朝が来る前に
ひとしきり泣いた文は、泣き疲れて帆次の腕の中で眠ってしまいそうになった後、はっとして飛び起きた。
「朝が来る前に屋敷に戻らないと、七海さんに殺されちゃう……!」
釘をさすための方便かもしれないが、彼女なら本当にやりかねない。
悠長にしている暇はない。
切り裂かれてしまった衣服の端と端を結んで体を隠し、屋敷を出ようとする。
――その時。
「文、戻ったらだめ」
部屋の隅に、長髪で白い髪の男――虎一郎がひっそりと佇んでいた。
隣の帆次も気配を感じなかったようで、はっとして身構える。
虎一郎の身にかかっている血の量が増えている気がした。
おそらくここに来る道中で誰か襲ったのだろう。
文は慎重に問いかける。
「また誰か食べたの? まさか、島の人を……?」
「違う。化け物を食べた。僕は同種が一番スキ。人間は、まずいから」
「……化け物?」
「山にいた子供たち。僕の親戚」
そういうことか、と思った。
珊瑚は初めて会った時、自分たちは霧海村に祀られていた神であるということをあっさり肯定した。屋敷でそのように言えと教えられたのだろう。
人魚族は霧海村からやってきた人魚の神様に成り代わろうとした存在――実際には、この島に元々いた〝神ではない何か〟である。
「帆次、私、分かったかもしれない。この島の人達が〝怪異〟って呼んでるのは――人魚族で言う〝化け物〟のこと。人魚族は古くからこの島に生息する怪異だよ。体や精神に異常がある子供はどんどん捨てられて、山に棲むようになったんじゃないかな」
怪異が捜しているのは、母親か、同年代の遊び相手。だからずっと島を練り歩いているのだ。子供を好むというのもそういうことだろう。
人魚族はおそらく、人の形を模倣している怪異である。そして、この世に生をなした子供の中でも人の形になれないものを、自分たちの都合で奇形としている。
「虎一郎。これから私がお願いすること、聞いてくれる?」
目の前にいるのは化け物だ。人ではない。
しかし話が通じる。まだ望みを捨てるべきではないと思った。
案の定、虎一郎は嬉しそうに微笑む。
「うん、文、大好きだから。文の言うことなら何でも聞く」
「……じゃあ、私が食べないでって言った存在は食べないで。屋敷にいる人達には今後一切手を出しちゃだめ」
「……でも、皆もお魚を……」
「理屈じゃないの。私が嫌だから、やらないでほしい」
虎一郎はしばらく文を見つめた後、「……分かった」と小さな声で呟いた。明らかにしゅんとしているのがまるで親に叱られた子供のようで、図体は大きいが精神年齢は未熟なのだろうと感じる。
帆次がぐいっと文の肩を掴んで引っ張ってきた。
「おい、文ちゃん。そいつが約束を守ると思ってんのか? そいつは怪異なんだろ」
「……分からない。でも、一度は信じてみなければ何も始まらないと思う」
文たちから見れば殺生の罪でも、虎一郎からすればただ食事をしただけ。その認識の違いをこれから改めていければ、虎一郎と島の人間が共存する未来も来るかもしれない。
「文に触るな」
虎一郎の目がつり上がったため、慌てて帆次を庇うように立つ。
「虎一郎、この人のことも食べたり、攻撃したりしてはだめ」
「何で? 僕、そいつ嫌い」
「この人は私の兄だよ。つまり、貴方が私を母親とするなら、この人は伯父にあたる人。丁寧に接してほしい」
「……文が言うなら……。でも、そいつ、文を島から追い出そうとした。それは許せない」
「あれは追い出そうとしてたんじゃなくて、きっと心配してくれてたの。ね?」
帆次の方に視線を送ると、帆次が「ああ」と返事した。
「この島は危険だ。怪異が住んでるからな。病も流行っているし、よそ者が生きていける環境じゃねぇと判断した。……まぁ、杞憂だったらしいが」
帆次も、まさか文が海雲族の一員だとは思っていなかったのだろう。
きまりが悪いのか、彼は頭を掻きながら言った。
「それに、例え文ちゃんが鱗生病で死なねぇにしても、俺は文ちゃんが島に居続けることには反対だ」
「……どうして? 私、ここの家族なんでしょ? 本土には帰りたくない」
文は鱗生病でいずれ死ぬという前提があって今日まで生きてきた。しかし、ここに来て急にこの先の未来ができてしまった。これから先のこともきちんと考えなければならない。
けれど、茂や自分を裏切った母の元に帰ることを選ぶ気にはなれなかった。
それでも帆次は反対してくる。
「ここより本土の方が沢山の人間がいる。未来の選択肢も多くて自由だ。ここにいても海雲族として差別を受けるだけだろ。文ちゃんが腐っていくだけだ」
「……そんなことない」
「今は視野が狭くなってんだよ。戻るのはお前に変なことをした連中の元でなくてもいい。生きている限り居場所なら必ずどこかに見つかる。それがこんな辛気臭い島である必要はねぇって言ってんだ。この一族の次期当主になる俺と違って、お前は自由なんだから」
遠ざけるような物言いだ。帆次なりに文のことを考えての発言だろう。
文は着物の裾をぎゅっと握って俯いた。
――栃木の父親ともう一生会えないのは嫌だ。それに母親だって、あの時ただ精神的に滅入ってしまっていただけかもしれない。母親のことはまだ許せないが、直接会ってあの別荘での真意を話す機会があってもいいだろう。
栃木のあの家に帰って母親と暮らしたいとまではやはりまだ思えない。
けれど、戻って話をして、彼女を責める権利くらいなら自分にはある。




