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島の掟



 珊瑚はしばらく市場で食べ物や衣類をもらっていたが、その途中で千代子を振り返って聞いてきた。


「貴女、欲しいものはないの」


 そういえば、長い時間食事をしていないはずであるのに腹が減っていない。市場で売られているものを見ても興味をそそられなかった。

 不思議に思いつつ首を横に振ると、珊瑚が「物欲がないのねえ」と呆れたような声を出す。そして、今度はふと思い出したように懐から組み紐を出してきた。

 その紐には見覚えがある。栃木で両親からもらった、霧海村の伝統工芸品だ。てっきり海の水に流されてしまったものと思っていた。


「これ、浜に倒れていた時、貴女の髪の毛に絡まってたわ」

「あ……ありがとう」

「可愛らしい紐ね」

「うん。親からもらって……」


 一瞬、別荘で最後に見た母の顔を思い出して手が止まった。同時に茂を連想してしまい、ずきりと胸が痛む。

 千代子は思考をかき消すように髪の毛を一つに纏め、組み紐で結んだ。

 珊瑚が少し悲しそうに眉を下げる。


「そうよね、貴女にもご両親がいるのだものね。早く帰してあげないとね」

「……あの、珊瑚さん」

「なあに?」

「私、栃木には帰りたくなくて……」


 小さな声で訴えると、珊瑚は目をぱちくりさせた。


「本当? 正直、帰りたいと言われても帰す手段がなくて困っていたところよ」

「そ、そうだよね。船も通ってないんだし……」

「まあ、でも、そういうことならこの島でゆっくりしていくといいわ。うちのお屋敷、無駄に広いでしょ。部屋ならいくらでも余っているの」

「……本当にいいの? 神様の棲むお屋敷なのに……」

「島の人間が勝手に神だと崇めているだけで、わたくし自身は神として扱われたくはないと思っているわ。だから、貴女のその軽い態度、気に入っているのよ。どうか遠慮しないで」


 珊瑚が優しく微笑む。

 その笑顔があまりに美しく、千代子は少しどきりとして視線を逸らす。

 そして、珊瑚の背後、市の向こうに、妙な物があるのに気付いた。



 ――今にも死にそうな痩せ細った女性達が、見世物のように牢に閉じ込められている。

 彼女たちは虚ろな目をして、あぁぁ……と言葉にならない声を上げている。髪の毛はガサガサで肌は汚れており、糞便も垂れ流しだった。その周囲には大量の虫が飛び交っていた。


「あ……あれは何?」


 初めて見る光景に動揺し、震える声で珊瑚に問う。珊瑚は後ろを振り向き、「ああ」と何でもないように答えた。


「島の掟を破った者たちよ」

「島の……掟?」

「殺生や偸盗、邪淫や妄語、飲酒ね。島の外でも禁止されているでしょう? 特に、邪淫はこの島では大罪なの。あの女達は邪淫の罪を背負っているから、あんな姿にされてしまったのよ」


 邪淫、という聞き慣れない単語を出されて戸惑っていると、珊瑚が加えて説明する。


「この島は、生まれながらにして正しい相手が決まっているのよ。決まった異性以外との性交渉は許されていないし、清らかな乙女しかこの島に足を踏み入れてはいけないの」


 その意味を理解し、はっと黙り込んだ。

 茂との情事が思い出されて血の気が引いていく。

 千代子の顔がすっかり青くなっていたのか、珊瑚が何か察したように一歩近付く。


「――経験があるのね?」


 珊瑚が低く、囁き声で問うてくる。その表情は酷く険しい。鬼のような顔だった。


「島では隠し通しなさい。殺されてしまうわ」

「……殺されるって、そんな、大袈裟な」

「この島で女の価値は純潔さと美しさで決まる。特に純潔は大切なものよ。どれだけ美しくても、土台に純潔がなければ意味がない」


 自分の価値を否定されたようで、千代子は少し傷付いた。

 綺麗な身体を、捨てたくて捨てたわけじゃないのに――と。


「これ以上この話をするのはやめましょう。島内での会話は誰に聞かれているか分からないもの」


 珊瑚が早々に話を切り上げ、再び歩き出す。


「お相手は、好いた男?」


 前を歩きながら問われた。


「…………いえ」


 返事を絞り出すのに精一杯だった。


 すると、珊瑚がぐるりと勢いよく千代子の方を振り返る。

 その顔は花が咲いたように明るい。


「まあ、よかった! 好いた男と結ばれた女が存在するなんて、嫉妬で壊れてしまいそうだもの!」


 その何よりも可愛らしい顔とは裏腹に、発言の内容は歪んでいるように思える。

 困惑する千代子の手を珊瑚が嬉しそうに握った。まるではしゃぐ子供のように。


「じゃあ、わたくし達、仲間ね」

「……え?」

「好きでもない男に利用されたんでしょう。わたくしも同じよ。好きでもない男と結婚して、子を産まされた。一族の繁栄のために」


 自分と同い年くらいであろう見た目の珊瑚が子持ちということに驚き、声を上げる。


「えっ。珊瑚、子供がいるの?」

「いるわ。十九人」

「じゅっ……十九人!?」

「下はまだ零歳の赤ちゃんで、上は六十歳」


 人魚というのは多産らしい。改めて珊瑚が人間とは異なる種族であることを実感しつつ、六十歳の子供がいるという珊瑚は一体何歳なのだろうという疑問も生まれた。勝手に同い年くらいに感じて親近感を覚えていたが全然違ったようだ。


 その時、珊瑚がぴくりと何かを察知したように顔を上げ、遠く離れた屋敷の方を見る。


「……ごめんなさい、一旦帰ってもいい? すぐ戻ってくるから。島の市は珍しいでしょうから、好きなものを見ていていいわよ」

「う、うん。どうしたの?」

「子供が泣いているの。寝かしつけてくるわね。粉ミルクも作らないと……」


 千代子には何も聞こえなかったので不思議だった。人魚にしか聞こえない声というものがあるのだろうか。

 分かったと承知して珊瑚を見送る。珊瑚は小走りで市を離れようとして、ふと思い出したようにこちらを振り返り、数歩戻ってくる。


「ああ、そう。言い忘れていた。あの橋の向こうには行かないようにね。どこを見ていてもいいけれど、この市場の近くからは離れないで」


 それだけ言って再び屋敷の方へと走り出す珊瑚の背中をぼんやりと見つめる。

 橋などあっただろうか、と後ろを振り向けば、確かに遠くに真っ赤な橋が見えた。緑広がる一面の中の赤い橋は妙な存在感を放っている。


 千代子は珊瑚に言われた通り市を回ってみようかとも思ったが、何故か食欲が消えているのでその気が起きず、ひとまず近くを流れる川沿いを歩いてみることにした。




 川のせせらぎと鳥のさえずり。美しい自然が広がっているこの島は、茂の別荘よりも居心地が良い。


 水の音に耳を傾けながら歩き続けていると、少し離れた場所で複数人の子供の声がした。


「やーい、忌み子!」

「母ちゃんが言ってたぞ! 海雲うみぐも族はこの島の病の原因だって!」

「悔しかったら抵抗してみろよぉ~! ほーら! ほーら!」


 珊瑚に行くなと言われた赤い橋の上、子供達が一人の男をいじめている。


 それも言葉で罵るだけでなく、何度も殴ったり蹴ったりを繰り返しているのが見えて、千代子は思わずそちらに走っていった。


「こらっ! やめなさい!」


 大声で注意すると、子供達がびくっと体を震わせて千代子の方を見る。

 しばらく千代子を凝視していた彼らは、こそこそと互いに何かを話し始めた。


「こいつ聞いたことあるぞ。昨日来たよそ者だって」

「神様のお屋敷に連れて行かれたとこ見た人がいるって……」

「じゃあ……神様のお客様?」


 子供達が急に青ざめ、口々に「ごめんなさい」と謝罪して走り去っていく。彼らは男を叩くために使っていた木の棒も放り投げていった。




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