山の怪異
しばらくしてはっと目が覚めた。
周囲はまだ真っ暗だ。電灯がないので栃木よりもずっと暗い。
壁に立てかけられた古い時計を見上げると夜中の二時だった。早めに眠りに付いたせいで、起きるのも早すぎる時間になってしまったらしい。
蒸し暑さと喉の乾きを覚え、ゆっくりと布団から出た。
ジーーー……と抑揚もなく鳴き続ける虫の声が聞こえる。
飲み水を求めて廊下に出た。皆寝ているのか屋敷は静まり返っていて少し不気味だ。ぎし、ぎし、と廊下を進む度に軋むような音がする。
珊瑚から電気冷蔵庫の場所は教えてもらっていたので、その中に入っていた水を少し頂いてから部屋に向かった。
廊下を歩きながら外を見上げる。今日は月も雲が隠してしまっているようだ。
珊瑚の屋敷は高い塀に囲まれているため島の原風景は見えない。ただ、遠くにある高い山々の先だけが目に入った。
千代子はじっとその山を見つめる。すると、望遠鏡でも覗いているかのように急にその山が大きく見えた。木々の細部まで見える。千代子の本来の視力では見えるはずのないところまで拡大されている。
千代子は戸惑って山から視線を外そうとしたが、その前に、不可解なモノが視界に写った。
――――何かが動いている。山の木々の間、それはゆらゆらと揺れ動いていた。
山に住む動物という感じもしない。四足歩行ではなく、二本足で立っている人間の背中だ。しかし人間と断定するにはあまりに不自然な格好をしている。頭部はつるつるで、腕は後ろを向いているのに足はこちらを向いている。衣服も身に纏っていない。
何故かその生き物から目を離せずにいると、ぐりんっとつるつるの頭部が百八十度回転して千代子の方を向いた。
「え……っ」
思わず短い悲鳴を漏らす。
その顔には、目が一つしかなかった。顔の中心に真っ赤な瞳孔が一つあるだけ。それ以外には何もない。
それはゆらゆらと揺れながら、その目の中に千代子を映していた。
次の瞬間、視界がいつもの大きさに戻る。遠くに見える山はただ静かに佇んでいるだけだ。
汗が体を伝う。あれだけ蒸し暑かったのに、一気に体が冷えていく心地がした。
――こちらに来る。
向かってくるところが実際に見えたわけではないのに、あの化け物が山から千代子の方に向かってくるような予感を覚えた。
千代子は動揺し、足をもつれさせながら走った。
下駄を履き、昼間珊瑚と一緒に通った門の錠を外して外へ出る。
(あれは何?)
見たこともない生き物だった。あれと目が合った時、全身が凍りつくようだった。
この島にのみ住む特殊な生き物なのかもしれない。
ここに居てはいけない、あれから逃げろと全身が警告している。
しかし逃げたところで行き場はない。
島に立ち並ぶ家々はひっそりとしており、戸を叩いても誰も出てこなかった。
「はぁっ……はぁっ……う、あ、うぁぁあああああ」
頭の中に、ぐるぐるとさっきの赤い目が何度も浮かぶ。息が荒くなり、体は震え、いつの間にか叫んでいた。
思考が赤くなっていく。あの化け物の色に染まっていく。
「いや、いや、いやぁぁぁああ」
千代子は自分でも何を叫んでいるのか分からぬまま、気付けば浜辺に辿り着いていた。下駄の中に砂が入り込み、じゃりじゃりと不快だ。
「ひっ!!」
振り向けば、山にいた赤目の化け物が静かに後ろに佇んでいる。
それは変わらずゆらゆらと奇妙な動きをしながら一歩一歩と千代子に近付いてきた。千代子は泣きじゃくりながらそれに砂を投げつける。
化け物の目の下に薄い線が入った。その線がゆるりと弧を描く。口だ。
喰われる、と予感したその時、千代子の視界を何者かが遮る。
その人物は軽々と千代子の体を担ぐと、一本歯の下駄で地を蹴った。からん、と大きな音がする。
――次の瞬間、千代子の体は宙に浮き、夜空を飛んでいた。
真下に浜辺が見える。浜辺からじっと見上げてくる赤目の化け物は、こちらには来れないようで恨めしそうに丸い目を細めた。
「っはぁっ……はぁ、はッ……」
ようやくゆっくり呼吸ができたような気がした。
解放されたような心地で自分を抱えている男を見つめる。その黒髪と綺麗な顔には見覚えがあった。――昼間助けた男だ。
「貴方は……」
「帆次。海雲族の次期当主だ」
短く名乗った帆次は地に降り立った。
帆次は担いでいた千代子をゆっくりと地面におろし、懐から黒い布を出してきて千代子に頭から被せる。
「あいつは黒いものが見えない。しばらくそれを被ってろ。歩けるか?」
千代子は下駄の間に挟まっていた砂を払い、下駄を履き直してこくりと頷いた。
帆次が歩き始めるので、千代子は慌てて彼に付いていった。こんなどこかも分からない場所で一人置いていかれたら迷子になってしまう。
しばらく歩いた後、古いながら武家屋敷のような大きな邸宅が見えてきた。その横には珊瑚の屋敷の隣にあったような小さな祠と、崩れかけの鳥居が立っている。
不意に帆次が立ち止まり、千代子の方を振り返った。
「何が知りたい? 何でも答えてやる。お前は何も知らないだろ」
暗闇の中、帆次の目は金色に光っていた。まるで人ではないみたいだ。
色々なことが一気に起きたせいで、何からどう聞いていいか分からない。千代子はしばし黙り込んだ。そして、何とか自分の中で言葉を整理した後、まず一つ質問を投げかける。
「……さっきの、一つ目の……変な人は何?」
「山に棲む怪異だ。銀鱗島は古くから、怪異と人が共存する島なんだよ」
すぐには受け入れ難い話だ。しかし、さっき見た異形の存在を思い出せば、それも信じざるを得ない。
「山の方向は見ない方がいい。目が合えば気に入られて、あいつが山から下りてくる。あれは子供が好きなんだ。一度目が合えば見失うまで追ってくる。追い付かれたら喰われるか、足を切断され山に連れ去られるかだ」
帆次の言葉にぞっとしていた時、入口の戸が音を立てて勝手に開いた。
帆次がまた歩き出す。千代子も帆次に付いて門を潜り抜けた。
「貴方、さっき飛びましたよね? 空を。一体どうやって……」
「鳥のように飛んだというよりは、地を蹴って跳んだだけだ。海雲族は代々人のそれを超えた身体能力を持つ」
人魚族と同じように、海雲族も人とは違った生き物ということなのだろうか。
海雲という名を出した時の珊瑚の只事ではない表情を思い出し、少し不安になってきた。
黒い布を被ったまま下駄を脱いで屋敷の中に入る。大きな和室に到着すると、帆次は二つ座布団を用意して「座れ」と短く命令した。
千代子は黒い座布団の上で正座する。
「その布はもう外していい」
「ほ……本当に?」
「何だよ、度胸がねぇな。俺が言ってんだから大丈夫だ。あいつはもう追ってきてない」
躊躇いはあったが、恐る恐る布を頭から外す。
嫌な気配はもうしていない。千代子は心底ほっとして脱力した。