■■子
離れの部屋に立てかけられた時計を見ればもう五時だ。
人魚族の中年女性に夜までにと指示されていたことを思い出し、慌てて死体の足を掴んでズルズルと引きずる。三十人を外に引っ張り出した後、部屋に置いてきた血だらけの器具も取ってきて医者に返した。
「あはははは、血だらけじゃないですかあ。まるで貴女が人喰い怪異のようですよ」
「一生分の血を見た気がします……」
「本当にやるなんて根性ありますねえ。貴女に任せたの、半ば冗談だったんですが」
「冗談だったんですか……!?」
ぎょっとして聞くと、医者はケラケラと笑った。背はひょろりと高く、文よりもずっと大人なはずの彼の笑い方は、悪戯好きの子どものような幼さを感じさせるものだった。
そして、彼はふっと真顔に戻って聞いてくる。
「ところで文さん。後ろにいる彼は誰ですか?」
文は医者の問いに瞬きし、後ろ? と不思議に思って振り返った。
「きゃあっ!?」
悲鳴を上げてひっくり返る。
白髪の長身の男――虎一郎がぬうっとそこに立っていた。
「文。そいつ、誰」
赤い目を光らせながら、彼はぽつりぽつりと言葉を発する。
その白い髪は昨夜見た時よりもうんと伸びており、地面に付いていた。持ってきた死体の血が付きそうになっているのを見て、慌ててその白い髪を束ねて持ち上げる。
髪を留めるようなものがあればよかったのだが、組み紐は珊瑚に渡してしまったためもうない。
虎一郎が医者を睨み付けている。
あの穴の底で見た時は病的に痩せこけていたというのに、今は全体的に肉付きがよくなり、肌もつやつやしていた。
「……この人は、この島唯一のお医者さん。悪い人じゃないよ」
警戒しているのかと思って紹介したが、虎一郎は犬のように唸りながら文の体をその大きな体躯で包みこんでしまう。あまりにもきつく抱き締めてくるため身じろぎすらできない。
「おやおや。その御方、文さんに懐いているようですねえ。人魚族は力が強いですし、この死体を運ぶのを手伝ってもらったらどうですか」
何とか顔だけ動かして虎一郎を見上げると、虎一郎は丸い瞳でじっと文を見下ろしてきた。
「文、僕が運んだら、喜ぶ?」
「……うん。助かる」
「じゃあ運ぶ」
そう言ってぱっと文の体を解放した虎一郎は、ひょいひょいと死体を重ねて片腕に担いだかと思えば、「どこに持っていけばいい」と文を振り返った。
「えっと、とりあえずこのお医者さんの病院の近くまで。重たいから、疲れたら休んでね」
「文、優しい。好き」
嬉しそうに顔を綻ばせる虎一郎は、図体が大きい割にまるで子供のようだった。
虎一郎はズルズルと地面に付いた髪を引きずらせながら歩き始める。
文もできるだけ一目に付かない道を選びながら残りの死体を引っ張って歩いた。さすがに一気に持っていくのは不可能なので何度か往復しなければならないだろう。
歩いている途中、医者が文に耳打ちしてきた。
「彼、人魚族の方ですよねえ。できれば採血したいのですが、説得していただくことはできますか」
「……言ってはみますけど、本人がどんな反応するかは分かりません。実を言うとあの人と会ったの、これが三回目で」
「おや、向こうは随分文さんのことを好いていそうですけどねえ」
「それが何でかもよく……とにかく、変な人なんです」
「――僕、文が望むなら何でもするよ」
前方を歩く虎一郎が振り向かずに口を挟んでくる。
ひそひそ声で話し合っていたというのに聞こえていたらしい。なかなかの地獄耳である。
「……本当に? 採血もしてくれる?」
「さいけつっていうのが何か分からないけど、文が望むならやる」
「嬉しいけど、虎一郎は何でそんなに私の言う事聞いてくれるの?」
「文が僕の、本物の母親だから」
「…………」
今日の早朝に言われたことと同じだ。
文には出産経験などない。誰かと勘違いしているとしか思えなかった。
「貴女、隠し子がいたんですかあ。隅に置けませんねえ」
「違いますよ。分かってるでしょう」
「ふふふ」
横から医者がからかうような目を向けてくるので小声で返す。
そのうち、ようやく病院が見えてきた。
医者が病院の鍵を開けて中に何か取りに行ったため、文と虎一郎だけが何度か屋敷と病院を往復して全ての死体を回収した。
道中、虎一郎はやけに文とくっつきたがった。
汗と血でベタベタしているし、匂いもきついだろうに、無遠慮に触れてくるため戸惑う。
「虎一郎、暑くないの?」
「文とずっと一緒にいたい」
「うん……。でも、そんなにくっつかれたら歩きづらいよ」
「文は僕とくっつくのやだ?」
「うーん……。嫌っていうか、暑いかなぁ」
苦笑いしながらそう言うと、虎一郎はすぐに文から離れた。
文の嫌がることをするのは避けたいらしい。
虎一郎を見ていると、幼い頃家で飼っていた従順な飼い犬のことを思い出す。その犬も文によく懐いていたが、文たち家族が茨城から栃木に引っ越す時に他の人の家に預けられてしまい、もう会うことはなくなっていた。
(そういえばあの引っ越しは、随分慌ただしかったな……)
きっかけは、文の母親の精神状態が何やらおかしくなったことだった。
何かがいる、聞こえる、海から誰かが自分を狙っている――母はしきりにそう言い続け、医者からは精神分裂病だと診断を受けた。しかし本人は、自分は病気じゃない、狙われているのは事実だと言い張り、途中から病院にも行かなくなってしまった。
何かに怯え続ける母に困り果てた父が、海から狙ってくるなら海から離れればいいんじゃないか? などと冗談のようなことを言い出し、その翌月には引越し先が決まっていた。
栃木に引っ越すと何故か母の症状は落ち着き、文が学校に入る頃には、いつもの母に戻っていた。それから時が経ち、文の父も文も、母が一時期病気だったことなど忘れて生活していた。
――『もう、もう、だめなの。お母さん一人では耐えられない。だって何度も迎えに来るのよ、海から。■■子のために引っ越したのに、それでも来るの』
思えば、別荘での母は、診断を受けた当初の母と似ていた。
(茨城にいた頃のお母様、他になんて言ってたっけ……)
脳の病気で事実を歪めて見てしまうのだと聞いていたので真に受けないようにしていたが、他に何を言っていただろうと歩きながら記憶を呼び起こす。
あれは暑い夏。優しかった母が急に人が変わってしまったように変なことを言うようになった。そんな事実はないと否定すると余計に神経を逆撫でしてしまい、暴力も振るってきた。
泣きながら何か訴えてくる過去の母の姿が脳内に呼び起こされる。
――『人魚が迎えに来る。毎晩家の前に来て、戸を叩いてくる。■■子を迎えに来てるのよ。だって聞こえたの、私、聞いたの、〝子を返せ〟って言われたの』
文は、死体を運びながらハッとした。
――人魚?
隣を歩く虎一郎を見上げる。
虎一郎は文の視線に気付き、「ん?」と柔らかい笑顔を向けてきた。
(人魚族……人魚……)
母のあの時の異常な怯えようは、人魚を信仰するこの島と何か関わりがあるのだろうか。




