取り戻した名前
「邪淫の罪ぃ? っはは、そんな足枷を付けられてんのはその辺の島民だけだろ。俺らは神様に許されてんだよ」
「は……?」
「神様の一族である珊瑚様と交尾することで死後天国に行けるんだ。俺達は皆偸盗の罪や殺生の罪を背負っている。このままじゃ地獄堕ちだったところを、珊瑚様に助けられたってわけだ」
珊瑚がどのように男たちを言いくるめ、価値観を歪めて行為に及んだのかようやく理解した。
そんなものは方便だと反論しようとしたが、彼らの目が本気だったため口籠る。明らかに珊瑚を盲信している。よそからの言葉に耳を貸さぬ者の目だ。
さらによく見れば、その目元に紅い小さな斑点がある。目立たないので気付いていないのだろうが、彼らもきっとそのうち死ぬ――そう思うと、吐き気を催すほど不快なこの男たちに対して、少し同情することができた。
文は心を落ち着かせ、凛とした声で言い返した。
「珊瑚さんは貴方たちなんかの神じゃない」
神にだって生き方を選ぶ権利はある。
昨夜の光景を見て嫌だと、怖いと思ったのは――誘ったのは珊瑚でも、珊瑚自身が本当に心からあの状況を望んでいるとはとても思えなかったからだ。
「珊瑚さんを侮辱するな。簡単に触るな。珊瑚さんを穢すことは私が許さない」
睨み付けて威嚇すれば、男たちがはっとした様子で互いを見始めた。
「お……おい、こいつ、目の色が変わったぞ」
「ひっ、まさか、怪異なんじゃ」
「――逃げるぞ!!」
無様にも転けそうになりながら走り去っていく彼らの背中を見届けてから、文はゆっくりと緊張し続けていた肩の力を抜いた。
ひとまず追い払えたことにほっとする。
潮風を感じ、今度は海の方を向いて遠くを眺めた。
縦に高い建物が立ち並ぶ本土が見える。向こうの光景は島の様子とは随分と違うように思った。
その時、ざぶんと一際大きな波の音がする。
気になってふと見下げれば、何かが岩に打ち付けられていた。
明かりの消えた、外側だけの灯篭だ。
(灯篭流し……本当に流れ着いてくるんだ)
少し驚いた。頭では分かっていることだが、感覚としては不思議である。本土とこの島は本当に海で繋がっているのだ。
文は屈んでその灯篭に結び付けられた紐を引いた。
霧海村の伝統工芸品だ。その先に、本当に手紙が結ばれている。
まだここまで伝統を大事にしている村人がいるのかと感心しながら、その手紙を拾い上げた。水で濡れ、滲んだ文字が薄く読める。その文面が目に入ってきた時、はっと息を飲んだ。
〝千代子 ごめんなさい
どうかしていた あなたはわたしの大切な娘だから
茂さんは私が殺したから、戻ってきて〟
――――それは、栃木にいる母親の文字だった。
「私の名前……千代子だ……」
手紙を持つ手が震えた。
どうして忘れていたのだろう。
千代子は手紙だけを畳んで着物に入れ、灯篭を引き上げて目立たない場所に置いた。
書かれている内容は衝撃的であるのに、それよりも安堵の気持ちが大きかった。
(私……心のどこかで、あの男に死んでほしいと思ってたんだ。お母様にも、あの男じゃなくて私の味方でいてほしいと思ってた)
母からの手紙の内容が事実かどうかは分からない。
けれど、あの男を本当に母が殺したなら――自分の心臓に深く刺さったままだった杭がなくなったような心地だった。
――これで父親の支配下を抜けた。
不思議とそれが感覚として分かるくらい、頭の中の靄が晴れたような気持ちだった。
今からでも島から出ることができる。しかし、千代子にはまだやるべきことがあった。
島の方向を向いて走り出す。
(珊瑚さん……一体どこ?)
さっきから目で捜しているのに、島のどこにも珊瑚の姿が見えない。他の人魚族の人々は行列を作って島民が運ぶ神輿に続いて歩いているのに、そこに珊瑚はいない。
まさか既に殺されたのでは、と嫌な予感が頭を掠める。
千代子は仕方なく、虎一郎たちがいる海雲族の屋敷に向かった。
赤い橋を越え、空高く跳び上がる。一瞬にして屋敷が目の前に近付いてきて、縁側で涼んでいたらしい帆次が驚いたように千代子の顔を凝視した。
その隣では虎一郎がスイカを食べている。最初は緊迫した雰囲気だったこの二人も、今では自然と二人でいるようだ。
「――お願い二人とも、一緒に珊瑚さんを捜して!」
「……お前、名前取り戻したのか?」
「その話は後でする。珊瑚さんが見当たらないの」
千代子は帆次の背中に無理やり乗って伝える。
千代子も海雲族の跳躍力を使えるようになってきたとはいえ、帆次の方がまだ速い。急いでいる今は帆次の力を借りるのがいいだろう。
隣の虎一郎がぷっとスイカの種を吹き飛ばして不機嫌そうに言った。
「やだ。文が僕の背中に乗らないと行かない」
「お願い虎一郎、今は急いでるの。言うことを聞いて」
「僕の背中でも運べるもん。そいつの背中に乗られるのやだ」
「……分かった、帆次は海岸沿いから順番に捜して。私と虎一郎は山の方から捜す。帆次、見つかったら保護してこの屋敷に連れてきて」
ここで言い争いをしていても仕方がないので、二手に別れることにする。
帆次は呆れ笑いを浮かべながら、「ああ」と言って縁側から立ち上がった。




