけれど。念のため、ね。これで必ずレオンハルト様の浮気は防げるし、あなたが浮気を疑われることもないわ」
この娘は本当に役に立つわ、とマリアンヌは感心していた。自らの失敗を糧に、私が失敗しないためのすばらしい方法を考えてくれる。
「もしレオンハルト様が拒否するようなら、また『私を愛しているなら、秘密なんて持つ必要はないでしょう』と言えばいいわ」
エルネスタの言葉に、マリアンヌが笑顔を見せた。
「ありがとう、エルネスタ。あなたは本当に頼りになるわ」
そう言うと、マリアンヌは意気揚々とクラウゼ伯爵邸を去っていった。
※
ひと月ほど経ったある日、再びマリアンヌはクラウゼ伯爵邸のエルネスタのもとにやってきた。
前回よりも、少し浮かない顔をしていた。
「エルネスタ。あなた、レオンハルト様とやり直したいなんて思っていないわよね?」
マリアンヌはそんなことを尋ねてくるので、エルネスタは驚いた。
「そんなことあるわけがないじゃない。誰よりもあなたの幸せを考えて、助言までしているのに……。なぜそんなことを……?」
「私……エルネスタの助言どおり、レオンハルト様のお部屋の鍵を預かって、彼が不在のときに、お部屋の中を見てみたの。そうしたら、クラウゼ伯爵から、レオンハルト様に宛てられたお手紙を見つけてしまったの。内容は事務的な話ではあったのだけれど……」
それを聞いて、エルネスタは吹き出した。
「クラウゼ伯爵家はお仕事の関係で、ヴァイス侯爵家とは連絡を取り合う仲ですから。それで私の縁談も持ちかけられたのよ。だから、私はレオンハルト様に愛情を抱いたことはないし、何よりレオンハルト様があなたに隠し事ができないことも、あなたが絶対に離縁しないことも、私が一番よく知っているじゃない」
「それはそうなんだけれど……」
「何か不安があるなら、言って。また相談に乗るから」
またうまくいった、とマリアンヌは思っていた。
話した内容は本当のことだったが、それをあえて話したのは、またエルネスタから助言を引き出すためだった。
マリアンヌはすっかりエルネスタの助言に依存するようになっていたのだ。
「あのね……。最近、レオンハルト様が以前より愛を語ってくれなくなったの。それが少し不安で……」
エルネスタは驚いたように目を見開いた。
「あら、あなたたちは真実の愛で結ばれているのに、あなたはレオンハルト様の愛を疑うの?」
エルネスタの言葉に、マリアンヌは首を振る。
「疑っているわけではないのだけれど、もっとレオンハルト様の愛を感じたいの。もっと幸せな気分になりたいのよ」
エルネスタはそれを聞いて、考え込む。
「こういうのはどうかしら。レオンハルト様に、週に一度、愛を行動で証明していただくの。例えば、週末の狩猟を休んで一緒に食事をするとか、マリアンヌの選んだ服と装飾品を身につけて夜会に出ていただくとか」
マリアンヌは、それはすてきだわ、と思った。それならずっとレオンハルト様の愛を確かめることができる。
エルネスタは言葉を続ける。
「もしレオンハルト様が拒否するようなら……」
「『私を愛しているなら……』でしょう?」
マリアンヌとエルネスタは顔を見合わせて、二人で声をあげて笑った。
※
それからまたふた月ほど経った頃だった。
マリアンヌは再びクラウゼ伯爵邸を訪ねていた。
そのときのマリアンヌは今までと少し様子が異なり、強い焦りを覚えているようでもあった。
「どうしたの、マリアンヌ。元気がないわね……。心配だわ……」
マリアンヌを見るなり、エルネスタが言った。
「……レオンハルト様が、毎週の『愛の行動証明』をしてくださらなくなったの」
「え?」
「もう私のことを愛していらっしゃらないのかしら」
マリアンヌは寂しそうに俯いた。
「そんなはずはないわ。何か無理なお願いをしたのではなくて?」
エルネスタがそう言うと、マリアンヌは顔を上げ、まっすぐエルネスタを見た。
「そんなことはないわ。違うのよ。きっと彼は……あなたのことがまだ忘れられないのだわ」
エルネスタは驚いたように目を見開き、次にため息をついた。
「そんなわけがないじゃない。レオンハルト様は一度だって私のことを愛してくださったことはないわ。本当に愛していたのなら、事実を確かめもせずに婚約を破棄することなんてなかったはずよ」
「でも……」
「マリアンヌ、わかったわ。では一度、葡萄酒を酌み交わして胸の内を話し合ったらいいわ」
「酔わせて本音を聞くということ……?」
マリアンヌは、そんなことで本音を聞き出せると思えなかった。役に立たない女ね、と不満に思った。
「レオンハルト様は葡萄酒を召し上がっても酔わないわ。そんなことでは本音なんて聞き出せない」
「葡萄酒を飲んで、ゆっくりお互いの考えていることを話し合うだけでいいのよ。レオンハルト様はあなたへの愛をはっきりと伝えてくださるわ。私への未練なんかないこともはっきりして、すっきりするでしょう。無理やり聞き出すようなことでもないでしょう……?」
「無理に、とは言っていないわ。ただ、本心が話しやすいようになればいいんだけど……」
マリアンヌはそのとき、以前、友人とのお茶会で聞いたあることを思い出した。
「そういえば、気持ちを緩めて、口を軽くする薬があると聞いたことがあるわ」
それを聞いたエルネスタの顔が青ざめた。
「そんな薬はだめよ。体に害があるはずよ」
「少量なら危険な薬ではないと聞いているし、一度だけなら大丈夫よ」
「レオンハルト様には持病があって、普段から服用されている薬もあるはずだわ。もし飲み合わせの悪い薬だったらどうするの?」
「大丈夫よ。一度だけだし、そんなに大量に飲ませたりしないわ」
「でも……」
「あなたが気にすることではないわ、エルネスタ。それともやましいことでもあるのかしら?」
「そんなこと……」
「だったら黙ってなさい。あなたは私の言うことを聞いていればいいの」
マリアンヌの強い口調に、エルネスタは俯いた。
それを見たマリアンヌは勝ち誇った気持ちになり、満足した。
——そう、私が上で、あなたは下なの。
「心配してくれてありがとう。でもこれは私たち夫婦の問題なの」
マリアンヌはすっかり機嫌を直し、クラウゼ伯爵邸を後にした。
※
侯爵令息のレオンハルト・ヴァイスは目を覚ました。
見慣れた自室の天井が見えた。
どうやら自室のベッドに寝かされているようだった。
「目が覚めましたか」
枕元にいた医師が声をかけてきた。
「マリアンヌはどこだ!」
医師を無視し、レオンハルトはその隣にいた古参の侍従に尋ねた。
「マリアンヌ様はご自身のお部屋にいらっしゃいます」
「絶対にあいつを入れるな! 食事も飲み物もあいつからは遠ざけるのだ。部屋の鍵も替えねばならんな……」
「はい、奥様を含め、この部屋には誰も入らぬようにしております」
侍従が答える。
続けて医師が口を開いた。
「葡萄酒から薬が検出されました。レオンハルト様が服用されているお薬との飲み合わせが悪く、もう少し量が多ければ、命を失っていたかもしれません」
——なぜこんなことになったのだ……。
エルネスタとの婚約を破棄し、マリアンヌと結婚したことが間違いだったのか?
明るく華やかで可愛らしい令嬢のマリアンヌは、とても魅力的だった。その上、素直に愛を伝えてくる彼女なら、必ず幸せな家庭を築けると信じていた。
最初に秘密を持たないよう、お互いの鍵を預け合おうと言われたときには驚いたが、エルネスタのこともあったので、不安に思う気持ちは理解できた。だから応じたのに、本当に部屋に侵入し、仕事の重要な書類まで見られることに、少し不安はあった。クラウゼ伯爵からの手紙を見て、エルネスタとまだつながりがあるのではないかと言いがかりをつけられたのには驚いたが……。
それでも妻であるマリアンヌが侯爵家に害となるようなことをするとは思えなかったため、そこまで気にしてはいなかった。
そして、あるとき、週に一度、「愛を行動で示せ」と言われた。初めのうちは二人で週末に食事をしたり、マリアンヌが選んだものを身につけるという程度の可愛らしい要求で、レオンハルトも喜んで応じていた。
ところがあるときから、クラウゼ伯爵家と連絡を取るな、古い侍従をやめさせろ、侯爵邸から一歩も外に出るな、と仕事や日常生活に支障をきたすような要求が増えてきた。
不服そうな顔をすると、決まって「本当に愛しているなら応じられるはず」と言われ、やむを得ず応じてきた。
しかし、あまりに要求が過剰になってくると、「本当に愛しているなら」と言われても応じることはできなくなってきた。
そして、マリアンヌがあまりにエルネスタとの関係を疑うことが、逆にレオンハルトの疑念を生み始めた。自分から婚約破棄した相手になぜまた近づくというのか。
そのマリアンヌの態度に疑問を感じたレオンハルトは、暇を出された古参の侍従に、ある調査を依頼した。
そんな折に、葡萄酒を飲みながら、胸の内を話し合おうと言われ、マリアンヌから差し出された葡萄酒に口をつけた途端、レオンハルトは意識を失った。
医師の言葉を聞いて、レオンハルトはマリアンヌに命を狙われているのだということに戦慄した。
「お目覚めのところ、恐縮ですが、奥様とエルネスタ様の件の調査が終わりまして……」
「話してくれ。俺は大丈夫だ」
そうして語られた古い侍従からの報告に、レオンハルトはさらに驚いた。
婚約破棄の引き金となった、エルネスタが浮気をしていたという事実はなく、すべてマリアンヌの仕業だったというのだ。
一人の侍女が、金を渡されて偽の恋文を書き、お茶会でやってきたエルネスタが帰った後に、その席に偽の恋文を忍ばせたことが明らかになった。
それ以外にも、エルネスタの浮気相手と疑われたユリウス・ハーゲン子爵令息が、マリアンヌの遠縁に当たることもわかった。彼はマリアンヌに言われ、エルネスタに近づいたふりをしていたのだ。
マリアンヌは、自らがレオンハルトからエルネスタを遠ざけたからこそ、レオンハルトのエルネスタへの未練を疑い、嫉妬のために監視し、行動を規制し、ついには薬まで盛った……。
「離縁だ……」
報告を聞き終えたレオンハルトの口からそんな言葉が漏れた。
そのとき、レオンハルトは、自分がマリアンヌに騙された被害者なのだと確信していた。
※
「マリアンヌを呼んでくれ」
レオンハルトは侍従に言った。
「……今ですか?」
侍従は不安そうに尋ねた。
「ああ。話さねばならんことがある」
そうしてほどなくマリアンヌはレオンハルトの部屋にやってきた。
その顔は涙に濡れていた。
「レオンハルト様……ご無事でしたか?」
「どの口が言うか」
レオンハルトが冷たく言い放った。
そんな態度を取られたことが今までになかったマリアンヌは驚いた。
「レオンハルト……様?」
「おまえがエルネスタの不貞をでっちあげて俺に近づいたことはわかっている。その上で、愛のためと言って、俺のことを監視し、操り、ついには薬まで盛ったこともわかっている」
「薬は違うのです……。ただ、あなたに本当のことを話していただきたかっただけで……」
「言い訳など聞くつもりはない。おまえのしたことがすべてだ!」
レオンハルトは頭痛を覚えながらも、怒りが抑えられずに怒鳴った。
マリアンヌは一瞬怯んだが、次の瞬間には、その顔が怒りに歪んだ。
「では私も言わせていただきます。レオンハルト様こそ、愛のためではなく、打算で私との結婚を選んだのでしょう?」
「何だと?」
「あなたのお部屋で、覚書を見つけましたわ。そこに書かれていました。『エルネスタの不貞についての真偽は不明だが、ヴァイス侯爵家にとって、クラウゼ伯爵家との関係よりも、ベルナー伯爵家の持参金を手にした方が望ましい』とありました。侯爵様からあなたへの指示だったのかしら。それともあなたから侯爵様へのご意見かしら? いずれにせよ、『愛のため』だとか言いながら、実利のために私と結婚したのでしょう?」
レオンハルトは狼狽えた。
「ち、違う。俺は本当に……」
「愛してなどいなかったのでしょう? あなたはエルネスタのことを愛していたのでしょう? あなたは騙されてなんていなくて、真実なんてどうでもよくて、実利を取ったのでしょう?」
レオンハルトは反論しようとした。
「俺はエルネスタのことも愛してなどいなかった!」
その言葉にマリアンヌは口を覆った。レオンハルトもしまった、と思った。
「そう……わかりました。あなたはエルネスタも私も愛していらっしゃらなかったのですね」
「おまえこそ嘘をついて、俺を手に入れたではないか!」
「あなたはその嘘を利用して、私の持参金を手に入れたではないですか!」
「違う……。いや、もういいだろう。離縁だ」
マリアンヌも頷く。
「はい。あなたとこれ以上一緒に暮らすなんて、考えただけで吐き気がするわ」
二人は睨み合い、しかし、「離縁」の一点において完全に合意した。
※
二人は直ちに法務官を呼び、離縁の手続きを依頼した。
法務官は結婚時の契約を確認して、二人に尋ねた。
「本当に離縁してよろしいのですか?」
二人は迷わず頷く。
「もちろんだ」
「ですが、お二人が離縁によって失うものは、とても大きなものになりそうですが……」
「何? 俺はこんな女に銅貨一枚でもやらんぞ」
レオンハルトが言った。
「私もきっちり持参金は返していただきますわ」
マリアンヌも負けじと主張した。
「きちんと話を聞いてください。二人とも、銅貨一枚すら手にすることはできませんよ」
「何を言っている?」
レオンハルトが法務官にすごむ。
「結婚したときの契約を覚えていらっしゃらないのですか? お二人が離縁したら、財産は王立救護院に寄付することになっていますよ。いや、大した慈善家ですな」
二人は顔を見合わせた。
当時は深く考えもせず、離縁するなどとは想像もしていなかったのだ。
「愛し合っていたのでしょう? 何があったのかは存じませんが、一度頭を冷やして、もう一度、その頃の気持ちを思い出して、やり直すことを考えたらどうです?」
法務官が宥めるように話した。
レオンハルトとマリアンヌは睨み合ったまま、次の言葉を見つけられずにいた。
※
法務官との話し合いの直後、マリアンヌはクラウゼ伯爵邸を訪ねていた。
「エルネスタ! 何とかしなさい!」
突然怒鳴り込んできたマリアンヌにも、エルネスタは落ち着いていた。
「どうしたの、マリアンヌ?」
「どうしたらレオンハルトと離縁できるの?」
「何を言っているの? 愛し合っているあなたたちがなぜ離縁なんて……」
「それもあんたのせいよ!」
「私のせい?」
「あんたの助言に従ったらこうなったのよ!」
「何を言っているの? 私は真剣に考えて助言したのに……」
「秘密を無くしたら、レオンハルトが持参金目当てで結婚したことがわかって、愛を行動で示してほしいと要求したら避けられるようになって、挙げ句の果てに、葡萄酒を飲みながら話をしようとしたらあの人は倒れてしまって……ついには離縁よ!」
「マリアンヌ……あなた……何をしたの?」
エルネスタの顔が深刻になった。
「あなたの言うとおりにしただけよ!」
「まさか……レオンハルト様の書斎に勝手に入って書類でも見たの? 愛の証明のために、できもしない無理な要求をしたの? まさか、葡萄酒に薬まで入れたのではないでしょうね?」
「あんたがやれって言ったんじゃないの!」
「私は夫婦で鍵を預け合えば安心だと言っただけ。勝手に書類を読めなんて言っていないわ」
「でも……」
「一緒に食事をする時間を増やして、贈り物を身につけてもらって、そうしたらお互いの愛を確かめられるはずなのに、あなた、無理な要求をしたのではなくって?」
「それは……」
「薬は絶対にだめって言ったわよね?」
「マリアンヌ。あなたは私の助言を何一つ守っていなかったのだわ。自分の欲望のままに好き勝手にやったのでしょう?」
「うるさい!」
言い返すことができず、マリアンヌは怒鳴った。
「あんたのせいで、財産を失うから離縁もできなくて、あの男と一生一緒にいないといけないのよ!」
「それがあなたの望みだったではないの……。レオンハルト様を絶対に逃したくない。離縁されないようにしたい。愛を確かめたい。そう言って相談してきたのはあなたよ」
「それもあんたのせいで状況が変わってしまったのよ!」
「でも、あなたが望んだことよ」
マリアンヌは憎しみを込めた目で、エルネスタを睨んだ。
「エルネスタのくせに何様なの? あんたは黙って私の言うことを聞いていればいいのよ!」
エルネスタは呆れた顔を見せた。
「私から婚約者を奪ったときもそう思っていたの?」
エルネスタの言葉にマリアンヌは一瞬凍りつき、言葉を失った。
「な……何を言っているの?」
「ユリウス様に聞いたわ。あなたに言われて、親しげに私に声をかけるように頼まれたって。ご本人は知らずにやったこととはいえ、結果的に私が婚約破棄されたことに反省していたわ。あなたが偽の恋文をレオンハルト様に見せたことも知っているの」
「そ……そんなの言いがかりよ」
「レオンハルト様ももうすべてご存じなのでしょう? 今さら隠したところで無駄よ」
「……いつから……知っていたの?」
「あなたがレオンハルト様との婚約を知らせに来る前から知っていたわ」
「それで……なぜ止めなかったの?」
「だって親友のあなたがレオンハルト様と結婚したがっていたんだもの。だから、あなたの願いを叶えるために手伝ったのよ」
「エルネスタ……。最初から私を陥れようとしていたのね!」
「何を言っているの? 私はあなたが幸せになれるように助言をしただけよ。言うことを聞かずに勝手なことをした結果でしょう? ああ……あなたにとっては、私が言うことを聞く側だったのよね。だったら、あなたは私の言うことなんて聞けないわよね」
何も言い返せないマリアンヌに、エルネスタは部屋の扉を示した。
「出て行って……」
「は?」
「あなたはもう私の親友でも何でもないわ。二度とクラウゼ伯爵邸に入ることは許しません」
「……! 何なのよ! どいつもこいつも」
マリアンヌはそう言い捨ててクラウゼ伯爵邸を出て行った。
その後、クラウゼ伯爵邸の衛兵が、マリアンヌに門を開くことはなかった。
※
その後、ヴァイス侯爵家の正式な調査により、エルネスタの不貞は虚偽の工作だったことが明らかにされ、エルネスタの名誉は回復された。
レオンハルトはクラウゼ伯爵邸にやってきて、エルネスタに正式に謝罪した。
レオンハルトはエルネスタの前で頭を下げながら、マリアンヌに騙されたのだと繰り返した。
マリアンヌと離縁して財産を失っても、エルネスタと復縁することでクラウゼ伯爵家に救済してもらえるのではないかという淡い期待があったようだ。
けれど、エルネスタはもちろん復縁など望まなかった。
「どうか、マリアンヌと末永くお幸せに」
エルネスタが最後にそう告げると、レオンハルトは顔を歪め、何も言わずにクラウゼ伯爵邸を後にした。
※
「本当に申し訳ございませんでした」
数日後、エルネスタのもとへ、もう一人の男性が謝罪に訪れていた。
それは、エルネスタの不貞をでっちあげる工作に、結果的に加担してしまったユリウス・ハーゲン子爵令息だった。
「あなたを陥れる罠だとは知らなかったとはいえ、僕の軽率な行動が婚約破棄につながってしまったことに間違いはありません」
マリアンヌに騙されたとばかり主張していたレオンハルトとはずいぶん違うわね、とエルネスタは思っていた。
ユリウスもエルネスタのようにお人好しで、マリアンヌに利用されたのだということもすぐにわかった。
「もういいですわ。あなたのおかげで私の名誉も回復できました。結果としてあんな男と結婚せずにも済みました」
「ですが……」
「そうですね。簡単に許したらまたお人好しだと言われてしまうわね」
「はい、簡単に許していただけるとは思っていません」
「では……そうですね。許す代わりに、私の友人になっていただけますか? 親友を失ってしまったばかりなので……」
その提案に、ユリウスは驚いた。
「は、はい。もちろんです」
「では、これからよろしくね」
エルネスタは少しいたずらっぽく笑った。
「はい、僕のほうこそよろしくお願いいたします」
そう言って、ユリウスも笑った。
裏表のない、すてきな笑顔だとエルネスタは思った。
※
その日、レオンハルト・ヴァイス侯爵令息と、その妻マリアンヌ・ヴァイス夫人の結婚一周年を祝う夜会が開かれた。
夜会の主役の二人は、招待客たちの前で幸せそうな笑顔を振りまいていた。
そこにエルネスタ・クラウゼ伯爵令嬢が現れた。その手を取り、隣に立つのはユリウス・ハーゲン子爵令息だった。
エルネスタの友人となったユリウスは、その後、足繁くクラウゼ伯爵邸に通い、少しずつエルネスタの信頼を得ていき、ついには二人で夜会に参加するほどの仲になっていた。
会場の誰よりも華やか、というわけではなかったが、二人は品位のある美男美女といったところで、会場の視線を少なからず集めていた。
その二人が、ヴァイス侯爵令息夫妻に近づいていった。
「ごきげんよう。レオンハルト様、マリアンヌ様。ご無沙汰しております。この度はご結婚一周年おめでとうございます」
エルネスタは微笑んで、二人を祝福した。
「あら、エルネスタ様、これはありがとうございます」
そう返すマリアンヌの笑顔は引き攣って歪んでいた。
「マリアンヌ様にはすてきな方をご紹介いただいて……。マリアンヌ様のおかげで、身分やお金より、誠実さが何より大切なのだと気づきました。本当に親切にしていただいて感謝しきれませんわ」
マリアンヌは引き攣ったままの笑顔で、何も言い返すことができなかった。
隣のレオンハルトも同じように引き攣った笑顔を浮かべているが、決してマリアンヌと目を合わせることはなかった。
「どうか、末永くお幸せに」
エルネスタはそうマリアンヌに告げ、その場を離れた。
「あのお二人、ずいぶんお疲れのように見えましたね」
ユリウスが言った。
「そうかしら。お二人が望んだ結婚なんですから、幸せに決まっているわ」
「僕たちは、お互いを信じられる関係でいたいと思います」
ユリウスが照れくさそうに言うので、エルネスタは小さく笑ってしまう。
エルネスタはもう一度、レオンハルトとマリアンヌを振り返って見た。
あの二人は、愛を失っても、信頼を失っても、決して離縁はしないだろう。
奪った婚約者と死ぬまで添い遂げることができるのだ。
マリアンヌはきっと満足に違いない。
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