『醜男王子と美女令嬢』
幼い頃から俺は、陰で「汗っかき」「不細工」「デブ」などと散々に言われて育ってきた。王子という立場ゆえ、誰も正面切っては言わない。だが、視線の隙間やくぐもった笑い声から、俺の容姿が笑いの種になっていることくらい分かっていた。鏡を見るたび、そこに映る丸顔と常に光る汗にため息をつく。侍従も女官も優しすぎて、誰も本当のことを口にしない。その過剰な気遣いが、かえって胸を刺した。
だから俺は、華やかな舞踏会が大の苦手だった。煌びやかなシャンデリアが光を放ち、貴族たちが色とりどりの衣装を身にまとい、楽団が軽快なワルツを奏でている。会場全体が眩しすぎて、俺には居心地の悪い舞台装置にしか思えなかった。
ところが、その夜は違った。大扉が開かれると、そこに侯爵令嬢が現れたのだ。
金色の髪は光を受けてきらめき、ひと房ひと房が宝石のように輝いた。白いドレスは淡く薔薇の香りを漂わせ、彼女の周囲だけが別世界のように澄んで見えた。周囲の貴族たちは一斉にざわめき、その視線を奪われる。だが、彼女は迷いなくこちらを見て、にっこりと笑った。
その笑顔に、俺は雷に打たれたように息を呑んだ。心臓が胸を突き破らんばかりに跳ね上がり、額から汗が一気に吹き出す。ハンカチを探そうとする手は震え、緊張のあまり床に落としてしまった。慌てて拾おうとして腰をかがめた瞬間、靴が汗で滑り、見事に尻もちをついた。
「お、おお……!」
場内がどよめきに包まれる。赤面して立ち上がろうとする俺に、侯爵令嬢は口元を手で隠しながら、くすくすと笑って声をかけてきた。
「王子さま、床まで愛されていて羨ましいですわ」
……その一言に、俺の心は完全に撃ち抜かれた。恥ずかしさよりも先に、「なんて素敵なユーモアを持つ女性なんだ」と感動すら覚えたのだ。
「そ、そんな……あ、ありがとうございます……! 床は、たしかに……いや、ちが……」
言葉がまとまらず、しどろもどろになる俺を、彼女は面白そうに見つめていた。その青い瞳が俺を真っ直ぐに射抜き、視線を外すことができなかった。
それからの俺は必死だった。勇気を振り絞ってダンスを申し込み、汗を飛ばしながら不器用にリードし、幾度もつまずいた。だが彼女は笑って付き合ってくれる。ステップを間違えるたびに俺は焦り、
「す、すまない!」
と謝るが、彼女はにっこりと笑いながら、
「大丈夫ですわ。王子さまの熱意が伝わってきますもの」
と返してくれる。その笑顔が見たくて、俺は震える手足を必死に動かした。
周囲からは「無理だ」「ありえない」と冷たい声が飛んだ。だが俺は、押し切った。胸の奥で何かが燃えるように強くなり、必死に言葉を選びながら彼女に想いを告げた。
「俺は……俺は君に惹かれている! 見た目や周囲の声など関係ない、この想いだけは誰にも負けないほど真実だ!」
会場が静まり返る中、彼女は驚いたように目を瞬かせ、それからふっと笑った。その笑顔はどこまでも清らかで、俺の不安を一瞬で溶かしてくれた。
そして――奇跡のように、婚約までこぎつけたのだ。
その瞬間、汗でびしょ濡れの顔に、初めて誇らしい笑みが浮かんでいた。
婚約が決まった夜、俺は夢見心地だった。憧れの侯爵令嬢が隣にいて、未来を約束してくれた。これほど幸せなことがあるだろうかと、胸を熱くしたのを覚えている。
だが、その甘い幻想は、早々に打ち砕かれることになる。
「まあ、王子さま! 今日もお顔が汗でキラキラと輝いておりますのね。まるで宝石のよう……いえ、油のよう?」
朝の庭園を散歩している最中、彼女はにこやかにそう言った。白いドレスの裾をふわりと揺らし、涼しげな笑みを浮かべて。俺は一瞬、返事に詰まったが、必死に笑みを作る。
「は、はは……そ、それは君のおかげで緊張しているからだよ」
「まあ、緊張で噴水のように汗が出るなんて、王子さまは本当に芸達者ですわね」
彼女は鈴の音のように笑い、その場にいた侍従や庭師たちが、こらえきれずに咳払いをしたり視線を逸らしたりするのが見えた。俺の背中を汗がつうっと伝い、余計に火照りを増す。
次の日も、その次の日も、彼女の“いじり”は止まらなかった。
「そのお腹……まあ! 王国の食糧庫でも隠してらっしゃるの?」
「今日は背中まで汗で濡れておりますのね。きっと王国の湖も干上がらずに済みますわ」
「王子さまが立っていると、まるでサウナの番人みたいで頼もしいですわ!」
周囲がどっと笑いに包まれるたび、俺は「これも愛情表現なのだ」と自分に言い聞かせた。彼女はきっと、俺のコンプレックスを笑い飛ばすことで軽くしてくれているのだと……そう思いたかった。
だが夜になると、豪奢なベッドの上で一人、枕を抱きしめながらため息をつく。豪華な天蓋の向こうに見える月がやけに冷たく、胸の奥がじわりと痛む。笑われるたびに、心の奥に小さな針が刺さっていくようだった。
ある日、侍従が真剣な顔で耳打ちしてきた。
「王子さま……あの令嬢は、王妃の座を狙っているだけだと噂されています。お顔や体のことも、暇さえあれば陰で笑っておられるとか……」
「そんなはずはない!」俺は思わず声を荒げた。「彼女は……彼女はそんな人ではない!」
だが、侍従は痛ましげに目を伏せた。城の廊下で出会う侍女たちの笑みも、どこか冷ややかに感じる。舞踏会で俺を笑い者にしたように、最近は人々の視線が鋭く突き刺さる。笑いの裏にあるざわめきを、耳が勝手に拾ってしまうのだ。
「……いや、違う。彼女は俺を受け入れてくれている。きっとそうだ……」
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥に膨らむ不安は、日を追うごとに大きくなっていった。
そんな俺には唯一、心を安らげる存在がいた。名はニャーゴ。何ともべたな名前だが、その響きが妙に心にしっくりきた。
まだ幼い頃、庭園で庭師たちが一匹の小さな猫を追い払おうとしている場面に出くわした。黒と白のまだら模様の毛並みは泥に汚れ、細い足は怪我をして血がにじんでいた。庭師たちは「厄介者だ」と石を投げていた。俺は思わず駆け寄り、その身を庇ったのだ。
「やめろ! 俺の許しなく、命を傷つけることは許さぬ!」
震える猫を抱きかかえた瞬間、小さな体が俺の胸に顔をうずめて、か細い声で鳴いた。にゃあ、と。それが不思議と胸に響き、俺は名を「ニャーゴ」とつけた。
以来、ニャーゴは俺の傍を離れなかった。玉座の間の隅で、毛づくろいをしている姿。侍従の目を盗んで寝台に潜り込み、丸くなって眠る姿。令嬢にきつい言葉を浴びせられ、胸の奥が痛む夜も、枕元で小さく喉を鳴らし、寄り添ってくれたのはニャーゴだった。
「ニャーゴ……お前だけが、俺の味方だな」
そう囁くと、猫はきょとんとした目でこちらを見上げ、にゃあと返す。その無垢な声が、どんな賛辞やお世辞よりも俺を慰めた。
誰にも気づかれぬように、俺の孤独を救う存在がここにいた。
結婚式の準備が進むにつれ、城は華やかさを増していった。白百合で飾られた大広間、きらめくシャンデリア、祝福の音楽の練習。花嫁衣装に身を包む侍女たちが慌ただしく行き交い、誰もが幸せな未来を信じているようだった。だが俺の胸の中は晴れるどころか、重苦しい靄に覆われていた。
「まあ王子さま、今日もお顔がつやつやでございますわね。まるで油絵の具で塗ったみたい!」
試着室で礼服を合わせているとき、侯爵令嬢は鏡越しに微笑みながらそう言った。金色の髪を結い上げ、ドレス姿で扇をひらひらさせ、楽しげに首をかしげている。侍女たちは一瞬息を呑んだが、すぐに笑いを押し殺した。俺は必死に笑みを作りながらも、胸の奥がひりついていた。
「そ、そうか……ありがとう。君が見てくれているから、そう映るのかもしれないな」
「まあ、王子さまはお優しい。けれど本当に塗りたくられたように光っておりますわ」
その言葉に場の空気が小さくどよめき、俺は笑うしかなかった。
夜、寝室で一人鏡を見つめる。映るのは丸顔に滲む汗、不格好な顎、だらしない腹。煌びやかな衣装に包まれても、変わらない己の姿がそこにあった。
「……この顔が、俺の罪なのか」
独り言が暗い部屋に落ちる。重たい沈黙がのしかかる。だが同時に、心の奥で別の声が囁いた。
「いや……本当に、自分を笑うだけの相手と、この先の人生を歩んでいいのか?」
俺は額の汗をぬぐいながら、枕元に丸まるニャーゴをちらりと見やった。猫は小さく喉を鳴らし、俺を見上げていた。その無垢な目に、心が少し揺らぐ。
そして迎えた式の前夜。広間の窓辺、月明かりが差し込む中、侯爵令嬢はグラスを片手に微笑んでいた。彼女の白い指先が赤いワインをくるくると揺らし、真紅の液体が月光に透けて煌めく。
「王子さま」
彼女は涼しい顔で口を開いた。
「王妃になれさえすれば、あなたのお顔などどうでもよろしいのですわ」
あまりにも軽く、しかしはっきりとした声音だった。俺は思わず椅子から立ち上がりかけ、ずっこけそうになった。
「ど、どうでも……よろしい、だと!?」
声が裏返り、情けない響きになった。彼女は眉一つ動かさず、扇を口元に当てて淡々と続ける。
「ええ。だって王子さまのお顔……正直に申しまして、拝見していても退屈でございますもの。ですから王妃の座があれば、それで十分でございますわ」
俺は唖然として彼女を見つめた。胸の奥がズキリと痛み、同時に何かがぷつんと切れる感覚があった。だが、その「どうでもよろしいですわ」という独特の言い回しが妙に耳に残り、怒りよりも先に笑いがこみ上げてくる。
「……ははっ、どうでもよろしい……か。いや、そんなこと言われて笑ってしまう自分が情けないな」
俺は顔を覆いながら苦笑した。深い失望が胸を覆っていた。しかしその失望は、不思議なほどに澄んでいた。重苦しい靄が晴れるように、心の奥で吹っ切れる感覚が広がる。
「ありがとう、令嬢。俺はようやく、決められた気がする」
俺は静かに言葉を口にした。彼女は意味を悟らぬまま、ただ優雅に笑っていた。
結婚式当日。大広間は白百合の花で埋め尽くされ、頭上では巨大なシャンデリアが宝石のような光を振りまいていた。参列した貴族たちは煌びやかな衣装に身を包み、誰もが新しい未来を祝福する雰囲気に包まれている。楽団が奏でる甘美な旋律が空気を震わせ、神官が誓いの言葉を読み上げようとしていた。
俺は祭壇の前に立ち、額を伝う汗をぬぐった。胸は高鳴り、視線が一点に集中する。隣には侯爵令嬢――未来の王妃とされる彼女が、優雅に微笑んでいた。だが、その微笑みの奥に潜むものを思うと、心臓はさらに重く打ち続ける。
「侯爵令嬢よ!」
俺は右手を高く挙げ、声を張り上げた。
「お前との婚約は――破棄する!」
大広間は一瞬、時が止まったかのように静まり返った。次の瞬間、ざわめきが奔流のように広がり、参列者たちのざわつきが壁を震わせた。侍女が驚いて手にした花束を落とし、金色の花びらが床に舞った。
「な、なんですって!?」
侯爵令嬢は目を見開き、顔を真っ赤に染め上げた。ドレスの裾をばさりと翻し、扇をばしんと閉じて叫ぶ。「こんな舞台で私に恥をかかせるおつもりですの!?」
俺は深呼吸し、堂々と胸を張った。額から汗がつつーっと流れ落ちるが、もう気にならなかった。会場の視線が一点に集中し、喉が焼けるほど乾いていたが、言葉は止まらない。
「笑い者にされ続ける日々に耐える必要はない! 俺は醜男かもしれぬが、心までは醜くない!」
瞬間、場の空気が震えた。前列に座っていた老侯爵が、杖を叩いて「よく言った!」と声を張り上げた。それを皮切りに、参列者たちの間にどよめきが走り、やがて拍手が次々と湧き起こる。
「王子が言ったぞ!」 「真実を語った!」 「勇気あるお方だ!」
侯爵令嬢は逆上し、顔を歪めてヒステリックに叫んだ。
「信じられませんわ! 私を誰だと思って……!」
彼女の声は高く甲高く響き、やがて哀れさを帯びていった。さっきまで羨望の的だった彼女の姿が、今や痛々しく映る。参列者たちは冷ややかな視線を送り、囁き合いながら眉をひそめた。
俺はふっと息を吐き、肩をすくめて自嘲気味に笑った。「結婚式が婚約破棄式になるとは……さすがに汗だくだな、俺」
一瞬の沈黙のあと、大広間は爆笑の渦に包まれた。緊張で固まっていた空気がほどけ、笑いと拍手が波のように広がっていく。参列者の中には涙を拭いながら笑う者もいた。
「ははは! 王子、やるではないか!」
「婚約破棄式とは前代未聞!」
堅苦しい空気が一転し、場はまるで喜劇の舞台のように明るさを取り戻した。俺はその笑いの中で、胸の奥がようやく軽くなるのを感じていた。心臓の鼓動はまだ速かったが、不思議と爽快だった。
婚約破棄の宣言が響き渡ったその瞬間、祭壇の脇で突如として白い閃光が走った。眩しさに参列者たちは一斉に目を覆い、ざわめきが広がる。光の中心にいたのは、俺の足元で丸まっていた小さな猫――ニャーゴだった。
「な、なにごとだ……!?」
ざわつく声の中、ニャーゴの小さな体がゆっくりと宙に浮かび上がる。光に包まれ、その輪郭がみるみる変化していく。柔らかな毛並みは光に溶けるように消え、代わりに白い肌が現れる。長い髪が流れ落ち、月明かりのような輝きを放った。光が収まったとき、そこには美しい美女が立っていたのだ。
「……に、ニャーゴ……なのか?」
俺は息を呑み、信じられない思いで問いかけた。彼女は真珠のように透き通る瞳で俺を見つめ、柔らかく頷いた。
「やっと……やっと呪いが解けました」
その声は澄んでいて、胸の奥を震わせた。参列者たちは椅子から立ち上がり、驚きと好奇の入り混じった視線を向ける。侯爵令嬢は口を開いたまま固まり、言葉を失っていた。
美女は一歩、二歩と俺に近づく。その歩みは確かで、微笑みには懐かしさと慈しみが混ざっていた。
「私は……魔女の呪いで猫の姿に変えられていたのです。容姿にコンプレックスがある高貴なお方が婚約を破棄した時にのみ解ける、という……むちゃくちゃな条件付きで。魔女はきっと悔しがっておりますわ。だって王子様といえば本来イケメンが相場、そんな高貴なお方に『容姿のコンプレックス』を背負わせるなんて、魔女のテンプレートに過ぎなかったのですから」
会場がどよめく。侍従が「そ、そんな馬鹿な……」と呟き、神官までもが目を丸くしている。俺は呆然としながらも、気づけば笑っていた。
「なるほど……俺の不遇な顔も、ついに役に立ったってわけか」
会場の緊張が一気にほぐれ、参列者たちが「ははは!」と爆笑する。誰もが笑いながら拍手をし、式場は奇妙な祝祭に包まれた。
彼女は頬を赤らめ、そっと俺の顔に寄せる。まるで昔の癖を取り戻すかのように、ぺろぺろと俺の頬を舐めはじめた。
「お、おい! やめろ、ここは結婚式場だぞ!」
俺は真っ赤になって叫ぶ。参列者たちは大爆笑し、老侯爵は腹を抱えて涙を流していた。神官すら肩を震わせて笑いをこらえている。
「だって……あなたの匂いも温もりも、ずっと知っていたから……」
彼女は恥ずかしそうに言い、俺を見上げた。その瞳には、猫だった頃の忠実な眼差しと、人間としての確かな意志が宿っていた。
俺は深く息を吸い、彼女の手を強く握る。そして堂々と宣言した。
「ならば……新たにここで誓おう。俺の心を救ってくれたニャーゴ、お前と共に生きる!」
その言葉に参列者たちは総立ちになり、拍手と歓声が渦巻いた。笑いと涙が混ざり合い、白百合に満ちた大広間は祝福の嵐に包まれた。俺の人生は、ようやく真実の伴侶と共に歩み出すのだと、胸の奥から確信できた。