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白亜の世を彩るは

作者: 梅田カテラ

初投稿、読み切りです。まだ文も拙く、誤字脱字等あるかもしれませんが、そのあたりは大目に見てください。

 ある研究所で秘密裏に進められていた研究が成功したらしい。

 曰く、その研究所の所長は中々の浪漫主義者らしく、全国の少年が1度は夢見たことを成し遂げたんだと。

 所内に響く怒声。慌ただしく走り回る白衣を着た人間達と、裸のまま怪しげなポットの中で佇む二匹、否、二人と言った方が正しいのであろうか。

 一人は力強い大地の自然を感じさせる翡翠の色に、ところどころ黄色が混じった髪をしている。

 一人は嫋やかな大海の色、サファイアブルーの豊かな青い髪をしていた。

 どちらも文明的なものは感じず、野生で鍛えられた機能美を感じさせる強かな肉体をしていて、顔には表情と言った表情は無く、白紙のようにただぼうっと忙しない人々を眺めている。

 白亜紀からはるばるやって来た、二匹の恐竜。

二人の口元には獲物の肉を噛み千切るための牙が輝き、脚は目を見張るほどに逞しく、野生の厳しさがありありと浮かんでくるようだ。

 まだ真っ白な二匹は、この現代の世で、何色に染まるだろうか。

 


紙を照らした翠微の曙光


 初めに彼を観測したのは、寒さが引っ込んでしまって、人も草木も浮かれ立つような、冬が明けた頃だった。

 山吹浅葱。絵を描くことしか脳の無い、欠点まみれの人間。それが俺。

 そんな俺は何となく陰鬱とした気持ちを押し込みきれずに、ただ足を右、そして次に左と押し出して、人の歩く様というものの真似事をして街を進んでいった。

 ひとつ、またひとつと角を曲がると、鬱陶しかった人いきれも段々と影を潜めている。

 最終的にすれ違う人も居なくなった頃、俺は妙に仰々しく佇む研究所の前で足を止めた。

 背中に背負った鞄は大きく、重い。1人くらい迎えを寄越せよ、欲を言えば車で送ってくれ。

 不満をグッと飲み込んで、自動ドアを潜り抜けた。

 「山吹様、お待ちしておりました。」

 馴染みの研究員の女が声を掛けてきた。前に見た時より幾分かやつれて見える。

 話には聞いていたが、今回のは相当規模のでかい研究らしいのは、彼女の様子を見ても何となく伝わって来た。

 「で、今回俺が描くのは?」

 「話は聞いているでしょう、白亜紀からやって来た恐竜です。」

 「何度聞いても慣れないな。夢物語にしか聞こえない」

 「私も未だに半信半疑ですよ。」

 「そりゃまたどうして。あんたは世話係にまでなったんだろう?」

 「実物を見れば、貴方もきっと同じように思う筈です。」

 女はため息混じりで院内をずかずか進んでいく。こっちは大荷物なんだ、ちょっとは配慮してくれ。

 そして、女に案内された先居たのが、彼である。

透明なガラス越しに見た彼は、美しかった。その一言に尽きた。

 大自然をそのまま映し出したかのような見事な緑の髪の中には、黄色が小さく混じっている。

 端正な顔つきは石膏像のようで、とてもじゃないが俺はこれが恐竜だなんて冗談だと思った。

 硝子玉のような琥珀色の瞳と、俺の視線がぶつかる。

 「…まさか、これがジュラ紀からやって来たとかいう恐竜だとは言わないよな?」

 「誠に残念ながら、こちらが件の恐竜です。

どうやらこちらに連れてくる時の矛盾が人間化という形で出力されたらしく、簡単な物なら意思疎通も可能です。」

 「…信じらんねぇな」

 「だから言ったでしょう?貴方も同じ様に思う筈だと。」

 「してやられた気分だ。名前とかは無いの?」

 「『緑』です。」

 「はぁ、最近の恐竜は結構人間らしい名前をしてるんだな。一号とかって呼ばれてるのかと。」

 「普通に特徴の方が分かりやすくないですか?」

 「夢を壊された気分だ」

 「貴方はここに夢を見に来たわけじゃ無いでしょう?仕事でいらっしゃったんですから、お早めに。まだもう1人居るんですからね。」

 「分かってるよ。相変わらず手厳しいな。」

 俺はガラス板の前にどっかり腰掛けて、大荷物を広げる。

 この絵ひとつで身を立てていくと誓った俺の仕事。

 大っぴらには出来ない研究は、写真などのデータに残すと後々足が着いて拡散される危険性を帯びている。

 そこで俺のような画家にお声がかかった。

 俺は生来の気質で見たものをそのまま描く、というのが得意らしく、写真のように精巧な絵を描くのがウリである。

 しかしまあ画家というのは独自の世界観や人々を惹き付ける天性の才が必要とされる職業で、俺のような個性の無い絵描きは画家として食っていくには難しかった。

 だがそこで精巧に描くというのを逆手に取り、今はこうして研究所の秘密に加担して小遣い稼ぎをしている。

 特に今回のはタイムスリップという人類の禁忌を犯した研究なわけで、研究所としては彼らの存在を外部に知られるのは死んでも避けたい案件らしい。

 だからってここまで厳重に人の姿をした奴が監禁されているのは、見ていて気分のいいもんじゃなかった。

 「私は一度失礼しますね。描き上がったらお呼びください」

 女は一礼して部屋を出ていった。何度か会っていても、なんとなく監視の目が解かれたようで少し安心してしまう。

 「人間ってのは中々ひでぇことするよなぁ。」

 ガラスで区切られた緑に語りかける。こんなに人に近い姿をしてるんだ、もしかしたら返事が返ってくるかも、なんて。

 「お前の時代には、絵ってあったのか?」

 緑は首を捻った。何やら俺が話していることは目で見て認識しているらしいが、分厚いガラスのせいで声は聞こえてはいないようで内容は伝わっていないのだろう。

 獲物が鳴いているのと似たようなものと思われてしまっているのかもしれない。

 「流石に無いかな。もしあったら見てみたい。」

緑は興味深そうに俺の手元を覗き込もうとしている。まるで子供のような仕草に、俺は小さく笑いを漏らした。

 描くために緑をじっと観てみると、彼の腹には切られたような跡がある。

 縫合はされているものの、包帯などで処置されていないのに傷が開かないのは、流石恐竜の治癒力と言ったものか。それでも絵面は中々痛ましい。

 「暴れんなよ。痛むぞ」

 悪い癖だ。声が伝わらないとわかっていても話しかけてしまう。

 緑は俺が腹をじっと見ていることに気づいたのか、同じように自分の腹を眺めた。

 その時の瞳が妙に切なそうで、俺は身体から描くことにした。その時の、彼の顔を描くのが、なんだか忍びなかったからだろう。


 2度目に彼を観測したのは、薄汚い路地裏で見覚えのある緑の髪がくったりと倒れ込んでいるのを見た時。

 その日俺は画材を買い付けに街まで訪れていて、人の少ない路地裏を敢えて通っている時に、彼を見つけてしまった。

 「お前っ、まさか緑か?」

 焦り半分で駆け寄ると、緑は強気そうな目を眇めて俺を睨みつける。

 なんでここにこいつが、絶対に何かおかしい、なんてことが頭に一瞬過ったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。

 「あ゛、ぅ゛ぎ…」

 「喋るな、どうせ言葉はわかんないんだから。ただ喉を痛め付けるだけだぞ」

 緑は口を閉じて、俺の言うことが正論だと不満げながらも黙り込む。

 一体何があったのか。そもそもこいつは研究所の研究対象のはずだ。それがなんでこんな所に?しかも傷だらけだ。

 まずは治療が最優先のはず。

 「悪いな、ちょっと痛むかも」

 緑をできる限り優しくおぶると、背中から呻き声が聞こえる。腹の傷が背中に押し付けられて痛むのだろう。

 俺は何も考えられず、嫌、何も考えずにただ家へ向かう。少し考えれば、これが異常な行動だと、わかってしまいそうだったから。


 家に着くと、彼は狭い空間に安心したのか背中からずり落ちて眠ってしまった。

 玄関で寝るなんて体を痛めるに決まっている。恐竜にはそこらへんの常識も通じないので中々困ったものだ。

 一先ずスマホを手に取って、研究所からメールが来ていないか確認する。万が一俺が緑を盗んだだとかで疑われていたら大変だ。

 スマホの通知欄にはクリーニング屋の広告のみが妙に派手に映し出されていて、他には特に何も無い。

 どうやら俺に連絡が来ることは無かったようだ。

 流石に部外者であるただの絵師には伝えなくても良いと判断したのだろう。

 安心してスマホを置くと、なんだか身体中の力が抜けてしまって、俺まで床にへたりと座り込んでしまった。

 「ヤバいもん拾っちまったかもなぁ…」

 俺の虚しい言葉は宙を漂い、屋根にぶつかって、換気中の窓の外に消えた。

 仕方がない、俺が自ら首を突っ込んだことである。明日にでも研究所に連絡を付けて、引き取って貰おう。それが全て解決する最高の手のはずだ。

 緑を布団まで連れて行ってやろうと視線を向ける。

 身体中に刻み込まれた、痛々しい実験の跡。

 無理やりおぶると苦しそうに呻く、緑の声。

 寝ているときでも常に眉間に固く寄った皺。

 何度でも言おう。俺と此奴は二度しか面識がない。他人同然だ。

 それでも、何故か放っておけないのは何故だろうか。彼の寂しげなあの瞳に、心をやられてしまったのだろうか。

 形の良い瞼が薄らと開かれ、恐竜などと言う大層なものには思えない、震えた淡い黄色の瞳が俺を捕らえた。

 「…お前まさか、逃げ出して来たのか?」

 頼むから、首を横に振ってくれ。

 無責任な俺の醜い祈りは、緑が縦に首を振ったことで音を立てて崩れ落ちた。

 「へぇ、どうりで…」

 擦り傷やら切り傷まみれの腕を撫でると、びくっと緑の体が震える。

 「そんな警戒すんなよ。俺は酷いことも、痛いこともしねぇよ。」

 安いベッドに寝かされたまま、緑は苦しそうに目を伏せた。

 「あんな所から脱走してくるとか、勇気あるな。どうせ研究と称して体の中でも弄り回されたんだろ?」

 こくりと緑が頷く。

 「それで、あんな所で行き倒れてたってわけ。」

 緑は申し訳なさそうな顔をしている。本当に人間のような表情と仕草に、酷く同情してしまった。

 「…起きれるか」

 緑が時折痛みに顔を顰めながら、上半身を起こして俺に向かう。

 「上手く出来なくても文句言うなよ」

 使わず仕舞いだった救急箱を手に取って、俺は緑に一通りの手当を施してやることにした。


 予想外の拾い物をしてから、2日が経った。世間はすっかり春が来た様子である。

 緑は元気を取り戻しつつあった。

 適当に与えてみた食べ物は基本なんでも食べるし、最近は俺が絵を描いているとすぐ近くに寄ってきてそれをじっと見つめる。

 俺はたまに緑を描く。

 美しい彼の緑色を表現するのは難しいが、彼は如何せん止まってくれと言うと微動だにしないし、表情の変化も人間より少ないので絵のモデルとしてすごく描きやすかった。

 彼の瞳を正面から捉えると、本当に惹き込まれそうな琥珀色をしている。琥珀は彼の生きた時代からあったのだろうか。

 研究所からの連絡は無い。連絡なんかは仕事の時にしか来なかったため、別に連絡が来ないのは何ら不自然なことではないが、今尚連絡に脅えつつあるのは俺がただの臆病者だから。

 緑との生活はそれなりに充実していた。

 俺が「緑、」と呼ぶと何を見ていてもこちらにすぐ寄ってくるところが犬の様で、少し可愛く思えてくる。

 そういったペットのような愛情とも同時に、俺が緑をまるで人間のように扱い出したのもまた事実であった。

 彼は時折言葉を話すようになっていた。でもそれは「うん」だとか「そぅだな」だとかで、よく耳を澄まさないとなんと言っているのか判別すらできないほどの、本当に拙い感情表現。

 それでも人間のような容姿、俺たちと同じ言葉を介す生き物を、俺は人間のように思い始めていた。

 「お前、緑なんて名前じゃあ格好つかないだろ。」

 人間にもいるかもしれないが、画材によく慣れ親しんだ俺の中で緑なんて名前はあまりにも捻りが無さすぎる様にも感じる。

 本当に特徴だけで付けたのだろう、と思わせる名前は愛情を感じず何だか嫌だった。

 「折角なら、『翠』なんてのはどうだ?」

 俺はその場にあった適当な紙に、『翠』の字を書いて彼に見せてやる。

 数秒じっと見つめた後、彼は「…いぃ。みどり、翠。」と舌っ足らずながらも俺に伝えてくれた。

 その紙、その名前が随分気に入ったらしく、翠はずっと紙を眺めている。

 時に指で文字をなぞって、時に目で線の行先を追い駆ける。

 それが初めて言葉に触れた子供みたいで、俺は面白くてずっと、ずっと眺めていた。


 緑が翠になって暫く経ち、この街では桜が咲いたらしい。

 俺は翠を連れて桜を見に近くの川辺まで足を運んでいた。

 かつてのペシミスト気質だった頃の俺なら考えられないことである。

 翠は随分流暢に言葉を話すようになっていた。

 「これが、桜」

 「さくら、さくら…キレイ」

 「そうだな。」

 正直俺は花より団子な性格で、飽きずに桜を見つめ続けるジュラ紀出身の翠の方が風流とやらを楽しむ心を持っていそうだ。

 花を見上げるその横顔も憂いを帯びていてなんだか美しい。

 「なあ、暫くそのままな。」

 「?」

 不思議そうに首を傾げながらも、翠はそのまま桜の方を向いて動かない。

 俺はスケッチブックと画材取り出して、翠を描く事にした。

 いつも大荷物なのは、俺がこういった日常の一瞬に美しさを感じる質の人間であるが故、いつこうして最高のモデルを見出せるか俺本人にも分からないからである。

 翠独特のこの雰囲気と美しさを表現出来る自身はなかったが、画家として自分が美しいと思ったものを描かないわけにはいかなかった。


 筆を動かしているうちに穏やかな時間が過ぎて、俺たちはあの狭い家に帰るため家路を辿っていた。

 「絵、見たい」

 「後でな」

 短く単語で喋る翠に釣られて、俺まで最近短く会話を終わらせることが増えたような気がする。元からあまりに喋る方ではないが。

 地味なアパートが目に入った時、俺の危険信号が全力で鳴り響いた。

 俺たちの部屋の扉が開いていて、中から絶えず重厚な人の足音が鳴っている。

 中を覗いてみると、白衣を着た人間が中で指示を出していた。

 牙を剥き出しにして、瞳を怒りで燃え上がらせるような鬼の形相をした翠の腕を強く掴む。

 「翠っ、落ち着け!」

 「あさ、ぎ…」

 怒りで震えた口元から漏れ出る声は頼り無くて、か細い声だった。それでも、その芯からはひしひしと翠の憤怒が確かに伝わって来る。

 「翠、良いか。俺の目を見て聞いてくれ。」

 「…?」

 「俺とここから逃げるぞ。」

 「あ…はぁ!?」

 「しっ!バレたらどうする!」

 「だって、今…!!」

 「良い。元からあんな家に大した執着も無いしな。貯金なら程々にはあるし、足りなくなれば行った先で工面すればいい。」

 「でも…」

 「でもじゃない、またあんなところにお前を送り返してたまるか。分かったら早く行くぞ。」

 俺は逃げるようにして過去の住処に踵を返した。翠もそれに続く。

 「あさぎ…なんで?」

 恐怖と疑問が入り交じった瞳で翠がこちらを見上げる。

 「…お前を描いた金で飯食ってたからな、その礼だ」

 「は、はぁ?」

 気の抜けたように翠が目を見開いた。

 「そんなの、つり合わないんじゃないの」

 「いーんだよ。俺は勘定は苦手だ。」

 さて、大言壮語を並べたは良いものの、どこを目指そうか。

 まあ、別にどこでもいいだろう。

 日本中どこを探しても、人の姿をした恐竜より珍しいものは無い筈だ。きっと、どうせ、たぶん、なんとかやって行ける。

 そう言い聞かせて、俺は駅に向かって歩みを進めた。

 福井県松岡市出発の適当な地名で新幹線のチケットを二人分買い、それに乗り込む。

 電車なんかで半端な所に着いてしまっても、決意が揺らぐ気がする。

 こいつをあの研究所から守るという、くたびれた人生の最大の決意が。

 どうせ行くのならば、うんと遠くへ。帰ってはいけないでは無い、帰れないを目指せ。

 ただ今は、俺がこいつの帰る場所になってやらねばならない。それだけが事実だった。


 そこからは逃亡の日々。

 思った以上に翠を外に出しておくのは研究所の連中にとって許せないものらしい。

 最初に向かったのは、東の方。人が多い場所なら金も稼げそうだし、ひとまず東京を目指してみようと思った。

 だが俺たちが降りたのは東は東でも東京なんかにな届かない、聞いたことも無い地名の場所。

 結局、大して遠くまで来れなかった。適当に切符を買ったので自分たちもよく分からない場所に降りることになるのは当たり前である。

 教養の浅い俺からするとどこの何なのかもよくわからない、見知らぬ土地に降り立った。

 「…デカいこと言っちゃったけど、俺たち結構やばいかも」

 「だから言ったのに…」

 恐竜に諭される現代人。こんな現状には虚しさしか感じない。

 それでも、俺の胸には不思議と後悔の色は無かった。

 くらげのように呆然と漂ってきただけの、薄ぼんやりとした我が生涯において、初めて正義感という俗っぽい物で動いたような気がする。

 きっと疲れていたんだろう。

 いつか終わるこの人生で、一度くらい誰かを助けてみたかった。

 そんな俺のエゴだったのかもしれない。

 脳内での一人問答もそこそこに、俺たちは駅を出て街を歩いて回った。

 幸いそこそこ都会の駅に降りられたらしく、人通りも中々。

 これなら仕事を見つけるのも楽かもしれない。

 「とりあえず、今日はビジホな。金ないし」

 「ビジ…え?」

 「ビジネスホテル。そりゃ知らねぇか。宿だよ、お金払って一日とかだけ家を借りんの。」

 「やど、家…」

 翠は理解したようなしてないような顔をして頷いた。

 ぐんぐん言葉や文化を覚えていくこいつを見るのが楽しかった、というのも、俺がこんなことをしてしまった要因の一つかもしれない。


 未開の地での安息は非常に残念ながら3日程で潰えた。

 最初の頃は良かった。元から狭い家で2人暮らしていたし、協力してホテル暮らしでも何とかやっていけた。

 このまま追手が来なければここに家を借りることになるのかもな、なんて考えていた矢先にこれだ。

 「山吹さーーん?いらっしゃいますよね?」

 「ちょっとちょっと、困るんですけど…というかあなた達どなたです!?」

 敬語ながらも慇懃無礼な研究員と思しき男の声と、困惑するビジホの警備員の怒声が扉越しに聞こえてくる。

 「あさぎ、どうしたら…」

 「また逃げるしかねぇな。」

 「どうやって!?」

 「ほら、そこの窓が空いてる」

 翠は信じられない、といった形相で部屋の窓を指さした俺の腕を睨み付けてきた。

 仕方ないだろう、もうこれしか手段がないのもまた事実。

 「恐竜なんだからこれくらいで日和んじゃねえよ」

 「そんなっ、あさぎ!?」

 俺は窓の下を見下ろす。ここは確か4階。

 「なあ翠、お前ならこれくらい飛び降りても大丈夫なんじゃないか?」

 そう尋ねると、翠はバツの悪そうに俯いて黙りこくった。

 様子から察するに、おそらく本人にも自分の体のキャパシティが分かっていないのだろう。慣れない人間の体だ、無理もない。

 「だがな、俺はお前を信用してる。もしお前が俺を抱えてここから飛び降りて、それでもダメだった場合…」

 「ばあいは…?」

 「お前と心中、だな」

「ふざ、ふざけてるのか!?」

 「ははっ、お前も上手く声出せるようになったなぁ!」

 声を荒らげる翠の頭をわしゃわしゃと大楊に撫でてやる。

 つい最近知り合ったはずなのに、翠はなんだか昔から成長を見守っている親戚の子供のように感じる可愛らしさを持っていた。

 「いま、そんな場合じゃ、」

 「ま、何とかなるさ。これからもな。」

 不安げに揺れる翠の瞳は逃げ出してきたばかりの頃の翠を彷彿とさせる。

 それが、余計に俺の意志を固いものにさせた。

 あんな場所に返してたまるか。

 「さ、翠、心中の決意は固まったか?」

 「うぅ…」

 …流石にからかい過ぎたか。翠は大きな瞳をこちらに向けて、本当に上手くいくのかと今にも問いつめたそうな顔をしている。

 入口から離れた窓の付近にいても、ドアの外からは未だに研究員の声が小さく聞こえてきており、それも恐らく翠の不安を掻き立てているのだろう。

 翠は小さくて弱々しい声で、俺に呟いた。

 「…あさぎ、死なない?」

 「お前が守ってくれるなら、俺は死なねーよ。」

 一度捧げたこの身だ。ここまで来たら、死ぬまで付き合ってやるよ。どうせほかに使い道のない、こんな人生なんだ。


 結果から言うと、俺たちは翠の驚異的な耐久力を持つ肉体により事なきを得て、ホテルの4階から飛び降りるという蛮行を成し遂げた。

 現在も次の安寧を求めて未だにふらりふらりと旅を続けている。

 旅というほど崇高なものでも無く、ただの盗難品とそれを隠し続ける盗人とも言えるだろう。

 翠は随分人間らしい奴になって来た。俺よりいつの間にか家事もできるようになっていたし、性格も随分しっかりした奴。

 俺は翠の後ろ姿を描くことが多くなった。

 どうやら俺が普段描いてばかりいるので、翠は最近ペンに興味を持ち始めている。

 適当な紙とペンを渡してやると、不慣れな手つきで俺の真似をしているのが本当に子供のようだ。

 見ているとなんだか色々と教えてやりたくなってしまい、特に最近は字を書くのにハマっているらしい。

 俺が絵を売りに街に出ていると、家で窓から見える街の風景を書いたり、俺の名前を何度も何度も書いている。

 自分の名前は書かなくていいのか、と聞くといつも決まって「おまえのがいい」と言う。

 初めは息子に手紙を書いてもらう父親のようで嬉しかったが、考えれば元は恐竜である翠からすると、自分に名前というものが着いているのに違和感を感じているのかもしれない。

 だから俺の名前を書いているのだろうか?

 研究所からの追手は未だにやってくる。

 俺たちは今日も歩いたり公共交通機関を使ったりとあの手この手で奴らから逃げ惑っていた。

 「なあ、もう疲れた」

 「文句言うんじゃない。追われてるのはお前なんだから、お前が逃げなくてどうする。」

 …文字だけでなく、我儘も覚えたようだ。

 「あの人たちもひまだよな。おれなんか追っかけて」

 「そりゃあそうだろ。お前、恐竜の自覚とかないの?」

 「あるけど、そんなに追うほどでもないと思う。あそこにいたのおれだけじゃなかったし。」

 そういえば、初めて翠に会った日にもう1人恐竜、という名の人間がいた気がする。

 確か、翠と対象的な、青い髪の…

 「もう1人は女だったっけ」

 「青は男だよ。かみしか覚えてないんだろ、あさぎ」

 翠が小さく笑って答えた。そうか、青。そんな名前だった気がする。知り合いの研究員の女が、確かそいつの世話係だった。

 翠の感情表現は擦れた現代人の俺たちと違って、全てが直球でなんだか気分が良い。

 そう包み隠さず話されるとこちらとしても話す時に大変気が楽だ。

 「そうだったか…っぐ、」

 「…ちょっと、あさぎ!あしのけが…」

 翠がしゃがみこんで、俺の脛に顔を近づける。これは以前に研究所の追手から逃げる際付けられた傷だ。

 俺としては別にどうでもいいのだが、足なので度に響くところと翠が過剰に申し訳なく思っているようなのが厄介である。

 画家にしちゃあ腕さえあれば別に良いのに、足のこんな傷を毎回新鮮な反応で驚かれると本当に重症な気すらしてきてしまう。こんなの屁でも無いのに。

 良い子に育ったもんだな。俺が育てた、と言うのは変だが。


 あれから更に時は流れた。

 翠はたまに部屋で服を脱いで過ごしている。本人が言うには暑いかららしいが、実は野生に帰りかけて居るのではないかと俺は少し心配が募るばかりだ。

 「飯、何食いたい?」

 翠はキャンバスから目を離さずに、ぱさりと俺に紙を渡してきた。

 『カレー』

 「っふ…」

 思わず噴き出してしまう。翠は字の練習と銘打って最近謎に筆談をするようになった。正直だいぶ面白い。

 俺達は逃げに逃げて、静岡の小さなアパートを借りて慎ましく暮らしていた。玄関口には、「西川」の表札を掲げて。

 一応俺たちは逃亡の身だ。山吹なんてのは少々珍しい苗字なので、翠の苗字を適当に西川ってことにして誤魔化している。

 西川は適当にでっち上げた苗字だが、東へ、東へと逃げてきた俺は、もしかしたら心のどこかで西を恋しく思っていたのかもしれない。

 今となってはどうでもいい事だが。

 新しい家には家具よりも画材が占める場所の方が多くなり、ほとんどアトリエといった様相を成している。

 最近は翠も随分上手い、というか味のある絵を描くようになり、売る絵も2人分になったことで俺達は普通の人間として暮らしていける程度まで豊かになった。

 「…」

 翠の描く絵は独特だ。俺の個性のない絵とはまるで対照的。最近は翠の絵の方が売れ行きが良いほどに。

 いつも自然を描いている。大地や森林、雄大な大自然をまるきり新しい視点で描く彼の絵は目に新鮮だ。

 きっと、これは彼の生きた時代の自然なのだろう。

 彼の青みがかった緑は、美大時代に大して仲の良い訳でもない人間に誘われて登山に付き合わされた時の山頂から見たはるか遠くにあおく霞む山々よう。

 使い古されたよくある自然の構図も彼が描くとまるで今にも動き出しそうな生き生きとした絵になる。

 「お前、ホント良い絵描くのなぁ。恐竜なのか?ほんとに。」

 「…」

 翠はまた紙に何やら文字書くと、俺に手渡して顔を背けた。

 開くと、なかには『お前のを見てたから、かけるだけ』だと。

 「ったく…どこで覚えてきたんだ〜!?!」

 「わぶっ、ちょっと!今かいてる!ちょっ、うわぁっ!!」

 勢い良く後ろから抱き締めてやったら、バランスを崩した翠が持っていた絵の具を盛大にぶちまける。床がとんでもなくカラフルになってしまった。

 「もう…!かいてるとき、じゃますんなよ!」

 「ははっ、ごめんごめん。絵は無事か?」

 「…なんとか」

 「ならいいじゃねぇか」

 「よくない!!」

 翠は怨言をこぼしながら絵の具を片付けようと手を伸ばした。

 「あーあ、もったいねー…おまえのせいだからな。」

 白くて細い手に原色の絵の具がべったりと付着する。

 俺はじっと、じっとそれを見ていた。

 ぶつくさと文句を言う翠の声は、久しぶりに聞けた…という程では無いが、聞けたのが、嬉しい。

 生温い風青しが頬を擽る。

 翠の笑い声が。怒ってぶすくれた時の荒っぽい声が。呆れたような、吐息混じりの一人言が、部屋の中に小さく響いて、溶けた。



 穏やかな時間は早く流れるように感じる。穏やかな時間、ああそうだ、穏やかな時間。

 …そんなものは、自分たちにあるはずが無い。

 翠は、心のどこかで、薄々気づいていた。きっと、浅葱もだろう。

 いつかこうなると、分かっていた。そう、分かっていたのだ。

 薄暗い路地裏に吹く風は強く、冷たい。四肢を切り裂くような、真夜中の、氷柱のような風。

 「久しぶりだな、被験体緑。

…今は西川翠だっけ?」

 「…」

 糊のきいたスーツをかっちり着こなした、如何にもデキるといった容貌の男。

 中肉中背、よく居そうと言えばよく居そうなのに妙な威圧感を感じる。

 確か、松浦室長とか言う研究所の人間だ。

 「で、人間ごっこは楽しかったか?」

 まっすぐと翠を見据える瞳からは感情の起伏というものがまるで読み取れない。

 確かに表情はあるのに、まるで能面のようだ。

 「話ってなんだよ。」

 「おぉ、お前まで喋れるようになったのか。恐竜ってのは存外賢いな。アイツが特段賢いのかと思っていたよ。」

 茶化すような態度の男に苛立ちを覚える。人間でない翠相手に、子供でもあやすかのような舐め腐った態度。それが、翠は大嫌いだった。

 「喜ばしい知らせだ。お前たち被験体にしか出来ない研究がある。」

 翠は、自分の顔からさあっと血の気が引いていくのがわかった。

 「今すぐ帰って来い、緑。人類の禁忌であるタイムスリップでここへ来たお前たちは決して世間には見つかってはいけない。

 そんなお前たち被験体が我々の手から離れることは重大な問題。お前は、山吹浅葱に迷惑を掛けすぎた。奴は現在、研究所の最重要秘匿研究を妨げた罪で追われている。

 お前のせいで、奴の身の安全も危うい状況なのを理解しているのか?」

 研究員が捲し立てる。決して怒鳴り声なんかではなかったが、低く、腹の底まで響くような低音で、それは警告やお叱りなんて物ではなく、決定事項を滔々と告げているだけであった。

 被験体たちにしか出来ない実験。非常に遠回しな言い方をしているが、いわゆる‘’研究のために命を捧げろ”という物だ。

 「っそんなの、」

 「お前がこちらに来たら、あの男の命は保証する。」

 言い返そうとした矢先、翠の肩が揺れ、沈黙が場を支配する。

 先程言われた言葉。今はもう、浅葱の身が危うい状態なのだ。

 最早、翠に選択の余地は無かった。これは、最初から交渉などでは無かったのだから。

 翡翠色の髪が、縦に揺れたのを見て、暗闇の中スーツの男の口が弧を描いた。


 最後に翠に許されたのは、手紙を認めることだけだった。

 浅葱のことだから、もし起きでもしたらあの女の様に死んでも翠を連れて逃げ出すだろうという研究所側の判断で、最後の最後に会話をすることすら許されず、2人の道はここで別れる。

 もう朝が来たようだ。西日が窓から除く山々を越えて、小さく、頼りなく見える翠の指先を照らす。

震える指で文字を綴った。一文字一文字、全てに魂を込めるような気持ちで。

 ここに綴られている物は、全てが浅葱から教わった文字だった。言葉だった。文章だった。感情だった。

 嬉しいときは声上げて笑うことを知った。

 絵を描くのは楽しいことを知った。

 自分の考えを文にすれば伝わることを知った。

 涙を堪えると鼻が痛くなることを知った。

 白い紙には、何を描いてもいい事を知った。



 「…あさぎ、あさぎ。」

 おれのたいせつな、たったひとりの。

 「…ありがとう、あさぎ。」

 おれにおまえがえがいてくれた。いつか、があればだけど、こんどはおまえをかいてみたいな。



蒼穹と蒼海の境目が溶けてなくなったら


 私は、彼の中に海を見た。

 彼は深くて暗い深海の奥底に眠る宝物のような、言いしれぬ底の見えない恐怖を帯びている。

 だが、それと同時に母なる海のおおらかさ、全てを包み込むような、天が授けた母性とでも言うのだろうか。

 彼の近くにいる人間は、皆リラックスしているように見えた。

 花曇りの空からは吹く生暖かい風は全身を包むようで、研究所の大理石で出来た冷たい床を歩く私の気分を落ち着かせてくれる。

 私は子気味良いリズムで言葉を刻む落語を流したまま、イヤホンを耳に突っ込んで彼の檻まで向かう。

 彼はいつも呆然とどこかを眺めていた。ある日は壁の染み。ある日は机上のコップ。ある日は檻越しに見える監視カメラ。ある日は私の顔。ある日は虚空。

 きっと彼には、被験体青には私たちには見えないものが見えているのだろう。

 白衣の裾を揺らしながら、厳重なロックがなされた扉を開ける。

 とはいえ最近のロックはなんだかさっぱりとしており、昔のように鉛色の鍵はなく、パスワードひとつで開く優れものだ。

 化学の進歩の最先端でそれを支える私から見ても、やはり進化とは私たちの思いもよらぬ場所で追いつかないほどのスピードで進んでいる。

 「お早う。今日は何を見てるの?」

 私が話し掛けると、長い髪が揺れて、白皙の顏がこちらに振り向く。

 恐竜とはまるで思えない、野生で生きていくには不便そうな、綺麗な長い髪。

 「お、は、よ、う」

 「ぉ、あ?」

 「そう。おはよう」

 「ぉあぉ、うぁ…」

 「ダメか…」

 1文字ずつ丁寧に発音しても、青が発するのは謎の声だけ。

 喋る度に見慣れない牙が青の口内でちらり、と輝く。これくらいしか、私には彼を恐竜と判断できるものは無い。

 「じゃあ、今日の健康診断ね。立って。」

 彼ら被験体に課せられた仕事は、毎朝の健康診断と、我々の研究に協力すること。

 それなのに、青はいつも部屋で暇そうにしている。理由は簡単、彼はいわゆるストックだからだ。

 研究所で行われる人類のためになるだとかなんとかの研究はなかなかに厳しいことが多い。いくら彼らが恐竜で頑丈だからと言って、決して‘’不測の事態”が無いとは限らないのも事実。

 偶然機械が連れてきた被験体が2体居たため、青はもう1人の被験体が壊れた時の替えの存在として、日々ここで無聊をかこつ羽目になっている。

 「あと、今日は人が来るから。貴方を描きに来るんですって。綺麗にしないとね。」

 恐らく半分ほどしか理解していないのだろう。髪を梳かれながら、ぼんやり話を聞いて、何となく首を振る。多分、これはただ性格が出ているだけだろう。青は生来マイペース気質なのだ。


 「描き終わったぜ。中々楽しかった」

 「もうですか。早いですね。」

 「今日は1匹じゃねぇみたいだしな。」

 顔見知りの画家の男がもう片方の被験体の檻を出る。彼はここで写真等のデータに残せない機密事項の一切を絵で記録して小金稼ぎをしており、何かと関わる事が多い。今日も案内をするのは私だった。

 「空木ちゃんも成長したな。いつの間にか最重要ナンタカの世話係まで出世しちまってよ。」

 「まさか。どちらかと言えば左遷です。世話係なんて責任だけデカくて何が起こるか予測不可能な面倒事、誰もやりたがらないので。押し付けられました。」

 「組織勤めの人間ってカワイソ。」

 「貴方と違って安定はしていますから、100倍マシです。」

 減らず口は相変わらずのようだ。次からはこの男以外の画家に頼むよう、室長に提案しようと思う。

 普段は檻の中に入って世話をしているからか、ガラスの挟んで見る青はなんだか新鮮だ。まるで額に入れられた絵画のよう。

 「驚いた。こっちは女か?」

 「被験体青はれっきとした男です。貴方、顔から上しか見てないでしょう。」

 「バレちった〜」

 「…こちらも終わったら呼んでください。」

 本当にこいつに任せてはいけない気がする。

部屋を出て、残っている作業を終わらせようとデスクに向かった。

 ふと、机上に散らばった紙束の中から被験体青の資料が目に付く。

 被験体2番 通称青。運用は主に被験体緑が機能を果たせなくなった時の代理。

 青の資料はよく言えば機能的、正直に言うとまるで既製品の裏に着いている成分表示のような無機質さ。

 被験体とは言え、私達と同じように思考して、意思の疎通が図れる相手をこのように扱っているのは、とてもじゃないが気分が良いとは言えない。

きっとこういうところが研究者向いてないって言われる要因なんだろうな。

 空木渚は一般的な研究員である。特に目立った成果をあげることもなく、ミスも犯さず、下っ端という程ではなくとも面倒事を押し付けられる程度の立場の人間である。

 何か、こんな私に出来ることは無いだろうか。青に、何かしてやれることは。


 翌朝の事だった。私は今日も青の世話をして、特に他の仕事もないので青をじっと観察している。

 青は動かず、喋らず、ぼーっとしているだけなので、見ている分でも速攻で飽きた。

 どうせ誰も見ていないと思い、スマホを操作していつも聞いてる落語を流す。一応片耳にだけイヤホンを付けて、意識をすっかり其方に向けた。

 「…?」

 先程まで壁の一点を見つめていた青が、首を捻ってこちらを見つめる。

 もう片方のイヤホンから微かに漏れ出た音を聞き付けたのだろうか?なんと耳の良いこと。

 「これが気になるの?」

 青は小さく頷いた。使っていない方のイヤホンを付けてやると、耐えず流れ込む知らない人の声に驚いたのかビクッと飛び上がって驚いている。

 それがなんだか面白くて吹き出した私を見ると、青は不服そうに此方を睨み付ける。

 「あはは、ごめん。音量小さくするね。」

 少しすると慣れたのか、すっかり聞き入ってしまった。というか、意味は理解出来ているのだろうか。結構難しい言葉とかも出てくると思うんだけど。

 「意味、わかるの?」

 青は半分肯定、半分否定と言った様子で首を縦に振る。絶対分かってないやつだなあ、これ。

 それでも彼がここまで食い入るようにして、何かに興味を持つのは初めてだ。

 …これは、何かに使えるかもしれない。


 暫くして、研究所で未曾有の大事件が起こった。

 もう1人の被験体、通称緑の脱走である。

 私は青の担当だったから良かったものを、緑の世話を担当していた研究員は首を飛ばされた。何かと話すことも多かったので、少し寂しい。

 それから必然的に、今まで緑に行ってきていた実験は青が引き継ぐ事になった。

 実験の内容は研究員の私も目を逸らしたくなるほどの凄惨なものもあり、世話をしていた青の体に傷が増えていくのを何も出来ずに見るのは辛い。

 今まで緑にそれを強いていたのに、自分が世話をしている青が被害に遭うとなると嫌だなんて虫のいい話だとはわかっている。

 それでも何か、何か無いだろうか。青にこんなことをさせなくても良くなる手立ては。

 常にその事ばかりを考えていた。根を詰めすぎだと室長から貰った休みの日まで、ずっとそれだけを考えて過ごす日々が続く。

 暗い部屋で逃げるように起動したスマートフォンの中に、青白く輝くブルーライトの答えが浮かんだ。

 それは陳腐なSF小説で、『心を持った人間と同じ行動をする機械は人間と呼べるだろうか』といった、100年前から議論され尽くしてきたチープな疑問を問いかけてくる物。

 これだ。直感的に、私は確信した。これは利用できる。

 その日から私は、青に言葉を覚えさせることした。

 彼には十分な知能がある。会話を覚えて、自分の意思を伝えられるようにさえなれば、それはもう人と同じなはず。

 この非人道的な実験を止める為に。

 彼に自由を与えるために。

 被検体なんて言わせてやるものか。

 青が人として、人として認められさえすれば、彼を救えるはずだから。


 「青、お早う。今日の体調は?大丈夫?」

 「うん、だいじょうぶ。」

 「そう、良かった。」

 私はラジオを持って青の檻に入る。青は少しづつ、でも着実に話せるようになって行った。

 落語は聞き取り辛いし内容も難しいかと思い、最近はラジオの再生速度を遅めにして聞かせたり、外国人向けの日本語入門書なんかを買ってきたりして学ばせている。

 青の成長速度には目を見張るものがあった。単語の羅列から始まって、今は簡単な文章なら会話を交わせるようになっている。

 「ねえ青、今言ってたラジオの内容分かる?」

 「えーっと、どっかの県の…なんか果物が旬で…食べ頃?」

 「ほとんど正解。青は凄いね、思ってたよりずっと。」

 えへへ、と褒められて擽ったげに頬を染める青を見ていると、本当に人間と会話をしているようにしか思えない。

 まだあどけなさの残る顔。そして、服の下に有るであろう痛々しい実験の跡を想像する度、私の決意は強く、確かな物になって行った。

 「ねえ、渚。」

 「なあに?」

 「僕の名前は無いの?」

 一瞬、私は押し黙る。浅く息を吸って、細い声で答えた。

 「青、っていつも呼んでるじゃない。」

 「そんなの適当に髪色で呼んでるだけじゃん。そしたら渚は茶だよ。

 苗字とかさ。僕にはないの?」

 全身から血の気が引く。

 ごめんなさい。貴方を呼んでいた、被験体青なんてものを、名前だと認識していて。

 「そうね…何か、好きな物は無いの?」

 「んー、落語とかは、好き」

 意外な答えだった。古典落語なんかは私でも理解が厳しい物も多いのに。

 名前…落語から名前?寿限無とか、松竹梅とか?

 そういえば、昔一度だけ東京の寄席に行った時、ナントカ亭ナントカって落語家が話をしていた気がする。なんだっけ…

 「…東亭空海!」

 「え、なに?」

 「あっ、ごめんなさい、声に出てた?」

 「その変なのが、僕の名前なの?」

 「いやいやいやっ、流石に…」

 いくらなんでも落語家の名前をそのまま付けるのはおかしい…無いネーミングセンスを捻り出すのよ、私…!!!

 「あー…東田、蒼とかどう?」

 「あお、って今までと何が違うの?」

 「漢字が違うの。蒼なら人名でも可笑しくないわ。」

 「ふぅん、蒼…呼ばれる分にはわかんないけど、ちょっと嬉しい」

 蒼は表情筋をピクリとも動かさず、真顔のまま嬉しいなどとのたまう。

 「無理にへつらわなくても良いわ。私だって、自分のネーミングの無さには我ながらちょっとアレだな〜とは思うし…」

 「何で?僕嬉しいって言ったんだけど」

 「いや、だってめちゃくちゃ真顔じゃない」

 蒼は自分の頬を手で鷲掴みにすると、むにむにと顔を弄る。

 「…真顔じゃ、なくなった?」

 パッと手を離すも、顔はさっきと全く変わっていない。表情の読み取れない、寝起きのようなぼんやりとした真顔のままだ。

 「っぷ、あはは!そんな表情の変え方、聞いた事ない!」

 私はそのまま倒れ込みそうなほど声を上げて笑った。蒼は何がおかしかったんだと心配そうに私の周りをぐるぐる回る。

 それがまたおかしくて、私は大笑いした。

 「何、僕なんか変なこと言った!?」

 「言っては、無いけど…っははは、無理、本当に面白い…」

 「もー、ちゃんと言われなきゃわかんないんだけど!」

 「ははっ、ごめんなさい、ふふ…」

 「渚、めんどくさい。」

 最終的に蒼はぷいっとそっぽを向いてしまった。ご機嫌斜めになってしまったらしい。

 「ごめんね、蒼。ただ…ふふっ、笑顔って手で作るものじゃないのよ。」

 「あっそう。知らない。」

 「もう、ごめんってば…」


 陽炎が街角の街灯を揺らめかせる夏が来た。

 蒼に行われる実験は日々を重ねる毎にエスカレートしている、気がする。

 白いベッドで眠ったまま何日も過ごす様になった。

 最近、彼の声を聞けていない。私は誰も居ない、静かなガラスの檻を掃除するのが酷く寂しくて、心細くて、イヤホンから流れる落語の音量は日々大きくなるばかりである。

 絶えず人の声が流れる落語は寂しさを紛らわせるのに最適だ。

 明るくおどける落語家に、高く澄んだ拍子木の音。観客の笑い声もあれば尚良しだ。

 ふと、前に蒼に好きな物は無いかと聞いた時、落語が好きと答えたのは、彼もこの静寂で満たされた部屋が少し怖かったのかもしれない、なんて。

 いきなり知らない時代の意味のわからない場所に連れてこられて、皆知らぬ人に建物や言葉ばかり。

 そう考えると、私もこんな状況に立たされれば狂ってしまうかもな。そんなことが漠然と脳裏を支配する。

 誰も居ない檻の掃除はびっくりするほど早く終わって、私はその足で彼の居る研究室へと向かった。

 部屋には蒼以外、誰も居ない。

 閑静な部屋で死んだように眠る蒼は白雪姫のようだった。

 雪のような白皙の肌、海と空を混ぜ合わせたような、地平線のように真っ直ぐで豊かな髪。

 「蒼、ねえ蒼。あなたと私、何が違うのかしら。」

 あなたとあなたの腹を切り裂いた人間は、何が違うのかしら。

 あなたの生きた時代と私が生きる時代の夕焼けは何が違うのかしら。

 海と空は、何が違うのかしら。

 「…僕にはよく分かんないけど、多分そんなに違わないと思うよ。」

 「っあなた、起きてるんなら言ってよ!!」

 「確認も取らずに勝手に話しかけて来たのは渚でしょ。」

 図星な分、何も言い返せない。

 「昔の人だって、奉公人?と主様ってのでまるで違う生き物だったんでしょ。同じ人間なのに。

 だから、僕と渚もそんなに変わんないんじゃない?生まれが元から人だったか、恐竜から人になったかってだけで。」

 多分、蒼の言ってることは間違っている。ただ、蒼がいかにも大事なことのように真顔で喋るから、彼が本気でそう言っているように感じるだけで。

 きっと彼は喜劇を演じているのだ。冗談を言って、笑わせようとしてくれているんだ。

 でも何故、あの蒼がそんなことをしているんだろう。

 「…これだけ話せば満足でしょ、だから泣くのやめてよ。」

 蒼の白くて細い、私より少し冷たい手が瞼にそっと触れた。

 えっ、と間抜けな声が漏れる。

 まさか、泣いているのに気付かないなんて一昔前の少女漫画でしか見ない演出を自分がすることになるなんて。

 「渚が泣いてるとこ、初めて見た」

 「私だって、蒼が他人の涙を拭うなんて優しい行動してるのを見たのは初めてだけど。」

 「だって、人が泣いてるところ見るの初めてだもん。」

 その無に近い対人経験で女性の涙を拭うなんて行動が取れたあたり、間違い無く蒼には女誑しの才能があるのだろう。

 「…蒼、10年後、あなたは何をしてると思う?」

 我ながら馬鹿馬鹿しい質問をした。きっとこう答えるだろう、なんて仮説を立てる気力すら、今の私には無い。

 「うーん、そうだな…

海に行ってると思う。」

 「何で?」

 「行ったことないから。」

 小学生の動機かと思った。それくらい、しょうもなくて、馬鹿みたいで、馬鹿みたいな問いにはお似合いの答えだと思った。

 「じゃあ、海に行ったら?」

 「次は…飛行機のパイロットとか目指そうかな。」

 「そりゃまた突飛ね。それは何で?」

 「空にも行ったこと無いから。」

 本当に馬鹿なひと。呆れるほどのロマンチストだ。

 それでも、それでも。

 「私もついてっていい?」

 「良いよ。渚頭良いし、搭乗員でも目指してさ。」

 またには空想で、夢物語を語り合いたい。太古の時代から、人類は夢を見る生き物だったのだから。


 浪漫は浪漫だ。現実は、現実だ。

 室長が私を呼ぶ声で、暖かい夢の中から現実へ引き摺り戻されるような感覚に支配された。


 いつの間にか、微睡んでいたらしい。

 さっきまでベッドのサイドチェストあたりにいた渚が居ない。

 寝起きの頭にがんがん響く、誰かの怒鳴り声。何かを言い争っているようだ。

 蒼がゆっくり上半身をあげると、窓から入り込んでくる夕日が目に眩しかった。もう太陽は随分と東に傾いている。

 カツカツと革靴の上品な足音が静かな部屋に響いた。音のする方に顔を向けると、質のいいスーツを着て妙に科を作った松浦室長が蒼に笑顔を向ける。

 「被験体青。貴方は脱走したどこかの失敗作に比べ、酷くお利口でしたね。ですから、今からする話もお利口に聞いてください。」

 「…何」

 「お前たち被験体にしか出来ない研究がある。今回も、君に協力を仰ぎたい。」

 …この男はいつもそうだ。拒否権は無いくせに、まるでこちらが協力に肯定的なように誘導して来る。

 「嫌、って言ったら怒る?」

 「今は怒りません。この後もう1人の被験体を連れて来るという仕事があるので。」

 今は、ということは、その仕事が終わり次第どんな手段を使ってでも協力させるのだろう。

 遂にこの時がやって来たか。10年後の、未来の話をしたばかりなのも相まって、なんだか少し寂しい。

 でも、仕方が無いんだ。最初から僕たちは、この為に連れてこられた存在だし。

 蒼が首を縦に傾けようとした砌、狭い研究を叩き割るような怒声が響き渡った。

 「蒼!!!!!そんな奴の言うことなんか聞かなくていい!!!!!!」

 別の研究員に羽交い締めにされている、渚の姿がそこにはあった。

 きっちり結ばれた髪は無造作に入り乱れ、白衣は半分脱げている。

 羽交い締めにしているはずが最早渚に引き摺られているような体制の、後ろの気弱そうな研究員が呪詛のように「やめてください、もうあきらめてください」と吐き続けていた。

 「お前がこんな研究に協力する道理は無いだろ!?!?アンタだって奴みたいに逃げてやればいい!!!!あたしだって手伝ってやる!!!!!!だから早くこっち来い!!!!!!」

 正に半狂乱。地獄絵巻に描かれていても違和感の無い形相だった。

 「はぁ…貴方には心底呆れ果てますね、空木さん。」

 男は舌打ちをして、時計を見る。

 「…きっとあの男もこうなるでしょう。予定変更だな。交渉は被験体緑のみに接触する方が安全だ。」

 狂った様に叫ぶ女と、それを引き止める研究員。そこに冷静な男が加わると、正に混沌の極みと言ったところで、蒼は暫く黙り込んで口を開けなかった。

 人生経験というものが皆無の蒼には修羅場を切り抜けるだけの力はなかったのだろう。

 「はぁ…おい、お前。空木を黙らせろ。」

 「室長!!何の権限があってそん、な゛っっ!?」

 「っ渚!!!」

 後ろで渚をほぼ意味の無い拘束をしていた研究員が何かを渚に押し当てると、一際甲高い悲鳴を上げて渚がくったり倒れ込んだ。

 辛うじて意識はあるらしいものの、身体を地面に放り投げて瞳だけが未だ男を無窮の厭悪を込めて睨み付けている。

 「渚っ、だいじょ「おや、行かせるとでも?」

ベッドから飛び起きた蒼の細腕を固く掴んだ。

 「被験体青。貴方がこちらに来るのなら、彼女の命は保証します。どうです?素晴らしい取引だ。」

 抗議を叫びかけた蒼の口が、小さく息を吐いて、声を上げることなくゆっくりと閉じる。

 「ぁお、駄目、逃げ…」

 喉を上手く使えないのだろうか。渚はひしゃげた声で、尚も蒼に逃げろと伝えている。

 蒼は辛そうに渚を一瞥すると、男と視線を交わさせる。

 「…嘘は、無いんだな」

 「勿論。研究者は嘘をつきません。」

 男は蒼を掴んでいた手を離すと、反対の手を差し伸べる。

 蒼の顔に、迷いの色は無かった。後悔も、恨みも、何も。

 「…ごめん、約束破って。」

 渚の絶望する顔が視界を埋め尽くすようだった。

蒼は、男の手を取った。

 「畜生が、まるで人のような行動をするのですね。妙に癇に障る。次からは別に敬語もやめにしましょうか。」

 男は柔和な笑みを浮かべて、晴れやかな顔をしている。

 「まあ、我々とて鬼ではありません。最後に空木さんへ一言くらいなら言葉を遺してやることを許しましょう。」

 地面に這い蹲った渚を横目に見やると、男はそう言った。蒼にとって、最初から最後まで、奴らに管理されていたのだ。

 大切な人に言葉を遺すことすら奴らに許されて行うことである。

 それでも、蒼に残っているのは、怨恨でも悔しさでも無く、感謝だった。

 最後の最期で、蒼は自信を持って言えた。海を見ることが無くても、空の下で駆ける事が無くても、彼女と出会えたことが、幸せであったと。


 「渚、有難う。僕に言葉を教えてくれて。」

 嗚呼、この雲のような心情は、きっと口で言い表すのは、難しい。

 「笑顔って、こうやってするんだね。」

 言葉も、笑顔の作り方も、君から教わったんだ。いつか、この感情を言葉で言い表せるようになったら、会いに行くよ。



 陰気な研究室では、研究員達の困惑の声が飛び交っていた。

 そこでは恐竜の解剖が行われていたのだが、どうも被験体達の身体がおかしいらしい。

 翡翠の恐竜の体内からは、血液の代わりに色とりどりの絵の具が溢れて流れ出たらしい。

 蒼海の恐竜の体内では、臓腑が文字の形に変形していたらしい。

 困惑の声たちの中のどいつかは知らないが、何処かで誰かが呟いた。

 「彼らはすっかり彩られてしまったんだ。人間の手によって。」


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何卒初心者の不定期な投稿ではありますが、誰かに少しでも良いなと思って頂けたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
2つの物語が繋がっているところが読んでいて本当に面白かったです。情景描写が細かくて想像しやすく、物語に入り込めました。2匹に感情が芽生えていく様子が愛おしかったです。また、画家である浅葱だからこそでき…
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