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謎の男



 千代子は子供達が行ってしまうのを見届けてから、さっきまで激しく叩かれていた男に視線を移す。橋の真ん中で蹲ったままの彼と視線を合わせるため屈み、優しく声をかける。


「大丈夫でしたか?」


 千代子の声を聞いた男がゆっくりと顔を上げた。


 ――酷く綺麗な顔だった。

 吸い込まれるような大きな瞳と、通った鼻筋と、異性に好まれそうなきりっとした眉。


 年は千代子と同じくらいか少し上に見える。


 しばらく見つめ合っている間に、二人の間に強い風が吹いた。

 男に見惚れていた千代子はハッとし、珊瑚から預かっている袋の中から、さっき珊瑚が市場でもらっていたみかんを差し出す。みかんはいくつかもらっていたので、一個くらいなくなっても構わないだろう。


「痛かったですよね。その……よかったら、これあげます」


 自分より年上の男の慰め方など分からない。

 今持っているものでどうにか励まそうとした千代子に、男は驚いたように瞠目した。


 彼はしばらく無言で千代子の手元を見ていた。そして、みかんを受け取って立ち上がる。

 無地で鈍色の地味な着物も、美しい彼が着ていると何だか上等なものに見えた。



「早くこの島から出た方がいい」



 それが唯一、男が発した言葉だった。


 彼は千代子に背を向け、橋の向こうへと歩いていく。


 強い風が吹いて目を瞑る。

 次に目を開ける時には、男はいなくなっていた。




 しばらく橋の向こうを眺めていた千代子は、いつの間にか随分遠くまで来てしまっていたことに気付き、袋を持ち直して早足で市場まで戻った。

 市場には既に珊瑚が戻ってきており、千代子の姿を視界に捉えるなり心配そうに駆け寄ってきた。


「貴女、どこへ行っていたの?」

「ごめん、もう少し遅くなると思っていたから、川の方を歩いていたの。この島は水が綺麗だね」

「なんだ……橋の向こうに行ってしまったのかと思って心配していたところよ」


 珊瑚が胸を撫で下ろす。


「……橋の向こうって危険な場所なの?」

「あの向こうには忌むべき一族が住んでいるの。もう随分前から滅多に人は寄り付かないわ」


 千代子は先程いじめられていた少年のことを思い出した。


「その一族って、もしかして〝海雲〟という名前?」


 珊瑚の赤い目がぎらりと光る。急に怖い顔になったため、千代子は思わずわずかに後退った。

 珊瑚は低い声で問うてきた。


「その名前をどこで?」

「こ、子供達が喋ってるのを聞いちゃって」

「海雲族は、奇妙な力を使う呪われた一族よ。――嗚呼、名前を出すのもおぞましい!」


 珊瑚が突然目を見開いて大声を出す。

 しんっと市場全体が静まり返った。

 どうやら珊瑚にとって海雲族の話題はよくないものらしい。千代子は周りを気にし、慌てて話題を変えた。


「さ、珊瑚さん、そういえば! みかん、お腹が空いて一つ食べちゃって。ごめんなさい」


 袋の中のみかんを一つ勝手に奪ってしまったことを謝罪すると、次の瞬間、珊瑚の鬼のような表情がすっと消え、通常通りの柔らかな笑顔が戻ってくる。


「いいのよ。食欲が戻ったようで嬉しいわ。この調子で全快するといいのだけど」


 その豹変っぷりに少しどきりとした。

 この珊瑚という女性には二面性がある。先程の好いた男の話の時といい、何か深い闇を抱えているような、底知れない女性だ。


「さあ、そろそろ帰りましょう。頼まれていたものは全て揃ったから」


 笑顔で踵を返す珊瑚を追って隣に並ぶ。


 歩いているうちに右腕が痒くなり、着物の上から何度か掻いた。しかし痒みはなかなか収まらない。袖を捲って痒い箇所を見てみるが、変わった様子はなかった。


「あら、どうしたの?」


 珊瑚が千代子の隣を歩きながら不思議そうに覗き込んでくる。


「肌が痒くて……」

「蚊かしら? 多いのよねえ、この島。夏は大変」


 困ったように眉を下げる珊瑚を見て、千代子は内心ほっとした。

 海雲族の話をした時の怖い顔の珊瑚とは別人のようだ。もしかすると、海雲族が嫌いなだけかもしれない。


「ねぇ珊瑚さん、子育てって大変?」


 種族が違うとはいえ見た目からすれば自分と同年代である珊瑚が子育てをしているなどまだ信じられず、恐る恐る聞いてみる。


「大変よお。子育て自体も大変だし、屋敷の女性陣からの圧力や悪口も大変。わたくしなんて、人魚族の他の女性よりも子の数が少ないし、母乳が出ないからってお婆様に散々文句言われて……」

「十九人も産んだのに、まだ少ないって言われるの?」

「ええ。わたくし達の一族は、生まれても健康に長生きできる個体は数少ないから、とにかく沢山産めと言われるのよ」


 珊瑚がうんざりしたように大きな溜め息を吐く。

 千代子には出産経験はないが、近所の叔母さんから出産というのは命懸けなものと聞いたことがある。それを簡単に、沢山産めなどと。


「珊瑚さんに失礼だよ」

「……え?」

「簡単なことじゃないでしょう。子をなすことも、育てることも」


 千代子が言うと、珊瑚の赤い瞳がわずかに揺れた。

 そして、彼女はふわりと柔らかい笑顔を浮かべる。


「ありがとう。そんな風に言ってくれたのは、貴女が初めてよ」


 目だけでなく魂までも吸い込まれそうな美しさに少しどきりとした。

 見た目は同い年くらいなのに、珊瑚の仕草や表情の節々に大人のような色気を感じる。

 人魚であると自己紹介されてすんなりと受け入れることができたのは、珊瑚自身が人ではないと言われても納得してしまうような雰囲気を醸しているからなのだった。



 :


 ヒグラシが甲高い声で鳴き続ける、夕刻。

 千代子には専用の小さな和室が用意され、珊瑚がそこに食事を運んできてくれた。更に乗っているのはほかほかの米と、昼間に市場でもらった魚、味噌汁、漬物だ。

 珊瑚は何やら家の仕事があるらしく、食事だけ置いてすぐに出ていってしまう。

 一人ぽつんと残された千代子は、箸を持って味噌汁を啜った。


(これからどうしよう……)


 千代子は無一文である。お金も持っていないのに、珊瑚の言葉に甘えてずっとここでご飯を食べさせてもらうわけにもいかない。

 次に珊瑚がこの部屋に来たら、何か屋敷のことで手伝えることはないかと申し出てみようと決めた。


 味噌汁を吸い終わり、魚とご飯を口に含んだ千代子は、そこでぴたりと手を止める。


 ――食べている感じがしない。


 食べなくても腹が減らないだけでなく、食べても満腹感がない。自分の体はどうしてしまったのだろうと不安に思った。流れ着いた時に岩にぶつかって感覚がなくなってしまったのかもしれない。

 とはいえ折角用意して頂いたものなので、無理やり口に入れて呑み込んだ。


 島には医者がいると珊瑚が言っていた。

 明日になったら診てもらえないか頼んでみようと思いながら、用意された敷布団の上で目を瞑る。


 瞼の裏に今日会った男の姿が映り、何故か少し懐かしさを覚えた。





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