人魚伝説
意味の分からないことを呟く老婆のことを不気味に感じ、文は思わず一歩後ずさった。
しかし老婆は気にする様子もなく続けた。
「この島には未だに、人魚伝説が残っておりますよ」
文が首を横に振ると、老婆は嬉しそうにさらに顔を近付けてくる。
「人魚の手足を一本食べれば長寿となり、二本食べれば不老長寿になり、三本食べれば人の痛みを麻痺させることができ、四本食べれば人の名を奪って支配できるようになる。人魚を食べれば人魚と同じ力を得られる……かくいうわたしも昔一本……」
カァ、と牢屋の近くに群がっていたカラスが鳴き声を上げて飛び上がった。
文はその声に驚いて悲鳴を上げて尻もちをつく。
老婆が文を見下ろして舌舐めずりをする。
文は途端に恐ろしくなり、必死に立ち上がって帰る方向に走り始めた。
田んぼ道に、死体を引きずり回したような血の跡があり、その先に木の枝で突き刺された猪の死体が大量に転がっている。
昨日見た怪異が幻覚などではなく、実際にここを歩いていた証拠だ。
人間が隠れている代わりに、動物が犠牲になっている。
その夜はなかなか寝付けなかった。
夜の帳が島を覆い、風がざわめくたびに海の波音が低く唸るように響いていた。
ずるり、ずるりと近くで何かが這うような音が聞こえる。
襖の外、人魚族の屋敷の外壁をなぞるように歩いている何かがいる。
『どこ……さビしイ……オかアサン』
風に混じって微かに聞こえる。どこか悲しげな、低く湿った声だった。
文は息を潜めて布団を被った。
怪異の赤い目がこちらを見ている気がする。
不意に響く爪で塀を引っ掻くような音が恐ろしく、その音が収まる朝方まで、文は目を瞑って布団の中に縮こまっていた。
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「文ちゃん! 文ちゃん! 起きて!」
激しく体を揺り動かされ、はっと目を覚ます。
目の前には珊瑚がいて、青い顔で文に訴えかける。
「昨夜、何か変わったことはなかった?」
まだ寝惚けている文はぼうっと珊瑚を見つめ返した。寝不足の頭で時間をかけて珊瑚の問いを咀嚼する。
「ねえ、大変なのよ。お婆様が、夜の間に屋敷で喰い殺されていたみたいで……」
「……え?」
夢見心地だった文は一気に現実に引き戻された。
〝喰い殺されていた〟などという日常的には滅多に聞かない言葉が出てきたことに驚きつつも、珊瑚の次の言葉を待つ。
「今朝から皆犯人捜しに躍起になっているわ。いつ誰がここに来るか分からない。早く外へ出ましょう、文ちゃん」
珊瑚が半ば無理やり文の腕を引っ張ってくるので、躊躇いながらも立ち上がった。
確かに昨日、怪異がすぐ近くを歩いていた。爪の音も声も聞こえた。
あれだけ近くまで来ていたとなると、一歩間違えれば食い殺されていたのは文だったかもしれない。
しかし――誰もが怪異の仕業であると考えてくれるだろうか?
急に人が殺されたとなると、よそ者である文が真っ先に疑われてもおかしくはない。
だから珊瑚はこんなに焦っているのだ。
「犯人が見つかるまで、人魚族の別の屋敷に貴女を預ける。もう誰も住んでいない場所だから少し掃除が必要だけれど、あそこなら安全だから」
油蝉がうるさく鳴き続けている。
文は珊瑚に手を引かれるまま外を走った。
「……珊瑚さんは、私が犯人だとは思わないの……?」
文が恐る恐る聞くと、前を走っていた珊瑚が勢いよく振り返って否定してきた。
「そんなこと思うわけないじゃない。わたくしは文ちゃんを信じているわ。それに……」
珊瑚は俯き、険しい表情で言う。
「それに、おそらくあれは人の仕業ではない。人間にできるはずがないわ、あんな惨いこと……。臓物だけ抜き取るように食い荒らされていたのよ。もう分かっていると思うけれど、銀鱗島には昔から怪異がいるの。人ではなく、神でもない……ただ全ての生物を食い殺す化け物よ」
文が頷くと珊瑚は溜め息を吐き、ゆっくりと再び歩き始める。
「わたくし達のお屋敷の周り、高い塀で囲まれているでしょう。あれは怪異に見つからないためのもの。あの塀には怪異が嫌う家畜の糞尿の匂いを付けてあるから、彼らはわたくし達の屋敷には入ってこられないはずなのよ。……だから、誰か怪異を招き入れた裏切り者がいるはずで……このまま犯人が見つからなければ、屋敷の人間はきっと貴女がそうなんじゃないかって言い出す気がするの」
急いで屋敷を出たためか日傘もさしていない珊瑚のうなじが、日差しに晒されて汗ばんでいる。
早足で歩き、前方にいる珊瑚に追いつく。珊瑚の横顔は物凄く焦っているように見えた。何かに怯えているような青い顔だ。
「わたくしはしばらく外には出てこられない。何か困ったことがあればあのお医者さんを訪ねて。わたくしからも貴女を頼むと言っておくから。あの人は変な人ではあるけれど、食事くらいは用意してくれると思うわ」
文を匿っていることで激しく打たれていた珊瑚の姿が脳内をちらつく。
文は咄嗟に珊瑚の腕を掴んで止めた。
「待って、珊瑚さん。私が疑われてるってことは、私を匿ってた珊瑚さんが責任を問われるってことではないの?」
「……やぁね、文ちゃん。そんなことないわよ。いくら何でも家族なんだから、乱暴な真似はしてこないわ」
珊瑚が、作り笑いだと一目で分かる力ない笑顔を浮かべる。
「……嘘だよ。私、珊瑚さんが暴力を振るわれているところ見たもの」
震える声で訴えると、珊瑚ははっと目を見開き、気まずそうに顔を逸らした。
「……見てたのね。叔母様は、あの時虫の居所が悪かったの。普段はあんなことしない。平気よ」
「でも、人魚族の女性は珊瑚さんに対して厳しいって言ってたよね?」
「それは出産と子育てにおいての話で……。もう、文ちゃん、わたくしの心配ばかりしているけれど、実際危ういのは文ちゃんなのよ? 他人の心配してないで早く逃げた方がいいわ」
「――私、珊瑚さんのお屋敷に戻る」
文は踵を返して元来た道を戻ろうとした。しかし珊瑚が強い力で文の腕を引っ張って反発してくる。
「正気なの!? 今戻ったら何をされるか分からない! 貴女、人魚族がどんなに恐ろしい一族か知らないでしょう!」
「その〝恐ろしい一族〟の元に珊瑚さんを一人で帰す方が怖いよ! 私は珊瑚さん達のこと、なんにも知らないけど……っ少なくとも今回の件で、珊瑚さんが青い顔して怯える程のことが起こるかもしれないってことは分かる!」
島の住人たちの視線を感じる。
人魚族の珊瑚がいるだけでなく、道の真ん中で口論しているのだから当然だ。
「おいたが過ぎるのではないですか。珊瑚嬢」
湿度の高い風が吹いた。
いつの間にか、着物を着た男達が文と珊瑚の二人を囲んでいる。
珊瑚がちっと忌々しそうに舌打ちした。
文は彼らの七宝柄の着物を見て即座に人魚族の男達だと理解する。色は違うが、柄は珊瑚と同じ着物であるためだ。
珊瑚を庇うように立ちはだかろうとした次の瞬間、文の頭部に衝撃が走る。
殴られたことを理解したのは体が倒れた後だった。
隣から珊瑚の悲鳴が聞こえる。
倒れ込んだまま顔を上げると、じりじりと照り付ける夏の太陽と、年老いた男の姿が目に映った。
抵抗できぬうちに、再び男の容赦ない拳が飛んでくる。
ばきっと音がして歯が一本飛ぶと同時に、文は意識を失った。




