大女優『大原多重子』の肖像
……猛烈にだるい。
何年もの深い眠りに落ちた後、いきなり目を覚ました直後かのように、身体が他人行儀だ。視界が揺れて見えるのは、おそらく私の足取りのせいだろう。ところで一体ここは……どこ?
記憶にはないけど、なぜだか分かる、この家の間取り。私はキッチンへと向かい、コップに水を入れ、口にする。
大きなテレビと見るからに高そうな応接セット。
サイドボードの上には、いくつもの写真立て。そして壁掛けられた無数のスナップショット。
横の鏡に映る私の顔と写真の中にいる女の顔。
女の方がどれも若いが、おそらく私で間違いはない。
だけど、こんな写真は撮った覚えがない。
私の顔をした<私じゃない女>が笑っている。
それと<隣に映る男>は、いったい誰?
「やあ、お目覚めかい。ひさしぶりだね、多重子くん」
後ろから声をかけられ、思わず背筋が凍る。
ふり返ると、少し歳をとってはいるが、隣の男に違いはなかった。
「ええ……ところで、貴方は……どなた?」
「ひどいなぁ、愛する夫の顔も忘れたのかい?」
この取り繕ったような、感情の見えない笑顔を 私は何度か過去にも見たことがある。どこでだかは思い出せないけど、やはりこの男は私の主人なのだろうか。
「君は記憶を失った大女優だ。今の感情をよ~く覚えておくといい。次の役作りにも生かせるはずっだから」
……私が女優?
何の夢なのかしら?
それとも、これもまだ夢の中?
妙にリアルな夢だけど、これが夢なら、私の記憶がこれほど朧気なのにも納得がいく。けど、本当にこれが……夢?
「はい、カットー!」
パン!と手を鳴らす音と同時に、視界がグラリと崩れ落ち、私はまた自らの輪郭を失った。
◇
「どうだった多重子。参考にはなったかい?」
「ええ、とっても。彼女の動揺は手に取るように分かったし、本番では上手く誘導できそうね」
私が会話をしている相手は、元・精神科医の山科徹。昭和の大女優であるこの私、大原多重子の主治医にして、主人でもある。
彼とは、まだ私が駆け出しの頃からの付き合いで、精神に変調を来たしがちだった私を全面的にサポートしてくれた、いわば、この人生の共犯者でもあった。
次回の主演映画は、記憶喪失になった昭和の大女優の物語。私にとっては、まさにメタフィクション的な内容となっている。だから私は、ひさしぶりに<もうひとりの多重子>を呼び出すことを山科に依頼。山科も ―― 「ひさしぶりだな、多重子くんと会うのは」と、ふたつ返事で了承した。
かつて多重人格気味だった大原多重子。
そんな私に<もう片方の人格>を破壊し、役作りのための<空っぽな箱>にすることを勧めてきたのも、この男であった。
◇
(次のセリフは「……あなたは、いったい何者?」よ)
怖い、怖い、怖い。
またあの女の声が聴こえてくる。
私はまた<お芝居の夢>の中で、目を覚ました。
次のセリフを指示してくる女の声。
逆らいたくても、逆らえない、催眠のような悪夢。
「……あなたは、いったい何者?」
「ひどいなぁ、愛する夫の顔も忘れたのかい?」
◇
山科が破壊したのは、無垢で可憐な少女。<主人格>の方の大原多重子であった。
当時、まだ端役しかもらえていない、デビューしたばかりの十代の大原多重子。そんな彼女に夢中になった男がひとりいた。医学生時代の山科である。その儚く、脆く映る、可憐な少女の姿は、一瞬で山科を虜にし、「この子を壊したい」という衝動を一気に掻き立てた。
山科は、無数のファンレターを多重子に送り付けた。一見すると、ただの丁寧なファンが書いた文章にしか読めないファンレター。そこには巧妙で様々な<誘導のトリガー>が埋め込まれていた。だが、多重子のマネージャーでは、それが読み取れず、そのまま、多重子の手元へと渡った。
現在、山科は医師免許を返納している。
それは、山科が起こしたとされる<数多くの事件>が原因であった。だが、どれも有罪判決までには至っていない。あくまでも「自主返納」という形である。
山科が起こした事件のひとつの共犯者でもある<もうひとりの大原多重子>。彼女は、結婚の同意を取引条件に<主人格の破壊>を山科に依頼した。しかし、彼女はまだ知らない。大原多重子には、まだもうひとりの大原多重子も知らない、別の大原多重子の顔があることを。山科徹は、稀代の精神科医である。良くも悪くも。
―― 山科徹は、真実を虚構に塗り替え、虚構を現実にする悪魔である。昭和の大女優・大原多重子の存在とて、実験のひとつの例に過ぎなかった。
補足)
◇区切りの最初のパートは主人格、次にもうひとりの多重子。その次にまた主人格に戻り、最後は山科との過去という構成です。
いずれはもう少し肉付け、リテイク等を加えるとは思いますが、まずはファーストテイクを読者の皆様へ。ご感想やリアクションなど頂けると幸いです。