2・カフェおいてけぼり
「はぁっはぁっ」
外に逃げ出した俺は大の字で仰向けに倒れた。
もう少しで死ぬところだった。
呼吸を整える。見上げる空は夕焼け色だった。
落ち着きを取り戻し、周囲を歩いてみたが、他には誰もいない。
建物らしい建物もなく、雑草だらけだ。
どうやら俺は山の中にいるらしい。
しばらく歩いていると、見晴らしの良いところを見つけた。
空は暗くなり、眼下を見渡すと街の灯りがキラキラ光っている。
俺がいる場所は、そんなに高い場所でもなさそうだ。
ぎゅるるーとお腹が鳴り、手で押さえる。
(お腹減った…。)
自分の空腹にやっと気がついた。
麓を降りて誰もいない車道を歩き続けると、ポツポツと民家やレストランが目に入った。
車が何台か通り過ぎたが、攻撃されたりすることはなかった。
歩いていて気づいたことだが、物の名前やここが日本であること、日本語の記憶はあるみたいだ。
初めて来たような気がしない。
でも自分のことはすっぽり頭から抜けていて、何も思い出せない。
「にゃあ」
一匹の野良猫が俺に擦り寄ってきた。
しゃがんで頭を撫でようとすると、足で首元をぼりぼり掻きだした。
よく見ると顔中に黒い斑点がある。
「痒いの?」
猫は頭をぶるっと震わせた後「にゃあ」と鳴いた。
『痒いし、痛いところもあるの。』
声が聞こえたわけではないが、そんな内容のテレパシーが俺の脳内に届いた。
「どの辺が痛いの?」
猫は目を丸くしてビクッと首を引っ込めてからじっと俺の方を見つめた。
俺がそっと頭を撫でると、猫は気持ちよさそうに目を閉じた。
『頭、きもちいい。』
しばらく頭を撫でた後、優しく顎をなでた。
「早く治るといいな。これ。」
するとジュッと音がして、顎にあった大きな黒斑点がなくなった。
「おわっ!」
猫はびっくりして走り去ってしまった。
消えた。確かに消えていた。
自分の手のひらをまじまじと見つめる。
今のはなんだ?
「え?!!」
女性の声が聞こえて、左に振り向くとバッチリ目が合ってしまった。
カフェの窓越しから箒を持ったまま俺を見つめている。
その人は、黒のポロシャツにベージュのエプロンを着ている40代くらいの女性だった。
「あ、大きな声出しちゃってごめんなさいね!あなた、服がぼろぼろだけど大丈夫?ウェットスーツじゃ寒くない?」
そういえば、俺はウェットスーツみたいな変な格好をしていた。
「あぁ…今これしか持ってないんです。」
「え?おうちは?」
「えっと…壊れちゃいました」
「壊れた?まぁいいや。うち、月一で誰でも食堂っていうのをやってて、今日は無料で食事を提供する日だから食べていかない?寄付してもらった服もあるし。」
「え…いいんですか。」
「もちろん!まだ開店前で人いないし、服、選び放題よ!」
女性は窓枠に身を乗り出してにこっと微笑んだ。
「じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔します。」
「そっちの入り口から入ってね」
女性に指差されたドアの方に行くと『おいてけぼり』という木でできた手作り感満載の看板があった。
扉を開けると、チリンチリンと心地良い呼び鈴が鳴った。
カウンターへ案内され、椅子に座ると、女性はグラスに水を入れて出してくれた。
「私、ここのカフェの店長をしているみほっていいます。よろしくね。」
みほは食事をお皿に移しながら、自分のことやこのカフェのことを教えてくれた。
名前は本山みほ。昔はカウンセラーをしていたが、今はこのカフェを営んでいる。
誰でも食堂は、低所得者やホームレスの人たちのために、ボランティアとして月1回行っているそうだ。
「おまちどうさま!」
テーブルにポタージュスープとオムライスが並んだ。
オムライスは卵がとろとろでトマトソースがかけられている。
ポタージュスープを一口飲むと、コーンの甘味が口一杯に広がった。
「すごくおいしいです。」
「それは良かった!」
みほは俺が食事を終えるまで何も話しかけてこなかった。
食事を終え、水を一口飲むと口を開いた。
「唐突に聞くけど、さっきのって魔法?」
「え?」
「手のひらから青色の光が見えたと思ったら大きな斑点が消えたからどうやったのかなって。」
「俺はただ、あの猫が痒くて辛いって言ってたから、早く痒いのが治りますようにって思いながら、撫でてただけです」
そう…だよな。うん、そうだ。
ただそう願いながら撫でていただけだ。
「え、猫のことばも分かるの?!そんなの普通じゃないよ!!」
みほはカウンター越しに身を乗り出して聞いてきた。
「人間はできないんですか」
「えっ?」
あ、普通に聞いてしまった。
「あ、すみません。実は俺……」
俺はみほに自分のことや自分が他の星から来たこと、過去の記憶をなくしていて、手がかりを探していることを話した。
悪い人じゃなさそうだし、誰かに話を聞いてほしかった。
「そうかぁ…。訳ありってことね。」
こんな話、信じてくれるか半信半疑だったが、どうやらさっきの魔法みたいな現象を見て信じてくれているようだ。
「まぁ…はい。」
「市役所とか交番で相談してみたら?」
「交番?」
「あっ、でもやめておいた方がいいのかな。人体実験とかされちゃうかしら?」
「それはちょっと嫌ですね…。」
「だよねぇ〜。」
人体実験って…なんて人間は恐ろしいんだと思ったけど、冷静に考えてみたらされてもおかしくないか。
みほは人差し指で自分の顎をぐーと押さえながら、何か考え込んでいるようだ。
「じゃあ、ひとまずここで働いてみる?」
「えっ?」
「上の階がうちんちなんだけど、ちょうど娘が出ていって空いてる部屋があるし、住むところもないんでしょ?
私もカフェの人手が足りなくて募集をかけようと思っていたところなの。うん。グッドタイミング!」
みほは興奮したようにパチンと両手を合わせた。
「それはありがたい話ですけど、いいんですか?こんな素性がよく分からないような僕を雇ったりして。」
「きみ、猫ちゃん助けてあげてたし、悪い人じゃなさそうだからね。こういう時は助け合いよ!」
「じゃあルシア君は私の親戚ってことで!苗字も考えなきゃいけないわね。」
「あ、はい…。」
「うーん。あのさ、私がもし男の子を産んだらつけたいと思ってた名前があるんだけど、律って名前にしてもいい?
篠宮律。響き、かっこよくない?!」
「はぁ…別に何でもいいですけど。」
「じゃあ決まり!これからよろしくね。篠宮律くん」
みほが手を差し伸べてきたので、促されるまま握手をした。
「よろしくお願いします。」
こうして、俺はおいてけぼりカフェ店員、篠宮律として生きることになった。