あたしの子供
医者は紙とペンを取り出し、ウイルスと細胞の絵を描きながら文に説明し始めた。
「ウイルスが感染する時は、ウイルスの表面抗原と人の細胞の表面抗原が合致する必要があります。例外はありますが基本的には細胞の表面に結合しないと入り込めないのですよお。鱗生病の原因となるウイルスの表面抗原が、ある遺伝子を持っている人に感染しやすいような抗原であるとしたら、特定の一族にのみ異常に感染するという状況も理論上は成立しますねえ。例えば白血球に感染するとして、白血球の表面抗原のうち人種間で多様性を認めるものが存在し、その抗原を持つ人にだけ感染しやすいウイルスがあるとするとあり得ない話ではない。そんなものが本当に実在するかは別としての、仮定の話ですが」
早口でよく分からないことを言う医者に足し、文はおそるおそる問いかける。
「……あの、じゃあ、人魚族が特別かかりやすくて、通常状態でほぼ必ずかかるっていう仮定でいくと、虎一郎が感染していないということの方に何か特殊な原因があるかもしれないってことですか?」
医者は深く頷いた。
感染する者と、感染していない者の違い。それが分かれば鱗生病の予防策も見つかるかもしれない――と、文は期待を抱く。
「まぁ、これはそもそもほぼ私の妄想ですから、あまり真に受けないでほしいのですが。人魚族は年々閉鎖的な一族になっていますから実体が掴めなくてですねえ。何かしら人魚族の間に感染を促す特殊な風習などがあって、それが原因で感染者の数が増えているということなら理解できるのですが確かめようがないので、他の要因を妄想してしまうのですよお。ふはは」
「……私、ちょっと中から人魚族を観察してみます」
立ち上がって宣言した。
医者は人魚族の屋敷に入れず、会うこともできない。であれば、人魚族の普段の生活を見ることができるのは文だけだ。内側に招かれている文にしかできないことである。
「おお、頼もしい。いいのですか」
「そのつもりで私に話しましたよね?」
「ほほほ。その通りです。貴女には否が応でも人魚族の実体を明らかにし、こちらに報告してもらいたい」
文は深く頷いた。やっと、死ぬ前に何か残すことができそうな気がする。
医者は面白そうに目を細めた。
「その勇気と行動力。貴女、学者が向いているかもしれませんね」
「学者……。私、そこまで頭良くないですよ。それに学者なんて女がすることじゃないでしょう」
「さあどうでしょう。文さんが島を出る頃には、時代が変わっているかもしれませんよ。文さんの将来が楽しみです」
島を出る前提で話をしてくる医者。
意地でも茂がいる本土に帰るつもりのない文は少し不快に思い、つい冷たい声で返してしまった。
「先が長くない者に未来の話をするのはあまりよくないと思いますが……」
「先が長くない? 私、いつそんなことを言いましたか?」
「進行の速さに差があるとはいえ、発症したら死に至るんでしょう。鱗生病は」
「ああ、まあ、そうですねえ。しかし文さん、貴女は問題ないです。現に斑点、消えているでしょう」
医者に指摘され、袖を捲って腕を見る。紅い斑点がなくなっていた。
そういえば、医者にもらった痒み止めを一度も使っていない。いつの間にか痒さがなくなっていたからだ。
「……何で……」
「言ったはずです。貴女は人と違うと」
意味深げに笑う医者の眼鏡が光っている。
どういう意味かと問う前に、医者の後ろにある時計が目に入った。
もうすぐ日暮れだ。文は慌てて走り出す。
「ごめんなさい、私一旦帰ります! 虎一郎、行こう!」
文が早口でそう言って手招きすると、座っていた虎一郎が付いてきた。
二人で走って人魚族の屋敷に戻る。
日が暮れかけていて、日中よりは少し涼しかった。
:
離れ屋から入って珊瑚たちがいるはずの屋敷の方に向かうと、中年女性が待ち構えるように立っていた。
文のことを視界に捉えた長年女性は、蛆虫を見たかのような表情をする。
「きったないねぇ! 先に風呂に入りな」
吐き捨てるように言われた。
この島に来てから文は湯に浸かっていない。珊瑚が用意してくれた濡れたタオルで体や髪を拭くだけだった。久しぶりに風呂に入れるのかと期待が高まる。
「やったね、虎一郎」
虎一郎も嬉しいだろうと思って振り返る。
しかし一緒に走ってきたはずの虎一郎はそこにはいなかった。
離れ屋に着くまではずっと付いてきていたはずなので、この短時間で一体どこに……と驚く。
「何だい、虎一郎って。妄想上の友達か? 頭がおかしくなったのかい」
中年女性が不審がって聞いてきた。
あれ? と思いつつも、あまりわけの分からないことを言うと苛立たせてしまう気がして、文は何でもないですと笑って誤魔化した。
案内されたのは、湯気が出ていて熱そうな、狭い五右衛門風呂だった。
風呂桶を使って体と髪から付着している血を流した後、教えられた通りに浮き蓋に足を乗せ、足で板をお湯の中へ踏み沈めながら入る。鉄の釜に直火でお湯を沸かしているので、直接足を付けると危ないらしい。
中年女性は風呂の外でずっと立っているようだった。
文が出てくるのをずっとそこで待っているつもりらしい。
「……おばさん、わざわざ待っててくれてありがとうございます」
「おばさん、だぁ?」
「ごめんなさい、お名前を知らないので、なんと呼べばいいのか……」
戸で隔たれた向こう側で、大きな溜め息が聞こえた。
「七海だよ」
「七海さん……。私は文といいます」
「知っているよ。今日聞いたからね」
「すみません……」
常時不機嫌な七海に何となく謝った後、目を瞑って湯の熱さを堪能した。
銀鱗島に来てからの疲れが一気に抜けていく感じがした。やはり入浴でしか得られない爽快感というものはある。
長く湯に浸かっている文に向かって、外の七海がぽつりと言った。
「あたしもねぇ、自死しようとしたことはあるよ。それで生き残っちまった。アンタと同じさ」
釜の中の文は驚いて目を開き、七海の方に顔を向ける。
「どうして死のうとしたんですか?」
「……アンタ、配慮に欠けるって言われないかい。そんなもの言いたくないに決まっているだろう。アンタだって自殺未遂をした理由、言いたかないだろ」
その通りだったので沈黙した。
まだ人に話せるほどには立ち直れていない。
それに、珊瑚が言うにはこの島の人間は決まった相手以外と結ばれることに相当な嫌悪感を持つらしい。
折角疑いが晴れて生かされたというのに、七海にこの島に来る前のことを言うのは悪手だろう。
「ごめんなさい。軽率でした」
素直に謝罪し、湯から上がる。
髪の毛の水分を絞り、ほかほかの濡れた体を布で拭いていた時、七海が何を思ったのか己の過去を打ち明けてきた。
「もう二百年も前の話だよ。あたしが最後に死のうとしたのは。ちょうど第一子を産んでから、十八年が経った頃だった」
十八年。一人目の子供が十八歳の時ということは、子供が文と同い年だった頃ということである。
「人魚族にはかなりの頻度で奇形児が生まれてくる。あたしの一人目の子供も例に漏れず奇形児だった。奇形児が生まれたら殺すか捨てるか。あたしの子供も、殺せと命じられた」
あまりにも残酷な話だ。
文は七海の気持ちを慮り、軽々しく聞くべきではなかったと後悔した。




