ありふれた日常
朝の電車は、いつも少しだけ息苦しかった。満員というほどではないが、誰もが互いを気にせず、それでいて微妙に距離を測り合っている空気がある。主人公――まだ名も特別な役割も持たなかった彼は、その空気の中でいつも同じことを考えていた。
衝突しなければ、それでいい。
誰かに勝たなくてもいい。正しくなくてもいい。ただ、争わずに今日を終えられれば、それで十分だ。
会社では自己主張の強い同僚が評価され、理不尽な要求が通ることも多かった。それでも彼は反論しない。反論すれば、議論になる。議論は対立を生む。対立は、いつか誰かを傷つける。
だったら自分が引けばいい。
それが彼の生き方だった。
昼休み、コンビニで買った安い弁当を公園のベンチで食べながら、彼は空を見上げる。青空の下では、子どもたちが意味もなく走り回り、転んでは笑っていた。そこに勝ち負けはなく、命令も支配もない。ただ動きたいから動き、笑いたいから笑っている。
――こんな世界が、ずっと続けばいいのに。
そんな願いを抱くこと自体が、どこか幼稚だと分かっていた。それでも彼は、その願いを手放せなかった。
その日の帰り道だった。
交差点で信号を待つ人々の中に、彼も混じっていた。赤信号。スマートフォンを見る者、考え事をする者、苛立ちを隠さない者。誰もが自分の世界に閉じこもっている。
次の瞬間、耳障りなクラクションと、誰かの叫び声が重なった。
大型トラックが、制御を失って交差点に突っ込んでくる。
逃げる暇はなかった。ただ一人、よろめいた子どもが視界に入る。
体が、勝手に動いた。
考えるより先に、彼は前に出ていた。腕を伸ばし、子どもを抱き寄せる。重さと衝撃。視界が回転し、次の瞬間、世界が白く弾けた。
痛みは、意外なほどすぐに消えた。
代わりに訪れたのは、不思議な静けさだった。
音がない。重さもない。自分の体があるのかどうかすら、分からない。
――ああ、死んだのか。
驚きはなかった。恐怖も、後悔も。
ただ一つ、胸に浮かんだのは、ひどく穏やかな思いだった。
戦わないで済む世界が、どこかにあればいい。
もし次があるなら、争わなくていい場所で。
その願いが、祈りになった瞬間。
彼の意識は、ゆっくりと引き延ばされ、形のない闇の向こうへと引き込まれていった。
それが、後に“平和主義の異質なデーモン”と呼ばれる存在の、始まりだった。




