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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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転生先は悪役令嬢の母でした――娘を守るために税務課スキルで領地を要塞化した結果、破滅フラグが全部空振りしました

掲載日:2026/07/01

娘の髪を梳くたびに思う。この子を殺すシナリオが、どこかで書かれている。


ヴァイスベルク伯爵領の朝は早い。領館の二階、東向きの寝室に差し込む光で目が覚め、隣の小さな寝台で眠る五歳の娘ルイーゼの寝顔を確認してから一日が始まる。金色の巻き毛が枕に広がっている。前世の記憶がなければ、ただ愛らしい寝顔だ。だが私は知っている。この子が十五歳になった時、王立学園の卒業式で婚約破棄を宣告され、国外追放されるシナリオを。


前世の名前はもう思い出せない。覚えているのは職業だけだ。埼玉県某市の税務課。固定資産税の賦課事務を十七年やった。残業月八十時間が常態化した四十三歳の冬、デスクに突っ伏したまま目覚めなかった。気がつけばこの世界にいた。ヴァイスベルク伯爵夫人マルグリット、二十八歳。産後の肥立ちが悪くて寝込んでいたところに、私の意識が滑り込んだらしい。


最初の一年は混乱していた。魔法も剣術もない代わりに、この体には爵位と領地がある。伯爵である夫のコンラートは穏やかな性格だが、領地経営には関心が薄く、先代からの慣習をそのまま引き継いでいた。つまり、すべてが放置されていた。


転機は、ルイーゼが二歳の時に起きた赤痢の流行だった。


領内の南地区で三十人が倒れ、七人が死んだ。私は原因を探るために南地区を歩いた。すぐにわかった。排水路だ。生活排水と井戸水の動線が交差している。前世の公衆衛生の知識がなくても、水路を目で追えば誰でも気づく構造上の欠陥だった。だが、誰も指摘してこなかった。領主側が住民の生活圏を歩く習慣がなかったからだ。


私は排水路の設計図を引いた。前世で扱った都市計画図の記憶を頼りに、生活排水を領地の東端にある湿地帯へ流す経路を設計した。コンラートに見せると、目を丸くされた。


「マルグリット、お前はいつの間にこんな図面を描けるようになった」


「寝込んでいる間に本を読みましたの」


嘘だ。だが、この世界では識字率が低く、領主夫人が学術書を読む程度のことは特異ではあっても不審ではない。工事には三ヶ月かかった。石工と土木作業員を雇う費用を捻出するため、私は領地の帳簿を初めて精査した。ここで二つ目の問題が見つかった。


税制が破綻していた。


先代伯爵が定めた徴税基準は地目別の定額制で、農地も商業地も一律だった。生産性の高い穀倉地帯の農民と、痩せた丘陵地の羊飼いが同額の税を払っている。結果、丘陵地の住民が流出し、村が三つ消えていた。帳簿にはその記録すらない。


私がやったのは、前世で十七年やった仕事の焼き直しだった。住民台帳の整備。全戸訪問による実態調査。土地の等級分け。収穫量に応じた累進的な課税基準の策定。魔法は一切使っていない。紙とインクと、自分の足だけだ。


三年かかった。住民台帳が整った時、ヴァイスベルク伯爵領の人口は公式記録より二割多かった。課税対象から漏れていた住民が、きちんと把握された。同時に、過剰に徴税されていた住民の負担が軽減された。領内の税収は前年比で一・四倍になり、排水路の整備費用は初年度で回収できた。


ここまでは序章だった。問題はここからだ。


ルイーゼが五歳になった春、王都から一通の書状が届いた。王太子アルベルトとルイーゼの婚約内定の通知だった。コンラートは喜んだ。私は胃が痛くなった。


原作の知識は断片的だ。前世で乙女ゲームをプレイした記憶があるわけではない。ただ、この世界に転生してから不意に浮かぶ映像がある。学園の中庭で、成長したルイーゼが大勢の前で罵倒される場面。「悪役令嬢」というレッテル。取り巻きに囲まれて泣くヒロインを、ルイーゼが苛めたという告発。そして国外追放。


その映像が「ゲームのシナリオ」であることは、二年前に確信に変わった。王都の社交界で、王太子の側近であるフリードリヒ・ヴェーバーという青年に会った時だ。


彼は私に挨拶した後、何気ない世間話のふりをして言った。


「ルイーゼ嬢は来年、王立学園への入学が内定しているとか。将来が楽しみですね」


心臓が跳ねた。ルイーゼの入学内定は、まだ王宮の内部文書にしか記載されていない。コンラートと私にすら正式な通知は届いていなかった。前世で市役所にいた人間として断言できる。未公開の行政文書の内容を知っている民間人は、二種類しかいない。情報を漏洩された者か、別の経路で未来を知っている者か。


フリードリヒの経歴を調べた。ヴェーバー家は下級貴族で、三年前まで目立った業績はなかった。それが突然、王太子の側近に抜擢された。理由は「類まれな先見の明」と記録にある。先見の明。前世の知識で未来を知っているなら、先見の明に見えるだろう。


確信した。彼は転生者だ。そして、この世界の原作を知っている。私よりもはるかに詳しく。


その夜、領館に戻ってから私は帳簿を広げた。考えるべきことが変わった。シナリオを書き換える力は私にはない。魔法も剣も持たない元公務員に、物語の筋書きを変える手段はない。だが、自分にできることならある。帳簿を整え、排水路を引き、住民の顔を一人ずつ覚える。それだけは十七年やってきた。


悪役令嬢が破滅するのは、後ろ盾がないからだ。領地が弱く、領民が離反し、味方がいない状態で告発されるから、反論の余地なく追放される。ならば、ルイーゼが何を言われても揺るがない実績を、この領地に積み上げればいい。


それから三年。私は領地改革を加速させた。


婚姻届と出生届を統一書式にし、人口動態を正確に追えるようにした。商業区画の地目変更手続きを簡素化し、新規出店を促した。丘陵地帯には牧羊の共同組合を設立させ、羊毛の流通経路を確保した。街道沿いに公設の宿場を三箇所置き、通行税を廃止する代わりに宿泊税を導入した。旅商人が増え、領地の市場に品物が集まるようになった。


どれも魔法ではない。前世の自治体行政の応用だ。固定資産税の知識は地目変更に使える。住民基本台帳の運用は人口管理に使える。下水道の概念は排水路設計に使える。四十三年の人生で蓄積した、地味で退屈な実務経験が、この世界では希少な知識だった。


コンラートは最初、私の変貌に戸惑っていた。産後に寝込む前のマルグリットは、社交界の花として名を馳せた女性だったらしい。刺繍と音楽を嗜み、帳簿に触れたことは一度もなかった。その妻が突然、領地の全戸を歩き回り、農民の収穫量を聞き取り、排水路の傾斜を測り始めた。


「お前が幸せならそれでいい」


コンラートはそう言って、領地経営の実権を私に委ねた。理解しているわけではなかっただろう。ただ、妻が生き生きとしている理由を問い詰めるより、結果として領地が良くなっている事実を受け入れることを選んだのだ。ありがたいと思う。前世の上司とは大違いだった。


そしてルイーゼが八歳になった秋、フリードリヒ・ヴェーバーがヴァイスベルク領にやってきた。


辺境視察の名目だった。王太子殿下の命による定例視察、と書状にはあったが、定例視察などという制度はこの王国に存在しない。調べた。


彼は三日間、領館に滞在した。初日から帳簿の閲覧を求めてきた。


「領地経営の実態を把握し、王太子殿下への報告書を作成したい。徴税記録、住民台帳、支出明細、すべて拝見できますか」


「もちろんです。書庫にご案内しましょう」


私は全てを見せた。隠す帳簿はない。前世の税務課では、情報公開請求に対応するのも日常だった。


フリードリヒは二日間、書庫に籠もった。ヘルミーネの報告によれば、彼は住民台帳の全ページに目を通し、徴税記録を五年分遡り、排水路工事の支出明細と領民の陳情書まで読んだ。朝から晩まで机に向かい、食事も書庫で取った。


三日目の朝、フリードリヒが応接室で私を待っていた。顔色が悪い。


「伯爵夫人、一つ確認したいことがあります」


「何でしょう」


「三年前の排水路工事の際、南地区の石工ギルドへの発注額が市場相場の一・七倍です。ここに不正な上乗せがあったのではないかと」


来た。これが彼の手だ。帳簿の中から疑惑の種を見つけ出し、王太子への報告書に「領地経営に問題あり」と書く。それが悪役令嬢の家の評判を落とす最初の一手になる。


「一・七倍ですか。よくお調べになりましたね」


私は書庫から一冊のファイルを取ってきた。前世の習慣で、工事の見積もりは三社以上から取り、比較表を作っている。


「こちらが当時の見積比較表です。南地区の石工ギルドが一・七倍なのは、冬季施工の割増料金が含まれているためです。他の二社は春まで着工できないとの回答でした。赤痢で七名が死亡した直後ですので、春まで待つ選択肢はありませんでした。領民の陳情書と、当時の死亡記録がこちらです」


フリードリヒの表情が固まった。


「また、工事の検収報告書もあります。竣工後の水質検査記録、領民への聞き取り調査票、維持管理の年次点検表。すべて書庫の第三棚、上から二段目に時系列で整理してあります。昨日ご覧になりませんでしたか」


彼は言葉を失った。彼の「先見の明」が見せた筋書きでは、この領地の帳簿はもっと杜撰で、突けば容易く崩れるはずだったのだろう。だが現実の書庫に並んでいたのは、一件の隙もなく裏付けの揃えられた完璧な書類の山だった。


「他に何かございますか」


フリードリヒは手元の紙束を見下ろした。彼が用意していたであろう疑惑のリストが、一つずつ潰されていくのが見えた。


「丘陵地帯の減税措置について」


「収穫量調査に基づく等級分けの結果です。調査票は全世帯分あります」


「商業区画の地目変更が集中している時期が」


「規制緩和に伴う申請増です。受理台帳と審査記録が全件揃っています」


沈黙が落ちた。フリードリヒはペンを置いた。


「伯爵夫人、あなたは何者ですか」


初めて、彼の声から計算が消えた。


「ヴァイスベルク伯爵夫人マルグリットですわ。他に何か」


彼は私を見た。転生者同士が向き合う、奇妙な沈黙だった。彼は気づいている。私が普通の貴族夫人ではないことを。だが、証拠はない。あるのは、異常に精緻な帳簿だけだ。


「報告書には、ヴァイスベルク領の経営は極めて健全であると記載します」


「ありがとうございます」


フリードリヒは翌朝、王都に発った。


見送りの後、ルイーゼが私の手を引いて市場に走った。果物売りの老婆が、今年は林檎が甘いと笑っていた。排水路を直したから、果樹園の水はけが良くなったのだ。


帳簿には載らない成果だ。数字で測れない信頼が、この領地の本当の強さだ。


ルイーゼが林檎を両手に抱えて駆け戻ってきた。リボンが少し斜めになっている。直してやりながら思う。この子の未来を守るのに、剣も魔法も要らなかった。必要だったのは紙とインクと、住民一人一人の顔を覚える根気だけだ。


物語の上では端役だろう。悪役令嬢の母親なんて、名前すら出てこないかもしれない。それでいい。名前のない駒には駒の矜持がある。


今日も領地は回っている。帳簿の数字が正しい限り、この場所は揺るがない。

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