手足
「薄汚い侵入者。そいつがわたくしの息子を穴の底から出したのよ」
「それは違う! 虎一郎のことを出してしまったのは私だよ!」
「そいつを庇うの!? 文ちゃん!」
珊瑚の声が怒気を帯びている。
文はその勢いに怯みそうになりながらも言い返した。
「庇ってるんじゃない。本当に私なの。私が虎一郎に水やご飯を与えてしまった……きっと虎一郎は、そのせいで穴の底から出てしまったのだと思う」
珊瑚の表情はそれを聞いても全く変わらず、冷たい目で帆次を見下ろしている。
「よく分かったわね。あの子は人一倍成長が早いの。少し食事をするだけで急激に成長するし、人間を超えた力を身に着けてしまう。だからまだ力の弱い幼少期に、ぎりぎりまで飢えさせてあの穴の中に閉じ込めた。なのに……出てきてしまったのだから仕方ないわ」
「本当にごめんなさい、軽率だった、全部私のせい、だから帆次はっ」
「文ちゃんは悪くない」
そこでようやく、珊瑚が文の方に視線を向けた。
文を安心させようとしているのか、その顔は優しく微笑んでいる。
「そいつを全ての元凶ということにすれば丸く収まる。だから、退いて頂戴」
珊瑚は文の行動が全ての始まりだったとよく理解した上で、それを隠蔽し、帆次に罪を押し付けようとしているのだ。おそらく、文を庇うために。
何度揺らしても帆次は起きない。文は必死に叫んだ。
「待って珊瑚さん、私そんなことされても嬉しくない!」
しかし文の言い分など無視して、珊瑚は斧を振り上げた。
その目に憎しみが籠もっていることに気付く。ああそうか――珊瑚は文を庇いたいだけでなく、帆次のことを殺したいのだ。
それほどまでに彼女は海雲族を嫌悪している。
「忌まわしい生き残り。こんな奴らも、霧海村の連中も、この島に来た時点で全員殺しておくべきだったのよ」
ぶつぶつと何かに取り憑かれたように呟いた珊瑚は震える声で叫びながら斧を振り下ろした。
「お前らがこの島に来なければ、わたくしがこの屋敷に生まれることもなかったのに!」
血が滴った。
その血は帆次の血ではない。
頭上の珊瑚がはっとしたような顔をして悲鳴を上げる。
殺されかけた帆次を庇い、文が体で斧を受け止めたのだ。
珊瑚がひゅっと息を吸い、動揺した様子で斧を引き抜く。その瞬間、文から血が噴き出した。
「……どうして……」
不思議と痛くない。しかし血は止まらない。斧を受けたのは肩から胸にかけての部分だ。助からないかもしれない。
「わ、わた、わたくし、文ちゃんを切っ……」
血塗れの文を見て血の気が引いたのか、珊瑚は震える声で呟きながら後退り、畳の上に倒れ込む。
「いや、嫌ぁぁぁぁぁ! 文ちゃん、文ちゃん、いや、嫌よ、死んではだめ、貴女はわたくしの、わたくしの唯一の希望なの……!」
半狂乱状態で叫んだ珊瑚は、次の瞬間――赤く光る目で帆次を捉えた。
そして、はぁっはぁっと荒い息を繰り返しながら立ち上がる。
「文ちゃん、お願い、そいつを」
斧を持って立ち上がった珊瑚の手は、興奮したように酷く震えていた。
「そいつの手足を食べて」
可愛らしい珊瑚から発されたとは思えない有り得ない提案。
そんなのできない、と訴えようとする前に、珊瑚の体がゆらりと動き、こちらに近付いてきた。
その憎しみの籠もった赤い目はずっと、文ではなく帆次を見ている。
――本気だ。
文は帆次を逃さなければならないと思い、必死に帆次の腕を持って引きずった。
文の血がぼたぼたと垂れ落ち畳を汚していく。
「文ちゃん! 待ちなさい! どこへ行くの!」
背後から珊瑚の金切り声がする。
けれど、それに構っている余裕はなかった。
このままでは帆次が殺されてしまう。
火事場の馬鹿力とでも言うべきか、文は帆次を抱えて走り続けた。
死体を運んだあの日のように、不思議と疲れは感じない。
(やっぱりそうだったんだ……)
先程の珊瑚の言葉で、疑惑が確信に近付いた。
(この推測が正しければ、私はきっと……)
何とか帆次を屋敷から少し離れた場所まで連れ出したところで、帆次の意識が戻った。
少し遠くに見える屋敷の方は騒がしく、明かりが灯り始めている。おそらく珊瑚から情報が回り、人魚族が起きたのだろう。
彼らは逃げ出した文や帆次を捜すつもりだ。
帆次に声をかけようとしたが出血量が多く言葉を発することができなかった。
血だらけの文を目にした帆次はすぐに状況を理解したのか、ぐったりとした文の体を抱えて空へと跳び上がる。
帆次の向こうに満月が見えた。
夏の蒸し暑い空の中、文は自分を運ぶ帆次の金色の瞳を見てやはりそうかと確信する。
きっと今、文も金色の目をしているだろう。
「帆次、私、人魚かもしれない……」




