第11話 次兄はお呼びじゃない
紆余曲折はあったが、ようやく船を視察する日に、俺にとっては船の湯船に入いる日がやってきた。
王城を出るのは初めてではないが、自分一人での外出はこれが初だ。まぁジーンとかルイとかケールとかもいるが。あと、護衛の近衛士が6人も。
4人乗りの馬車には俺とジーン、ルイが乗り、ケールが御者台に。周りを騎乗した近衛士が囲む。
城の正門を出てすぐ、広い道がまっすぐに海へと延びている。ものの5分もしないうちに潮の香りがする港に出た。
馬車が着いたのは王家所有の赤いレンガ積みの倉庫。父が手を回して漁師ギルドからこっちに船を移したそうだ。
倉庫の前には管理責任者らしいおじさんと漁師ギルド長のバッカイが待っていた。
挨拶もそこそこに倉庫内へと案内してもらう。
倉庫の大きさは、前世で通っていた学校の体育館を半分にした感じの、幅が狭く奥行きが長い作りで、高い天井に明り取りの高窓がある程度で本来は薄暗いのだろうが、今は海側の大きな扉が開け放たれているおかげで十分な明るさがあった。
「こちらが漁師ギルドからの献上船でございます」
倉庫に響くバッカイの声に、扉近くに木で組んだ台の上に鎮座している木造の小さな船を見やる。長さ3mくらい、幅は1mくらい。船首は鋭角で船尾がフラットな、公園の池にある手漕ぎボートみたいな船だ。
「献上船にしては小さいな」
近衛士の誰かが余計なことを言った。ほら、バッカイが大きな体を小さく縮こまらせて困ってるじゃないか。
「ちょうどいい大きさだ。ありがとう、バッカイ」
近衛士はスルーして、バッカイに礼を言う。
そして、さらに恐縮して小さくなっているギンバルに相対して姿勢を正した。
「バッカイ、先に謝っておく」
「はい? 何をでございましょう?」
「今から僕がすることは、船に対する冒涜かもしれない。漁師のお前は腹立たしく思うことだろう。だが、黙って見ていて欲しい」
口調は偉そうで頭も下げないが、心では深々と頭を下げた。
対するバッカイは不思議そうな顔で聞いていたが、すぐにいい笑顔になる。
「これは殿下の船です。殿下の思うとおりに使っていただいて何の不満がありましょうか。どうぞご自由になさってください」
うん。やはり海の男は気風がいい。
俺はもう一度礼を言って、船の横手に歩を進めた。
まじまじと船を見る。
いや、実際に見ると思ってたよりも大きいな。これいっぱいにお湯を満たすとなるとたいへんだぞ。
でもやるしかない。
俺はおもむろに両手を船の上にかざして意識を集中した。
「給湯!」
途端に両の手のひらから出たお湯が船の中へどばどばと注がれていく。
「殿下はいったい何をなさっているのだ?」
「バーデン様、いつのまにお湯を出せるようになられたのですか?」
「お、おい、これいつまでお湯が出るんだ?」
なんか周りが騒がしいが、外野は無視して魔法に集中だ。
湯気ではっきり見えなくなったが、もう半分以上は入っているだろう。特に魔力が枯渇する様子も無いし、まだまだいける。
やがて、もうすぐで満杯になるという寸前で急に意識が遠のいて……などと言うこともなく、無事船の中はお湯で満たされた。ちょっとはぁはぁと肩で息をして全身汗まみれになってはいるが、これから風呂に入るためのプロローグだと思えばなんともないぜはぁはぁ。
チラリとバッカイを見やると、まるで未知の動物にでも出会ったかのように目をまんまるにして呆けている。すまんな。船をこんなことに使って。
「バーデン様、かなりお疲れのようですが、大丈夫ですか?」
「お湯を、しかもこんなに大量に出されたんだ。当然だろ」
ルイとケールが心配して近づいてくる。
「ちょうどいい。服を脱がせてくれ」
なんかもう体がだるくて自分で脱ぐのも億劫になってる。
言われた二人も一瞬戸惑っていたが、前に樽に入ったことを覚えていたのか、すぐに了解して脱がせてくれた。
さぁ、いよいよ念願の入浴だ。
「殿下、いきますよ」
急に背後からケールの声がしてグイっと持ち上げられた。そして、船縁を越える。
「いや、待て! かけ湯、かけ湯をしないと!」
汗まみれのまま湯船に入るとかマナー違反だろ。
結局、じたばた抵抗虚しく、俺はケールの手によって湯船に入れられた。
深さは思ったほどなく、底に足がついた状態でも水面は膝上までしかない。座っても肩が出てしまう。その分長さがあるからちょっと体を伸ばす感じで入ればいいだろう。
両手を縁にかけて船首部分の傾斜に背を預け、船尾に向けて足を伸ばし、しっかり肩まで湯に浸かった。
「あ゙あ゙あ゙ぁ~」
これだ。これこそが風呂だ!
ついに俺は風呂に入った!
目を瞑り、体全体で至福の時間を堪能しようとしたその時、ざわりと護衛の近衛士たちが身構えるのを感じた。
「!?」
頭だけ動かして見やると、身構えていた近衛士たちが次々と姿勢を正して礼を執っていた。その間を通って、仕立てのよさそうな平民の服を着た子供が歩いてくる。
「よう、バーデン!」
「……ボーデン兄上」
平民の恰好をした次兄だった。同じように平民の服を着た従者を2人連れている。
なんでボーデンがここに?
唐突な兄の登場への驚きと至福の時間を邪魔されたことへのいら立ちのせいで、思考も体もフリーズしてしまった。
そんな俺をボーデンはへらへらして見下ろしている。
「お前がなんか変わったことを企んでたみたいなんでな。黙って様子を見てたんだよ。そしたら案の定これだ」
「い、いいの? その恰好、勝手に城から出てきたんじゃない?」
ようやく動いた口で指摘してやる。どう見てもお忍びだろ、その恰好は。
「は? ばっかお前、俺はもう10歳だぞ。城を抜け出すとか余裕だ」
偉そうに言ってるが、近衛士にしっかり見られてるし、絶対後で怒られるぞ。
従者たちも疲れた顔をしてる。きっと苦労してるんだろうな。わかるなぁ。上司の無茶振りに付き合わされる部下の気持ち。
ちょっと前世を思い出して遠い目をしていると、ボーデンが更に近寄ってきた。
「船の中に湯を入れて裸で入ってるとか意味わかんねぇ。よし、俺も入るぞ」
は? わからないのはお前の思考の方だよ。なんで入ってくるんだよ。
怪訝に思っているうちに、ボーデンは服を脱がせてもらっていた。そして素っ裸になると、躊躇いも無く湯船に入って俺と向かい合うようにしゃがみ込む。
ザバァっと溢れるお湯。
が、お湯から肩を出したままのボーデンが何やら神妙な顔で沈黙している。やはりこの世界の人には理解できない類のことだったか。
「……俺が入ると湯が溢れた。これには何か重大な意味がある気がする」
「あー、はいはい。今はそういうのいいから」
まったく。ボーデンのくせに余計なことに気づかなくていいから。
ボーデンはそれ以上深く探求することなく入浴に集中したようで、俺と同じように湯船に体を沈めた。
「あ゙あ゙あ゙ぁ~」
途端に漏れる至福の声。
「おい、何だこれ。無性に気持ちいいぞ。このほどよく体全体に感じる圧も、じんわりと温まる感じも最高だな!」
そうして満足そうに体を伸ばして目を瞑った。どうやらかなり気に入ったらしい。
この世界で初めて風呂を理解してくれる人が現れたのは嬉しいが、それがボーデンなのが釈然としない。
俺は複雑な気持ちのまま兄と二人で風呂を堪能したのだった。
だが、この次兄を手始めに風呂を楽しむ人が次々に増え、やがて入浴ブームがこの世界を席巻することになるとは、この時の俺は知る由もなかった……。
と、いい感じの自己ナレーションで締めようとしていた時、バッカイがこんなことを言い放った。
「いやはや、湯の中に入るとは、殿下たちは熱海の浦の岩亀様のようですなぁ」
なぬ? 岩亀とな?