運命
珊瑚の顔の傷口にはガーゼが貼られていた。打たれた頬が腫れている。
見ず知らずの文を匿っているせいで怒られたという事情を知っているだけに、複雑な気持ちになってしまった。
「あの、珊瑚さん……」
やっぱりこの屋敷を出ていくと伝えようとした時、珊瑚がぱんっと両手を合わせた。
「ねぇ、わたくし、重大なことを思い出したの」
「な……何?」
「貴女のお名前聞いていなかったわ」
言われてみれば、珊瑚は文が目覚めてすぐ名乗ってくれたが、文の方は自己紹介をしていない。
「捜す時なんて呼べばいいのか分からなくて困ったのよ。今更な気もするけれど、名前はなんというの?」
「……文……」
「ふみちゃん? 可愛い名前ね。貴女にぴったり」
珊瑚が朗らかに笑って名を褒めてくれる中、文は自分が口にした名前に何故か違和感を覚えていた。
――自分の名前は、こんなに短かっただろうかと。
「今日は病院に行きましょうね。文ちゃんを止血してくれたお医者様がいて、様子を見たいから来るようにと言われているの。お腹を下していることについても相談するといいわ。はいこれ、今日の朝ご飯」
珊瑚が皿に乗ったおむすびを渡してくる。
文はそれを受け取りながら、これも珊瑚がこっそり持ち出した食事なのではないかと心配になった。
「……私、ここにいて平気? その……お屋敷の人にもご挨拶してないし」
「ああ、いいのよ。この家の人達は厳しいから、言ったって納得してくれないと思うわ」
「それってだめなんじゃ……」
「ここを出て行く宛はあるの? 外で生活すると言っても夜は危険よ。文ちゃんを見殺しにしたくないの。お願い、言うことを聞いて」
珊瑚が眉を下げながら言う。
文は昨夜の怪異を思い出し、ぐっと押し黙った。
この島は人ならざるモノが棲む島だ。あの山の化け物以外にも危険な怪異は存在するだろう。昨日の経験があるからこそ、珊瑚の言う〝夜は危険〟の意味合いもより深刻に感じる。
「……ごめんね。ありがとう。でも、何もしないで居座らせてもらうのも申し訳ないから、何か手伝えることはないかな?」
控えめに聞いてみると、珊瑚は顎に指を当ててしばらく考え込むような素振りをし、ちらりと文の髪を見た。
「じゃあ、その組み紐をもらってもいい?」
珊瑚が見ている組み紐は、文がずっと髪を結んでいるものだ。
文は予想外の要求に戸惑った。
「いいけど、そんなことでいいの?」
「それ、霧海村の伝統工芸品でしょう。死んだ母様がよく腕に付けていたの」
珊瑚が哀しげに笑う。
「こんなことを言うのも変だけれど、その組み紐を見た時、もしかしたら運命かもしれないって思ったのよ。わたくしが文ちゃんを助けたのは、文ちゃんの髪にそれが絡まっていたから。母様と父様がこの島で出会ったみたいに、わたくしと文ちゃんが出会ったのも運命なんじゃないかって感じたの」
文にとってはただの髪留めでも、珊瑚にとっては違うのかもしれない。島から陸に行き来する手段がないのなら、珊瑚は父の故郷である霧海村にも行くことができないということだ。母が身に着けていた思い出の品。手元に置いておきたいと思うのも不思議ではない。
文は髪から組み紐を外して珊瑚に渡す。
「いいよ。これは珊瑚さんの方がきっと似合う」
珊瑚は嬉しそうに組み紐を受け取り、長い髪を一つに纏めた。
美人はどんな髪型でもよく似合うと感心しながらその様を見つめる。
「本当にありがとう、文ちゃん。わたくし朝は来月のお祭りの準備があるから、少し離れるわね。午後にまた迎えに来るわ。ご飯を食べて待っておいて」
時計を見て慌ただしく出ていった珊瑚。
部屋に残された文は用意されたおむすびを一口かじった。
――やはり、食べている感じがしない。
ひとまず一つだけ食べた後、並んでいる残り二つに手を伸ばそうとしてやめた。
気がかりなのは、さっき穴の底で見た男のことだ。
彼は声を出せていないはずだった。けれど文には何を言っているのか理解できた。不思議な感覚である。
(あれも怪異……? でも、どう見ても人間の姿だし、あの目の色は珊瑚に似てた。多分このお屋敷の人だ。さっき珊瑚に詳しく聞ければよかったけど……)
勝手に別の部屋に入ったことは知られたくないため、直接聞くのは少し抵抗があり、結局聞けなかった。
文はおむすびの乗った皿を持ったまま外へ出て、忍び足で廊下を歩き、再び曲がり角の直前にあるその部屋の襖を開けた。
この方角は朝日が差し込まないため、部屋は変わらず薄暗く、独特の土の匂いがする。
「虎一郎。いる?」
下に向かって声をかける。目を凝らせば虎一郎が文を見上げるのが分かった。
虎一郎の瞳孔が開いている。目を輝かせながら暗闇の底で笑っているその表情はやはり、少し不気味だ。
「私、この島に来てから何故か食欲がなくて。おむすびをもらったから貴方にあげる。今から落とすから、うまく受け取ってね」
虎一郎の痩せ具合を見るに、このままではそう長くないだろう。罪人であれど放ってはおけない。
ゆっくりと一つずつおむすびを落とす。虎一郎はそれらをうまく掴んだ。
食べるところを見届けたかったが、あまり長居すると見つかってしまうかもしれないと思い、皿を持って早々に部屋を出る。
虎一郎からは逃げたいという意思を感じられなかった。普通閉じ込められているのであれば助けを求めてきそうなところを彼は何も言ってこなかった。……まるであそこで何かを待っているかのように。
文は彼のことを気がかりに思いながらも自分に与えられた部屋に戻った。




