第7話① 翼は、今開く
「親に虐待されていて、助けて欲しいんです!」
司の対面に座っている男は、机から身を乗り出さんとする勢いで、必死の形相で訴えかけてきた。
その目は一直線に司の瞳を捉えて、離さない。
昨日、
『親からの虐待に苦しんでいます。
助けてください。
櫻井 学
080-××××-××××』
と言う内容の依頼文に興味を惹かれ、話だけでも聞いてみようと思った司は、その番号に電話をかけた。
だが、電話に出た人物の声は、どう考えても子供にしては低く、明らかに成人男性だった。
司は、番号をかけ間違えたのだと思いもう一度架電したが、応答したのは同じ声だった。
男の口からは、「虐待」「束縛」など物騒な言葉が、勢いよく引っ張り出したトイレットペーパーのように、怒涛の勢いで飛び出し続けた。
結局、「話だけでも!」と言われた司は折れ、現在に至る。
「で?お前年はいくつだ?」
司は眉間に皺を寄せて尋ねる。
「あ、25です。」
この返答に、司は顔の前で拝むように手を合わせて眼を閉じると、どう声を掛ければ良いのやらと、細く音を立てて息を吸った。
「んー…
いいことを教えてやろう。
この国ではな?18になったら、一人暮らしができて、車にも乗れて、何にでもなれるんだ。
本当にいい国だ。
だから、なんだ…
…自立しろ。」
最後にはキッパリと、目と目を合わせて言ってやった。
これに対しても、櫻井の勢いは止まらない。
「そんなぁ!電話でも散々事情を説明したのに!そんなに冷たいこと言わないで下さいよ!」
「あぁ、あの電話な。
お前があんまり早口だから、ほとんど何言ってるかわからなかったよ。
途中から、聞く気もなかったしな。」
「ひどい!
…じゃあ、最初から、落ち着いて説明させてください。
話は聞いてくれるから、来てくださったんですよね?」
確かに、話だけでも、と言う約束だった。
話だけは、聞いてやろう。
「わかった。言ってみろ。」
司は不機嫌さ丸出しの表情を曝け出すと、顎で指示した。
それを受けた櫻井は話し始める。
「自分は、小さい頃から両親から厳しい教育を受けてきて、今でもそれが続いてるんです。
両親は2人とも医者で、自分の夢の事も全部無視して『お前も医者になれ』としか言わないんです。
小学生の時から塾に入れられて勉強漬け。
友達と遊んだことなんて、片手で数えられるくらいです。
でも、T大学の医学部って、やっぱり難しくて、何浪目かも忘れましたけど、落ち続けてるんです。
その度に叱責の嵐で、今も勉強を強制されています。
だから、僕を自由にして欲しいんです。」
聞けば聞くほど耳が痛い。
呆れてしまった司は、コーヒーを片手に言う。
「んーそうだな。
お前ももう大人なんだ、お父さんにこう言ってやれ、『俺はこの家をでる!』ってな。
それで全部解決。お前は晴れて自由の身だ。」
グラスの氷が、カランッと音を鳴らす。
「出来ないんです…」
櫻井は呟くようにして言う。
「そりゃなんで」
櫻井は机の一点を凝視して、重い口を開いた。
「これが情けないことって言うのは、自分でもよくわかってるんです。
でも、怖いんです。親に逆らうのが。
自分は小さい頃から言いなりで、特に父に対しては、絶対に逆らえないんです。
もう、小さい頃から植え付けられたもので、この歳になっても、言いなりにならざるを得ないんです。」
「…だから、どうかお願いします。
受けていただかなくても結構です。
調査するのも得意だとお聞きしました。
調べていただければ、それだけで100万払います。」
それまで捨てられた子犬のような顔をしていた櫻井が、突如として、凛々しい顔を見せる。
『親からの歪んだ教育』
司にも思うところがあった。
小学校を卒業すると共に、昼休みに一緒に遊んだり、遠足に行った友達と切り離され、ただ人を呪って殺すことだけを教わった。
このままでは、一家のために生きて、コマのように使われ、ただ死んでいく…
そんな未来に不満と怒りを覚えた司は、それを、自身で変える選択をした。
だからこそ、この男のように、自分の人生に対して人任せな考え方が気に入らなかった。
だが、幼年からの教育や環境が、その人間の人格を大きく左右すると言うことは、司も重々承知していた。
この男は人任せのように見えるが、それ以外に手段を見つけることができなかった、とても不運な存在なのではないか。
現状を変えたいと願い、その手段として自分を頼りにしてきている。
–そして現在、司は金欠だった。
調べるだけで100万円…
この案件は、おそらく殺しまではいかないだろう。
司は、櫻井に対する憤りと同情と少しの欲望を持って、調査の依頼だけを引き受けた。
「分かった。調べるだけ調べてやろう。
だが、仕事を受けるかは俺次第だぞ。」
そう言われた櫻井は、「よろしくお願いします!」と机に額を叩きつける勢いで頭を下げた。
〜〜
【今回は楽な仕事だね。
なんせ俺が調べるんだからな】
猫童が嫌味たっぷりに言う。
「いつも通り俺も調べる。
まあ、お前の方が働くことになるがね。」
【あーゆー奴を見ると、お前の選択はすげえな、ってなるよ。
自分の人生は自分で決めるものだからな】
「お褒めに預かり光栄だよ。
とりあえず、家の中に張り込め。」
【いつも通りな、分かってるよ】
1人と1匹は雑な仕事の打ち合わせを終えると、各自行動を開始した。
〜〜
『豪邸』
その言葉がよく似合う、実に立派な住宅だった。
まず、敷地が桁外れに大きい。
黒い鉄柵で囲われたその敷地では柔らかな芝生が風に身を任せ、美しい毛並みの大型犬が伸び伸びと走り回っている。
ガレージに停められている高級車は、日光を反射して、その煌びやかさを誇張して見せつけてくる。
そして、2階建ての住宅は、3人暮らしでどう使い切るのか疑問に思うほど圧巻な佇まいだった。
「さすがお医者様だな。
人の命を救ってるだけのことはある。」
【俺から言わせれば、見栄っ張りだけどな。
でかけりゃいいってもんじゃねえ】
「嫉妬か?」
【そうだよ
今の部屋は狭すぎる】
「バカ言ってないで、配置につけ。」
【あいよ】
猫童は敷地の中へ、司は路上で仕事を開始した。
【ほおーでけえなぁ。
お、使用人がいるぞ。】
中へ入って行った猫童から早速情報が飛び込んでくる。
【お客さん見ーけっ】
そう言うと猫童は視界を共有する。
そこには、まるで中学生のように机に向かい、参考書の問題を必死に解いている、櫻井の姿があった。
机には数えきれないほどの参考書とノート、色様々なペンが乱雑に散らばっている。
その顔に正気はなく、まるで虚無だった。
どうやら現在、両親は仕事に出ているらしい。
最も驚いたことは、天井の角に、監視カメラが取り付けられていることだ。
それは、机に向かう櫻井に対して、一切の間隙なく無機質な視線を向けている。
【自分の部屋にしては窮屈すぎるぜ】
その広さはホテルの一室程あるが、1日中監視されているとなれば、気も休まらないだろう。
結局その日は、トイレと簡単な食事以外は、頭を掻きむしりながら参考書を睨みつけるだけだった。
その日の夜8時ごろ、櫻井の父親が帰宅した。
父親は帰るなり櫻井の部屋を訪れると、
「午前中どこに行ってたんだ!勝手なことをするな!
勉強は進んでるんだろうなぁ!」
と叱りつけた。
やはり中学生のようだ。
「コ、コンビニに買い物に行っただけだよ。
ペンを買いに…」
「ペンなんて、家を探せばいくらでもあるだろ!
いいか?俺はお前の将来を思って、勉強させてるんだ!
医者になれば将来安泰。幸せな家庭を築いて、何不自由ない生活を送れるんだ!
辛いのは今だけだ!お前ば勉強のことだけを考えろ!」
成人した息子にかける言葉とは思えない。
なんとも押し付けがましい教育方針だ。
これに対して櫻井は、「う、うん」と俯くことしかできなかった。
〜〜
【変な親もいるもんだな。
俺だったらグレてるぜ。】
「それすらもできないんだろ」
調査1日目が終了し、アパートへ戻った司はタバコを吸い、猫童は司のベッドでくつろいでいた。
【できないって?】
「そうだ。
小さい頃からのトラウマって言うのは、大人になってもそう簡単に克服できない。
雑草みたいに、他人からすれば些細なことでも、思っているより根っこが頑丈なんだよ。」
櫻井の背中を見ていると、もどかしさを感じる。
『自分の未来を決める権利は、自分だけにある。』
そのことを誰よりも承知している司にとって、櫻井に対しての同情が深くなった。
調査2日目、母親は夜勤明けなのか、午前中に帰宅してきた。
櫻井との会話は無し。強いて言えば、食事中に勉強の進捗を尋ねた程度だ。
何日調査を行なっても、その景色は全く変わらない。
櫻井は一日中自室に篭り、帰ってきた親から叱責を受ける。
その様子を監視カメラが見下ろしており、おそらく、親のスマホから部屋の状態の確認ができるのだろう。
分かったことは、櫻井が両親に対して、絶対服従状態であることだけだ。
両親との会話で、「ん」「うん」「はい」以外の言葉を使っている櫻井を見たことがない。
おそらく、幼い頃から絶対的な教育を受けたことにより、反抗期すらなく、会話することだけでも、恐怖や後ろめたさを感じているのだろう。
両親から、悪気の色が一切見えないことも、タチが悪い。
本心からの叱責。それを無理やりに飲み込まされる櫻井。
正直に言って、見ていられなかった。
いい歳の大人が、いい歳の大人に服従している。
櫻井の行動いかんによっては、すぐにでも変えられるはずの現状だが、櫻井にはそんな選択肢など、全く見えなくなってしまっている。
それがもどかしくて、情けなくて、腹が立った。
だが司は、これは櫻井を責められるものではない、と感じていた。
幼年からの教育方針により、『親に従うことが、自分の身を守ること』だと、櫻井の知らない内なる櫻井が判断して、櫻井自身の思考を制御しているのだ。
それに、司には気になっていたことがあった。
『自分の夢のことも無視して』
その時の櫻井の顔を思い浮かべながら、煙を吹かす。
【とりあえず1週間経ったぜえ。
金だけもらってとんずらか?】
今回の件に関しては、全く興味がないと言った様子で、猫童が尋ねる。
「いや、この仕事、受けてみよう」
この返答には、それまでベッドで横になっていた猫童も目を見開いて、瞬時に起き上がった。
【家庭の事情だろ?
わざわざ首突っ込むのか?】
「まあ、昔の俺と重なるところが、少しあってね。
情が湧いたんだよ。」
肺の煙を一気に天井に向かって吐き出す。
「だから死んでもらおう。
依頼人に。」