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鱗生病



「そいつか。今朝浜に流れ着いていたというのは」


 足音も、気配もなかった。部屋の襖を開けたのは、濡羽色の上質な着物を身に付けた若い男だ。背はすらりと高く、端正で男前な顔立ちをしている。

 千代子は思わず見入ってしまった。父親とも茂とも、これまで見てきたどの同級生とも違う、妙な色香のあるその男に。


「父上。起きていたのですか」


 帆次が彼を振り向いて言った。どうやら、彼は帆次の父親らしい。親にしては見た目が若い。一体何歳の時に産んだのだろうと不思議に思う。


「ご承知の通り、例のよそ者はこいつです。既に人魚族とも接触しているようです」


 帆次は眉を寄せて続けた。


「――早く帰さねば、戻れなくなってしまうでしょう」


 千代子はそこでハッとする。


 帆次は昼間会った時もこの島から出た方がいいと言ってきた。彼は千代子をこの島から追い出そうとしているのだ。

 確かに怪異は恐ろしかったが、千代子にとってはそれよりも娘ほど年の離れた千代子に欲情する茂や、義理の娘である千代子を売った母の方が恐ろしい。

 栃木に戻るくらいならあの怪異に喰い殺された方がマシだ。


「……私、帰ります」


 こんな不気味な一族の屋敷にずっといるわけにもいかない。珊瑚の元に帰りたい。そう思って部屋を出ようとした。


 すれ違いざま、ぱしっと腕を掴まれる。男らしい強い力だ。掴んだのは帆次の父である。

 彼は千代子の袖を捲くり、腕に出ている紅い斑点を見つめた。そこは、千代子が昼間から何度も掻き毟っていた箇所だった。


鱗生病(りんせいびょう)の症状が出ている」


 彼はよく分からないことを言うと、突然千代子の顔を両手で掴み、じぃっとその目を見つめてきた。彼の目は暗い金色で、見つめていると何だか吸い込まれそうな異様な気持ちになった。

 次の瞬間ぐるぐると目眩がし、千代子は思わず彼から目を逸らす。すると視界は揺れなくなった。


「名は何と言う」


 低く甘い声で問いかけられ、千代子は恐る恐るもう一度帆次の父を見た。目眩はもうしない。


「私の名前は……」


 言いかけて、口籠る。


(――何だっけ?)


 おかしい。自分の名前が口から出てこない。

 帆次の父がふっと笑った。優しい笑顔とは決して言えぬ、邪悪な笑みだった。


(ふみ)にしよう。お前は今日から文だ」


 それを聞いた隣の帆次がはっとしたような顔をし、その後、複雑そうに口をもごもごさせる。


「父上、お戯れはよしてください。その名は……」

「いいだろう。この子は文によく似ている」


 愛しそうに囁いた帆次の父は文から手を離し、腕を組んで立ち去っていく。


「しばらく世話をしてやれ。その子は本土に戻りたくないようだからな」


 彼がいなくなった後、文は足を崩して座っている帆次に視線を移した。


「……帆次さん」

「帆次でいい。敬語も不要だ」

「じゃあ……帆次。今の人が言っていた、鱗生病って何?」


 栃木では聞いたことのない病名だったので気になった。

 死のうとしていた身で病気が怖いのもおかしな話だ。しかし、得体の知れないものにかかっているというのなら症状くらいは知っておきたい。


「進行の速さに差はあるが、ほとんどの人間が最終的には死に至る病だ。外見的特徴として、肌に鱗が生える。お前はまだ進んでねぇみたいだけど、初期症状は腕や足の掻痒感と、紅い斑点。お前もそのうち鱗が生えるぞ」


 珊瑚の屋敷で見た老婆の姿を思い出して悪寒が走った。自分もあのような醜い肌になって死んでいくのだろうか、と喪失感を覚える。

 文は慌てて部屋の隅に寄って帆次と距離を取った。


「……何だよ」

「だって、感染経路の分からない病気なんでしょう? 私と喋ってたら帆次も移るかも」


 帆次は一瞬ぽかんとした後、くっと低く笑い声を上げた。


「そのうち死ぬっつーのが確定したのに、他人の心配かよ」

「誰かを道連れにして死ぬより一人で死ぬ方がまだいいもの……」


 それに、文は自殺を試みて死に損なった身だ。元々死ぬつもりだったのだから、死ぬこと自体は怖くない。


「安心しろ。海雲族だけは鱗生病にかかっても重症化しない」

「……どうして海雲族だけ?」

「さぁな。俺も分からねぇ。ただ、俺らだけが助かってるから島の奴らからは俺らが持ち込んだんじゃねぇかって疑われてる」

「だから今日いじめられてたの?」

「海雲族が差別されているのは、おそらくそれもある」

「そんな……証拠もないのに」


 文がもう一度座布団の上に座ると、帆次が照明器具に火を付けた。和室が一気に明るくなる。


「で、余命わずかな文ちゃんは、何かやりたいことはあるか?」

「やりたいこと?」

「何でもいい。たらふく飯が食いたいとか、綺麗な花が見たいとか。俺に叶えられることなら最期に叶えてやる」


 意外な質問だった。彼なりのいずれ死ぬ者に贈る思いやりなのかもしれない。

 しかし、突然やりたいことを聞かれても困ってしまう。今の文にはそのようなことを考える余裕はないからだ。


「特にない……」

「ない、だぁ? お前、死ぬんだぞ? 早ければ発症して一週間で足がやられて動けなくなる。排尿もうまくできなくなって死ぬぞ。いいのか? 動けるうちに何かやらなくて」


 帆次の言葉を聞いて、思い出したくもない茂の言葉が頭に浮かんだ。


 ――『最初は、膝や足が震えて歩けなくなったり、尿失禁が起こったりするだけなんだけど……そのうち全身の筋力が低下していて動けなくなって、ほとんどの人が死に至ったらしい。祟りだと騒がれて一時期は大変だったようだよ』


 霧海村に起こった祟り。

 それは今も銀鱗島を蝕んでいる鱗生病が、村に上陸したから起こったことではないだろうか。症状があまりに似ている。


「…………」

「……ああもう、いいよ。俺が決めてやる」


 黙り込んでいる文に痺れを切らしたのか、帆次が頭を掻きながら言う。


「俺と一緒に鱗生病の原因を解明しろ」

「……え?」

「数百年続く意味分かんねぇ流行り病のせいであらぬ疑いかけられてうちの一族は迷惑してんだよ。人助けだと思って手伝え。もしかしたら、その過程で病を治す方法も見つかるかもしんねぇしな」


 文はしばし考えた。どうせ死ぬ身で、自分のためにやりたいこともない。であれば、最期に他人のために何かして死んだ方が気持ちがいいかもしれない。

 残り少ない時間の中で数百年も原因不明だった病について解明できるわけがないと思いつつ、最期の思い出作りとしてそのための努力をすることは悪くないような気がした。


「……他にやることもないし、分かった。協力する」


 文がこくりと頷くと、帆次は満足げに笑った。




 夜明け前、文は帆次に背負ってもらって島の中心部まで戻った。人間離れした跳躍力を持つ帆次の足のおかげでたった数分で珊瑚の屋敷に辿り着くことができた。

 遠くに見える赤い橋を見て、やはりあの橋の向こうに行ってしまっていたのだと少し申し訳なく思う。あれほど珊瑚に釘を刺されたのに、結局足を踏み入れてしまった。

 屋敷の門の前まで来た文は、そこではっと大事なことを思い出した。


「……ねぇ帆次、私、人魚族のお屋敷から出ていった方がいいかな? もし移ったら大変だし」

「心配しなくても、鱗生病は空気感染しねぇよ」

「何でそんなこと分かるの?」

「この島には五代続く病院がある。そこの病院はこの島唯一の病院で、代々鱗生病の研究をしてる。先代が遺した手記には空気感染は認められないと書いてあった」

「……じゃあ人魚族は、空気では移らないことが分かってるのに感染者を隔離してるってこと?」

「頭じゃ分かってても過敏になってんだよ。空気感染じゃねぇはずなのに、人魚族だけ感染者が圧倒的に多いせいだ。俺ら海雲族が鱗生病に強いみたいに、あいつらは逆に弱いのかもな。お前も発症したことは隠した方がいい」


 それだけ言って帆次は文を背中から下ろした。


「んじゃ、文ちゃん。夜にまた迎えに来るから。俺に会ったことは人魚族の連中には言うなよ」

「うん。色々教えてくれてありがとう」


 ひらひらと手を振る。瞬きした次の瞬間、帆次はいなくなっていた。上空を見ると既に空高くにいる。橋の上で会った時も上に跳んでいたのだろう。


 東の空が赤みを帯びて明るみ始めている。

 文は音を立てないように屋敷に入って錠をかけ、紅い斑点のある自分の腕を見た。




 鱗生病。死に至る病。

 不謹慎だが、発症したことにほんの少しだけほっとしていた。これで死ぬための言い訳ができたから。

 文には与えられた命を自ら手放すことに罪悪感があった。しかし、病気のせいで死ぬという形であれば気にすることもない。死ぬのであればこれから先の人生のことを考える必要もない。

 最期のその時が来るまで、この島で余生を過ごそうと思った。




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