本物の人魚
斧で切り付けられたというのに既に血が止まり始めている。
その驚異的な治癒能力は帆次と全く同じ、おそらく海雲族のみが持つ力だった。
「帆次も、人魚でしょう。海雲族が本物の、霧海村が祀っていた神様。人魚族は神様と入れ替わって、神様のふりをしているだけ」
帆次は、文の顔を見てはっと黙り込む。おそらく文の瞳は今、また金色に光っている。
そして――切りつけられた体は、既に治ってきている。
お腹が空かないのも、疲れを感じないのも、文が人間ではないからだ。
「ずっと、帆次のこと懐かしい感じがするって思ってた」
「…………」
「きっとお母さんのお腹の中で一緒だったんだね……」
文は戦争孤児だ。栃木にいる母親は本物の母親ではない。
そして、血の繋がらない祖母からはおかしな話を聞いたことがある。
終戦後の闇市で、ある卵を売っている店があったと。
その店には悪い噂が流れていて、誰もあまり近付かなかった。
そこで売られているのは人魚の卵で、その卵からかえった子は、その店の近くの海に捨てられるという内容の噂だった。
様々な真偽の分からない噂話が飛び交っていた時期だ。
祖母はその話を信じていなかったらしい。
しかし――偶然にも文は、その店の近くで見つけて拾った赤子だったという。
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照明器具の中の炎がゆらゆらと揺れている。
いつも来ている広い畳の間で止血してもらいながら、帆次はこの島の真実を打ち明けてくれた。
「古来から人魚の一族として霧海村に祀られていた現人神である海雲族は、社を移転する際に霧海村の人々に運ばれてこの島に来た。そのほぼ同時期に、銀鱗島で病が爆発的に広がった。海雲族が原因ではないかと疑った島民と今の人魚族が、海雲族を同時に襲った。その時に海雲族のほとんどは殺されて、力の強い者だけが生き残った」
あの夜帆次が文に話した大虐殺は、霧海村の神々が銀鱗島に移った頃に起こったことらしい。
「飢饉や病の際は人は皆不安になるし、原因を探したがる。そんな時に馬鹿にも分かりやすい原因と解決策を作り上げ、海雲族の大量虐殺を主導した人魚族は人々から崇められた。そして、自分たちこそが神だとのたまい始めた」
「じゃあ……人魚族は、最初から人魚族と呼ばれていたわけじゃないんだ」
「ああ。勝手に人魚を名乗っているだけだ。あいつらは――自分が殺した人魚の手足を食べて、人魚の力を手に入れたまがい物たちの末裔だよ」
ぞくりと背筋に寒気が走る。
人魚の手足を一本食べれば長寿となり、二本食べれば不老長寿になり、三本食べれば人の痛みを麻痺させることができ、四本食べれば人の名を奪って支配できるようになる――文が聞いた人魚伝説は、本当だったのだ。
「大量虐殺で母数が減ったせいで、その後数百年かけて海雲族はどんどん減っていった。ついには滅亡の危機に陥った。だから親父は数少ない血縁の中から自分の後継者を見つけるため、本土にいる自分の子供を捜し始めたんだ」
「その、お父さんが捜してた本土にいる子供っていうのが、私たちのことで合ってる?」
「ああ。親父が愛した女の中に、一人だけ人間の女性がいて、そいつは霧海村に住んでた。何でも霧海村の伝統である灯篭流しの灯篭に、毎年恋文を結んで流してきたんだと。それがとんでもなく美しい字と内容で、親父の琴線に触れたらしい。親父は今でもその手紙を全部大切に仕舞ってあるくらいその女が好きだった。――それが俺らの母親だ。文っつーのは、その女の名前で、彼女はもう死んでる」
「…………」
「人間の母体に神の子を宿すのはきついことらしい。こうして卵を、俺らを産めただけでも奇跡だ。卵の中で無事にかえって成長できたのは二つだけだったと聞いてる。それが俺と文ちゃんなんだろうな。だから親父は文ちゃんに執着してるわけだ。愛した女が遺した形見みたいなもんだから」
海雲族だけ鱗生病が重症化しないというのも、そもそも神という別種の生き物に人間の病が通用しないからだろう。
あの医者は文の体を調べた時に異様さを感じて、海雲族の者だと勘付いたのだ。彼は代々続く病院の跡取りである。そのうえ、先代がこの島の過去の記録を多く残しているようだった。霧海村から来た神の話と、その後何が起こったか、真実を知っていてもおかしくはない。
「でも私、これまで普通の人間だったよ。転んだら足を擦りむいて怪我してたし、特別治りが早かった覚えはない……。目の色もずっと黒だったし」
「それは……」
帆次が何か言いかけて、気まずそうに目を逸らした。
「……お前、もしかして死のうとしてたのって、誰かに無理やり何かされたとかか?」
はっとして黙り込む。
すると、一瞬にして帆次の顔に憤激の色が漲った。
「そうかよ。そういうことかよ」
「……ごめん、それとこれと、何の関係があるの?」
「俺ら一族の力が目覚める条件は、生殖行動を行うことだ」
文が海の中に入ったのは、茂との情事の後だった。人魚の力があるということは海の中でも生きていけるということ、なのかもしれない。これで、本土から距離のある銀鱗島に生きたまま流れ着いたことにも説明がつく。
(あいつのせいで死にたくなったのに、あいつのせいで生き残った……)
文はぎりっと歯を食いしばった。
文の心を追い詰めた茂はきっとこれからも本土でのうのうと生きていく。それが許せない。憎しみなんて心の内にあったところでどうにもならず、自分を苦しめるだけだと分かっているのに、どうしても彼が許せない。
――黒い気持ちで心が染まり上がりそうになった時、帆次が文を強い力で抱き寄せた。
「大丈夫だ。怖くない」
その優しい声のおかげで現実に戻ってきた心地がした。
負の感情に呑み込まれそうになっていた文のことを帆次が引き戻してくれたのだ。
帆次の腕の中は酷く安心する。
気付けばぼろぼろと涙が溢れていた。
「文ちゃんには神が味方に付いてる。親父に何があったか全部言ってやる。親父は容赦ねぇから、文ちゃんに嫌なことした奴はきっと死ぬより辛い目に遭う」
「……っう、ん」
「俺だって文ちゃんの味方だ。辛くなったらいつでも傍にいてやる。一応、その……兄貴なわけだし。頼ってくれよ」
忘れよう、忘れようと何度も自分に言い聞かせ、あの日の記憶を消そうとした。
しかしそうすればそうしようとする程茂の記憶は脳にこびり付き文のことを苦しめ続けた。
しかし今、誰にも吐き出せず胸の内に溜まっていたものを共有する相手ができた。それだけで少し、ほんの少しだけだが心が軽くなった。




