雨音の底
雨音の底
夏休みの終わりが近づく頃、美咲は幼馴染の彩乃と共に、久しぶりのキャンプを楽しんでいた。二人は高校を卒業し、それぞれの道を歩み始めていたが、幼い頃の思い出が詰まったこの川辺だけは、変わらず特別な場所だった。
「覚えてる?ここで夜遅くまで肝試ししたの」
「うん。でも、あの時はまだ子どもだったから、ただの怖い話だったけどね」
雨が降り始めた。最初は霧雨のように優しかった雨粒が、やがて激しい音を立てて屋根を打ち始める。
テントの外では、川の流れが次第に激しくなり、どこか不穏な空気が漂った。美咲は少しだけ不安を覚えたが、彩乃の明るい声に気を紛らわせていた。
「この雨の音、なんだか心地いいね」
「でも、ずっと聞いてると……なんだか変な感じがしてきた」
夜が更けるにつれて、雨はさらに勢いを増し、川の水音と混ざり合って辺り一面を包み込んだ。美咲はテントの隅で、懐中電灯の光をぼんやりと見つめていた。幼馴染の彩乃は笑いながらスマホで音楽をかけ、少しでも怖さを紛らわせようとしている。
「ねえ、美咲、さっきから聞こえる水の音、ただの雨の音じゃないよね」
「……そうかもしれない」
美咲は心の中でつぶやき、そっとテントを出た。外は雨に洗われているが、その冷たさが妙に肌に染み渡る。川の近くへ歩を進めると、水面が波打ち、どこか生き物のように揺れていた。
その時、ぽたぽた、と一定のリズムで水滴が落ちる音が聞こえた。辺りを見回しても、視界は雨に煙り、誰の姿もなかった。音だけが鮮明に響き続ける。
「誰かいるの?」
声を上げても答えはない。だが、その音はまるで呼吸のように、美咲の心臓の鼓動と同期しているようだった。
美咲は懐中電灯を握りしめ、ぽたぽたと響く水滴の音を頼りに、キャンプ場の奥にある古いトイレへ向かった。扉は朽ちかけ、雨に濡れた木の匂いが鼻を突く。電灯の光は薄暗い壁に反射し、湿った空気の中でぼんやりと揺れた。
「彩乃、待ってて……すぐ戻るから」
答えはなかった。彼女の背中に、微かな寒気が走る。トイレの中は静まり返り、ぽたぽたと音を立てる水滴だけが空間を満たしていた。蛇口から垂れる水の音だろうか。だが、よく見ると水道管は錆びつき、蛇口は固く閉じられていた。
美咲は心臓が早鐘を打つのを感じながら、ゆっくりと便器の水たまりを覗き込んだ。そこに映る水面が、ふいに波打ち、不意に誰かの顔が浮かび上がったような錯覚に襲われた。
「いや、気のせい……」
振り返ろうとした瞬間、背後の闇から冷たい視線を感じた。慌てて扉に手を伸ばすが、雨音に紛れて何かが低く囁く声が聞こえた気がした。
「龍神さまを怒らせたからだよ」
美咲は声の主を探そうとしたが、そこには誰もいなかった。心細さが一気に込み上げ、走るようにトイレを飛び出した。外に出ると、彩乃が心配そうに彼女を見ていた。
「大丈夫?」
美咲は言葉を詰まらせた。二人はテントへ戻り、火を囲みながら沈黙を破った。
「この川には、昔から不思議な話があるんだ」
彩乃が静かに話し始めた。二人の気持ちは次第にざわつき、夜の闇が一層深くなる。
彩乃は焚き火の炎を見つめながら、声を潜めた。
「昔、この川で若い女性が溺れ死んだって言われてる。彼女は村の龍神さまの怒りを買ったらしくて……その夜は大雨で、川はいつもより激しく荒れていたらしい」
美咲は息を飲んだ。雨の音が耳に痛いほど響き、心臓が締め付けられるようだった。
「その女性は、今もこの川辺にいるって。大雨の夜になると、水の滴る音と共に現れて、人を呼び寄せるっていう……」
「それって、私たちが聞いた水音のこと?」
彩乃がうなずく。二人は目を合わせた。怖いけれど、逃げ出せない。何かに引き寄せられるような気持ちだった。
美咲はふと、自分の足元の湿った土を見つめた。雨に濡れた川の底には何が沈んでいるのか、知りたくもなく、でも知ってしまったら戻れなくなる気がした。
夜はさらに深くなり、雨は収まる気配を見せない。ぽたぽたという水滴の音が、耳の奥でこだまする。
「ねえ、美咲……もし、あの女性の声が聞こえたら、どうする?」
彩乃の言葉に、美咲は答えられなかった。心の奥で何かが揺れ動き、恐怖と好奇心が交錯する。
やがて、二人の間に沈黙が訪れた。だが、外では雨音の中に別の音が混ざっていた。人のすすり泣きのような、遠くの川辺から聞こえるかすかな声。
美咲は震える手で懐中電灯を握り直した。周囲の闇が濃くなるにつれて、心の底から凍りつくような寒気が全身を包んだ。
水面に映る月明かりが揺れ、その中からゆっくりと白い手が伸びてくるような錯覚に襲われた。叫びたいのに声は出ず、ただただその光景を見つめてしまう。
翌朝、晴れ渡った空の下、美咲と彩乃は無言のまま撤収作業を進めていた。だが、二人の心はあの夜の出来事に縛られ、逃れられなかった。
車のエンジンをかけた瞬間、ぽたぽたと滴る音が車内に響いた。振り返ると、誰もいないはずの後部座席の窓に、水滴の跡がひとつ、ふたつと広がっていく。
美咲は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。雨音の底には、決して消えない何かが潜んでいる。
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