あなたが変わるのを待つのをやめました
観劇の日の朝だった。
クローディア・ローウェルは鏡の前で小さく微笑んだ。
侍女が選んだ淡い青のドレス。控えめな真珠の耳飾り。派手ではないが、ユージンが好みそうな装いだった。
「こちらでよろしいでしょうか」
「ええ、ありがとう」
婚約して六年になる。今さら着飾る必要などないのかもしれない。それでも彼と出かける日は少しだけ特別だった。
最近は二人で過ごす時間も減っていた。だから今日を楽しみにしていたのだ。
王都で人気の劇団が来ると聞き、クローディアが誘った。最初は難しいと言われた。だが何とか予定を調整してくれたらしい。
それが嬉しかった。
昼過ぎ。
屋敷の前に馬車の音が響いた。
「ユージン様がお迎えに?」
思わず立ち上がる。
しかし玄関へ向かった執事が持ってきたのは一通の封筒だった。
嫌な予感がした。
封を切る。
短い文章だった。
『急ぎの案件が入りました。本日の観劇は難しそうです。申し訳ありません』
クローディアはしばらく手紙を見つめた。それから静かに折りたたむ。
「お嬢様……」
侍女が心配そうな顔をする。
クローディアは笑った。
「大丈夫よ」
慣れていた。
観劇だけではない。食事会。散歩。お茶会。約束がなくなることは珍しくなかった。
仕事なのだから仕方がない。
そう思う。思おうとする。
けれど。
胸の奥が少しだけ痛かった。
楽しみにしていた分だけ。
ほんの少しだけ、寂しかった。
◇
数日後。
クローディアはハリントン伯爵家を訪れていた。
仕事を終えたユージンが応接室へ入ってくる。
「待たせたな」
「いいえ」
ユージンは相変わらず整った顔立ちをしていた。仕事のできる男として社交界でも有名だ。誠実で真面目。浮いた噂ひとつない。家柄も申し分ない。
周囲から見れば理想的な婚約者だった。
「この前は悪かった」
「お仕事だったのでしょう?」
「ああ」
それだけだった。
謝罪も説明も短い。
クローディアは膝の上で手を握った。
今日は話そう。
そう決めて来たのだから。
「あの……ユージン様」
「何だ?」
「少しだけ、お話をする時間をいただけませんか」
ユージンが不思議そうな顔をした。
「今しているだろう」
思わず言葉に詰まる。
「そうではなくて……」
クローディアは呼吸を整えた。
「私、少し寂しかったのです」
「寂しい?」
「最近、お約束がなくなることが多かったので」
ユージンは眉をひそめた。
「仕事だから仕方ないだろう」
「ええ、それは分かっています」
「なら問題ないじゃないか」
違う。
そうではない。
クローディアは必死に言葉を探した。
「責めているわけではありません」
「ただ、少しだけ悲しかったのです」
「悲しい?」
「楽しみにしていたので……」
ユージンは理解できないという顔をした。
「そんなに大げさな話か?」
その瞬間。
胸の奥が冷たくなった。
「大げさ……でしょうか」
「毎日会っているだろう」
「それはそうですが」
「結婚したら毎日一緒になる」
ユージンは当然のように言う。
「今だけの話じゃないか」
悪意はない。責めるつもりもない。それが分かった。
だから余計につらかった。
彼は本当に分からないのだ。クローディアが何を伝えたいのか。なぜ悲しいのか。なぜ勇気を出して話しているのか。
「そうですね」
気付けばそう答えていた。
それ以上は続かなかった。
帰宅した後も、その会話が頭から離れなかった。
窓辺に立ちながら、夕暮れの空を見上げる。
思えば六年間だった。
ユージンは忙しい人だった。だから予定は合わせた。好きな話題も覚えた。興味のない政治の話も勉強した。急な予定変更にも文句を言わなかった。
婚約者として支えたかったから。
愛していたから。
けれど。
ふと気付く。
変わったのは誰だっただろう。
私だ。
いつも私だった。
ユージンが歩み寄ったことはあっただろうか。
私のために予定を空けたことは。
話を聞こうとしてくれたことは。
思い返しても見つからなかった。
胸が苦しくなる。
それでも。
きっと私の努力が足りないのだと思った。
数日後。
クローディアは友人のマリアとお茶をしていた。
「それで、また約束を断られたの?」
率直な言葉に苦笑する。
「仕事だから仕方ないわ」
「またそう言う」
マリアが呆れたようにため息をついた。
「クローディア」
「何かしら」
「あなた、ずっと我慢しているのね」
その言葉に息が止まった。
「我慢なんて」
「しているわ」
即答だった。
「だって今の話、全部そうじゃない」
「でも婚約者ですもの」
「婚約者だから?」
マリアは首を傾げる。
「それならユージン様も歩み寄るべきでしょう」
クローディアは言葉を失った。
「あなたばかり頑張っているじゃない」
優しい声だった。責めているわけではない。心配しているのだ。だからこそ胸に刺さった。
「私がもっと理解すれば」
「違う」
マリアは静かに首を振る。
「歩み寄りって、一人でするものじゃないでしょう」
その言葉が心に残った。
それからしばらくして。
クローディアは久しぶりにユージンと夕食を共にすることになった。珍しく彼の方から誘ってくれたのだ。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
だから朝から落ち着かなかった。新しいリボンを選び、髪型を変え、侍女と一緒に何度も鏡を見た。
「楽しそうですね」
侍女に言われて少し恥ずかしくなる。
「そう見えるかしら」
「ええ」
自分でも分かっていた。
たった一度の食事。
それだけなのに。
まるで恋を始めた少女のように浮き立っている。
けれど。
約束の時間が近付いても馬車は来なかった。
代わりに届いたのは一通の手紙だった。
『急な会議が入りました。本日は難しそうです』
クローディアは目を閉じた。
怒りはなかった。
悲しみも以前ほどではなかった。
ただ。
疲れてしまった。
期待して。
待って。
諦めて。
その繰り返しに。
夜。
机の引き出しを開ける。
そこにはユージンからもらった手紙が入っていた。婚約した頃のものだ。
『次の休みは湖へ行こう』
『新しい本を見つけた』
『君に似合いそうな花を見かけた』
昔のユージンはこんな手紙を書いていた。
今より不器用だったけれど。
今よりずっと近かった。
ページを閉じる。
胸が痛んだ。
愛している。
今でも。
だからこそ苦しい。
愛しているから待ってしまう。愛しているから期待してしまう。愛しているから諦められない。
それが一番苦しかった。
◇
婚約六周年の日がやって来た。
クローディアは朝から落ち着かなかった。今日だけは大丈夫だと思いたかった。ユージンも覚えているはずだ。
六年間。
一緒に歩いてきた記念の日なのだから。
昼過ぎ。
執事が封筒を持って現れた。
その瞬間。
すべてを察した。
『申し訳ありません。本日も急ぎの案件が――』
最後まで読まなかった。
静かに手紙を閉じる。
不思議だった。
涙も出なかった。
怒りもなかった。
ただ。
ひどく静かだった。
そして。
ようやく理解した。
ユージンは変われないのではない。
変わる必要がないのだ。
困っているのは私だけだから。
寂しいのも。
苦しいのも。
待っているのも。
全部、私だけだった。
だから彼は変わらない。
変わる理由がない。
その事実を認めた瞬間。
何かが終わった。
◇
数日後。
クローディアはユージンを呼び出した。
応接室。
向かいに座る彼は少し不思議そうだった。
「話とは何だ?」
クローディアは静かに息を吸う。不思議と落ち着いていた。泣きそうになることもなかった。
「婚約を解消したいのです」
ユージンが固まった。
「……何だって?」
「婚約を解消したいのです」
「待て」
さすがに動揺したらしい。
「急すぎるだろう」
「そうでしょうか」
「理由は何だ」
クローディアは少しだけ微笑んだ。
「私はずっと待っていました」
「何をだ」
「あなたが私を見てくださる日を」
ユージンの表情が曇る。
「私は見ていたつもりだ」
「そうですね」
クローディアは頷いた。
「きっとそうだったのでしょう」
だからこそ。
もう駄目なのだ。
「私は何度もお話ししました」
「寂しいことも」
「悲しいことも」
「でも、あなたには届きませんでした」
「そんなつもりは――」
「分かっています」
遮る。
責めるためではない。
本当に分かっているから。
彼は悪人ではない。
ただ。
聞こうとしなかっただけだ。
「私はずっと待っていました」
静かな声で続ける。
「でも、もう待ちません」
ユージンが息をのむ。
クローディアはまっすぐ彼を見た。
「あなたが変わるのを待つのをやめました」
長い沈黙が落ちた。
六年間の終わりだった。
帰り道。
馬車の窓から空を見上げる。
少しだけ涙がこぼれた。
悲しかった。
苦しかった。
愛していたから。
けれど。
胸のどこかが軽かった。
誰かが変わる日を待ち続ける人生を、ようやく終わらせることができた気がした。
夕暮れの空は静かに茜色へ染まっていた。
婚約解消から三日後。
ユージン・ハリントンは執務室で書類を睨みつけていた。
いつもなら問題なく処理できる内容だった。だが今日は何度読んでも頭に入らない。視線は自然と机の端へ向かう。そこには婚約解消の書類が置かれていた。
まだ受け入れられなかった。
「婚約解消……」
呟いてみても実感が湧かない。
浮気をしたわけではない。裏切ったわけでもない。暴力を振るったわけでもない。ただ仕事を優先していただけだ。
もちろん約束を守れなかったことは申し訳ないと思っている。
だが。
婚約を解消するほどのことだったのだろうか。
どうしても分からなかった。
その日の夜。
夜会へ顔を出したユージンは、久しぶりに困惑した。
「ハリントン卿、先日の祝いの品ですが」
「祝いの品?」
「ローウェル嬢が手配してくださったと聞いておりますが」
そこで言葉に詰まる。
知らない。
何の話か分からない。
相手も気まずそうな顔になった。
「あ、失礼しました」
それだけで会話が終わる。
以前ならこんなことはなかった。クローディアがすべて把握していたからだ。
贈答品。招待状。返礼。季節の挨拶。親族付き合い。
気付けば当然のように整っていた。
だが今は違う。
少しずつ歯車が狂い始めていた。
それでも最初は、
「そのうち慣れる」
そう思っていた。
しかし慣れなかった。
仕事を終えて帰宅した夜だった。
ふと本棚へ視線が向く。そこには以前、クローディアが薦めてくれた本が並んでいた。
『面白かったら感想を聞かせてくださいね』
そんなことを言っていた気がする。
結局読まなかった。忙しかったからだ。
いや。
読もうと思えば読めた。
ただ後回しにしただけだった。
その事実が妙に胸に残った。
数週間後。
ユージンは街でマリアと偶然会った。
クローディアの友人だ。相手もこちらに気付いたらしい。一瞬だけ表情が固くなる。
「お久しぶりです」
「ああ」
気まずい沈黙。
先に口を開いたのはユージンだった。
「クローディアは元気か」
「ええ」
短い返事だった。
だがユージンは続ける。
「私は今でも納得できない」
マリアの眉が動く。
「納得?」
「婚約解消されるほどのことだったのかと思っている」
その瞬間。
マリアの目が少しだけ冷たくなった。
「本気でおっしゃっているんですか」
「何がだ」
「クローディアは何度も伝えていました」
静かな声だった。
「寂しいことも」
「悲しいことも」
「苦しいことも」
ユージンは言葉を失う。
「私は聞いていた」
「聞いていたつもりだったんでしょう」
容赦のない一言だった。
「でも聞いていませんでした」
反論できない。
思い出す。
あの日の会話。
『少しだけ寂しかったのです』
『そんなに大げさな話か?』
確かにそう言った。
理解しようとしなかった。
なぜそんな気持ちになるのか。考えようともしなかった。
マリアは小さく息を吐いた。
「クローディアは、ずっと待っていたんですよ」
「……」
「あなたが話を聞いてくれるのを」
胸の奥が重くなった。
その言葉はクローディアが言ったわけではない。
けれど。
なぜか彼女の声で聞こえた。
「彼女は、あなたに仕事を捨ててほしかったわけではありません」
マリアは続けた。
「ただ、悲しかったと言った時に、悲しかったのだと受け止めてほしかっただけです」
「……それだけでよかったのか」
「それだけです」
マリアの声は淡々としていた。
「でも、その『それだけ』を六年間ももらえなかったんです」
ユージンは何も言えなかった。
胸の奥に、今まで見ようとしなかったものが沈んでいく。
彼女は泣いていたのだろうか。
一人で。
自分の知らない場所で。
そう思った瞬間、息が詰まった。
その夜。
ユージンは眠れなかった。
ベッドへ横になっても目が閉じない。静かすぎる。何も変わっていないはずなのに、屋敷も、部屋も、生活も、どこかが欠けている。
思い返せば、クローディアはいつも話しかけてくれた。
今日あったこと。
読んだ本。
街で見かけた花。
些細な話ばかりだった。
その時は必要ないと思っていた。
聞かなくても困らない。
そう思っていた。
けれど今。
誰も話しかけてこない。
誰も待っていない。
誰も笑ってくれない。
初めて知った。
寂しいという感情を。
苦しいという感情を。
そして気付く。
クローディアは六年間、この気持ちを抱えていたのだ。
ようやく理解した時には。
もう遅かった。
◇
その頃。
クローディアは王都行政局を訪れていた。
婚約解消に伴う手続きのためだった。
「こちらの書類で問題ありません」
穏やかな声がする。
顔を上げると、一人の男性がいた。落ち着いた雰囲気の青年だった。
「ありがとうございます」
「いえ」
男性は柔らかく笑う。
「アーノルド・ウェインライトと申します」
それが出会いだった。
最初は本当にそれだけだった。だが手続きの関係で何度か顔を合わせるようになる。
不思議な人だった。
話を遮らない。途中で結論を出さない。急かさない。
その日もクローディアは行政局を訪れていた。
手続きはほとんど終わっていたが、確認事項が一つ残っていたのだ。
「こちらで問題ありません」
アーノルドが書類を差し出す。
「ありがとうございます」
クローディアは受け取ろうとして、ふと苦笑した。
「どうかされましたか」
「いえ」
少し迷ってから答える。
「昔の私なら、この書類を出すこともできなかったと思っただけです」
アーノルドは何も言わなかった。
ただ続きを待っている。
クローディアは少しだけ驚いた。
多くの人はここで励ます。あるいは助言をする。
けれど彼は違った。
「私は決めるのが苦手だったんです」
自然と言葉が続く。
「周囲に迷惑をかけたくなくて」
「失敗したくなくて」
「だから誰かの期待に応えることばかり考えていました」
アーノルドは静かに頷いた。
「それで?」
その一言にクローディアは目を瞬く。
「それで……?」
「あなたはどうしたかったのですか」
あまりにも自然な問いだった。
けれど。
クローディアは答えられなかった。
しばらく考えてから小さく笑う。
「分かりません」
「そうですか」
アーノルドは少しだけ微笑んだ。
「では、これから考えればいいんじゃないでしょうか」
「今からですか?」
「はい」
当たり前のような口調だった。
「人生はまだ続きますから」
クローディアは思わず笑った。
そんなことを言われたのは初めてだった。
これまでは何が正しいのか、何を選ぶべきなのか。そんな話ばかりだった。
けれど彼は違う。
正解を教えようとしない。
代わりに、自分で考えていいのだと言う。
不思議な人だと思った。
そして、その言葉は思っていた以上に長く心に残った。
それからクローディアは少しずつ自分のことを考えるようになった。
自分は何が好きなのか。
どう生きたいのか。
何を選びたいのか。
そんなことを考える時間が増えていった。
ある日。
何気ない会話の中でアーノルドが尋ねた。
「それで、あなたはどうしたいのですか?」
クローディアは驚いた。
「私が……ですか?」
「はい」
当たり前のように頷く。
「あなたのお話ですから」
その瞬間。
胸の奥が少しだけ熱くなった。
今まで誰かにそんな風に聞かれたことがあっただろうか。
婚約者として。
令嬢として。
周囲の期待に応えることばかり考えていた。
自分がどうしたいのか。
考えたことすらなかった。
「私は……」
言いかけて、言葉が止まる。
けれどアーノルドは急かさなかった。
ただ静かに待っている。
その沈黙が、少しも怖くなかった。
「私は、誰かの顔色ばかり見るのをやめたいです」
ぽつりとこぼれた声は、自分でも驚くほど素直だった。
「自分の気持ちを、後回しにしないでいたい」
「はい」
「それから……」
クローディアは窓の外を見た。行政局の窓から見える街路樹の葉が、風に揺れている。
「いつか、誰かと一緒にいるなら」
胸が少し痛んだ。
けれどその痛みは、前に進むためのものだった。
「ちゃんと話がしたいです」
アーノルドは静かに頷いた。
「とても大切なことですね」
それだけだった。
慰めでもなく。
同情でもなく。
ただ、クローディアの言葉を大切なものとして受け止めてくれた。
それが、たまらなく嬉しかった。
◇
季節が巡った。
婚約解消から半年後。
夜会で二人は再会した。
クローディアはすぐに気付いた。ユージンもこちらを見ている。一瞬だけ視線が重なった。
やがて彼が近付いてくる。
「久しぶりだ」
「ええ」
以前なら緊張しただろう。
だが今は違う。
不思議なくらい穏やかだった。
「少し話せるか」
「はい」
庭園へ移動する。
夜風が静かに吹いていた。
しばらく沈黙が続く。
先に口を開いたのはユージンだった。
「謝りたかった」
クローディアは驚かなかった。
どこかでそう思っていた気がする。
「今なら分かる」
ユージンは目を伏せた。
「君は苦しかったんだな」
その言葉に嘘はなかった。
だからこそ。
少しだけ胸が痛んだ。
「そうですね」
静かに答える。
「苦しかったです」
ユージンが唇を噛む。
「私は聞いていたつもりだった」
「ええ」
「だが違った」
夜風が二人の間を通り過ぎる。
クローディアは彼を見つめた。
昔なら嬉しかったかもしれない。
ようやく分かってもらえたと。
けれど。
もう戻りたいとは思わなかった。
「私は何度も伝えていました」
ユージンの肩がわずかに揺れる。
「でも」
クローディアは続けた。
「あなたは聞こうとしなかった」
長い沈黙。
否定は返ってこなかった。
返せなかったのだろう。
やがてユージンが小さく笑う。
「その通りだ」
苦い笑みだった。
「もっと早く気付くべきだった」
「そうですね」
クローディアも微笑んだ。
責める気持ちはもうなかった。
悲しみも。
怒りも。
少しずつ過去になっていた。
「でも」
彼女は言う。
「謝ってくださってありがとうございます」
ユージンは何かを言いかけた。けれど最後には何も言わなかった。
それでよかった。
二人は別々の方向へ歩き出す。
もう振り返らなかった。
庭園を戻る途中、クローディアは立ち止まった。
胸が少しだけ震えている。
悲しみではなかった。
未練でもなかった。
ただ、長い時間をようやく閉じたのだと感じた。
「ローウェル嬢」
振り返ると、アーノルドがいた。
夜会用の装いは見慣れないはずなのに、不思議と彼らしかった。
「ウェインライト様」
「お一人でしたので、声をかけてもよいものか迷いました」
アーノルドはそう言ってから、少し距離を置いて立ち止まる。
「大丈夫ですか」
その問いに、クローディアは少し笑った。
「はい」
本当にそう思えた。
「大丈夫です」
「そうですか」
アーノルドは深く尋ねなかった。ただ隣に立つ。
その静けさが心地よかった。
「少し歩きますか」
「はい」
二人は庭園の小道を歩いた。
月明かりが白い石畳を照らしている。
「先ほど、昔の婚約者の方とお話を?」
「ええ」
「つらくありませんでしたか」
「少しだけ」
クローディアは正直に答えた。
「でも、話せてよかったと思います」
「そうですか」
「私は、もう待たなくていいのだと思えました」
アーノルドは静かに頷いた。
「それは、よかったです」
その言葉に胸が温かくなる。
彼はいつもそうだった。
勝手に結論を出さない。
自分の感情を決めつけない。
ただ、クローディアが選んだ答えを尊重してくれる。
「ウェインライト様」
「はい」
「私、少しずつですが、自分の気持ちが分かるようになってきました」
「それは素晴らしいことですね」
「でも、まだ時々怖くなります」
「怖い?」
「自分で選んだものが、間違っていたらどうしようと」
アーノルドは少し考えてから言った。
「間違えることもあると思います」
クローディアは目を瞬いた。
「あるのですか」
「あります」
あまりにもあっさりした答えに、思わず笑ってしまう。
「そこは、間違えないと言ってくださるところでは?」
「そう言った方がよかったでしょうか」
「いいえ」
クローディアは首を振った。
「その方が、あなたらしいです」
アーノルドも少し笑った。
「間違えた時は、また考えればいいと思います」
「また考える……」
「はい。選び直せばいい。誰かに許されるためではなく、自分のために」
その言葉は静かに胸へ落ちた。
クローディアは空を見上げる。
夜空には淡い月が浮かんでいた。
「私、前より少し強くなれた気がします」
「ええ」
アーノルドは優しい声で答えた。
「そう見えます」
その言葉が嬉しかった。
◇
それから二年後。
休日の午後。
クローディアは窓辺で紅茶を飲んでいた。向かいにはアーノルドがいる。
穏やかな時間だった。
特別なことは何もない。
けれど心地よい。
「何を考えているんですか」
アーノルドが尋ねる。
クローディアは少し考えた。
「昔のことを」
「嫌な思い出ですか?」
「いいえ」
首を振る。
「大切な思い出です」
苦しかった日々も。
迷った時間も。
全部あったから今がある。
アーノルドは優しく笑った。
「そうですか」
そう言って、机の上の封筒を手に取る。
「そういえば、こちらが届いていましたよ」
差し出された封筒を受け取り、クローディアは目を丸くした。
王立劇場の公演案内だった。
「あら」
「人気の劇団らしいですね」
アーノルドが微笑む。
「行ってみますか?」
クローディアは案内状を見つめた。
かつて。
楽しみにしていた観劇があった。
けれど、その日は来なかった。
寂しくて。
悲しくて。
何度も待った。
でも今は違う。
クローディアは顔を上げる。
「ぜひ」
自然に笑みがこぼれた。
「一緒に行きましょう」
「喜んで」
窓の外では柔らかな陽射しが庭を照らしている。
特別なことは何もない。
けれど。
こんな穏やかな時間が愛おしかった。
かつての私は、誰かが変わる日を待っていた。
待ち続けて。
苦しんで。
傷ついていた。
けれど今は違う。
自分の幸せを後回しにしない。
自分の気持ちを見失わない。
自分の足で歩いていく。
変わろうとしていたのは、ずっと私だった。
だから苦しかった。
でも、自分の幸せを後回しにするのをやめた時。
私はようやく前を向くことができた。
――ああ。
ようやく私は、自分の足で歩けるようになったのだ。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけると励みになります。




