【Vol.02】
もうじきランチタイムが終わる。
そろそろ銀行へ帰ろうかと、座っていた公園のベンチを片付ける怜美。
テニスコート何個分にあたるかわからない広い緑地は気分がよくて、うっかり昼寝をしてしまいそうになる。
その時。
何かの声がする。
ベンチのそばの茂みから。
怜美と春奈、顔を見合わせる。
今のは何かな、と。
耳を澄ます。
どこか遠慮がちだった音は、もう聞こえない。
気のせいだったわね、と腰をあげようとする春奈。
怜美はとうに片付けを終え、ベンチから立ちあがって春奈を待っている。
そして。
二度目の、声。
たしかに聞こえる。
猫にしては低い、ドスのきいた声。
怜美と春奈、顔を見合わせる。
ふたり、頷いて。
最初に勇気を出したのは、春奈。
歌うような声で返事する。
「そこにいるのは誰かな。可愛い声が聞こえちゃったぞぉ」
そしてふたりで笑う。
いや返事なんて返ってくるわけないし、さあ帰ろ帰ろ、と。
ふたりの後ろで、茂みをかきわける音。
おどろいて振りかえる。
そこに、猫がいる。
大きな茶トラ。たぶんオス。
だいぶ汚れた野良猫だ。
答えてもらえるとは思わなかったとばかりに喜びに満ちた喉音を鳴らし、手を地面にフミフミし、瞳が春奈をロックオンしている。
春奈、動けない。
まるで雷に打たれたような顔で、猫を見ている。
それを見た猫が、歓喜の声。
飛ぶ。
弾丸のように飛んでくる。
猫に突き飛ばされた春奈がスローモーションのように倒れる。
その膝に野良猫が乗る。
顔をこすりつけて全身で喜びをあらわして、春奈に親愛を訴えている。
春奈は呆けたように、なすがままになっている。
結局、昼休みを二分もオーバーして銀行へ戻った。
書類が一ミリでもズレていたら支店あげての叱責となる業界で、五分前に着席していないとは前代未聞である。
しかも春奈のほうは、妙にスーツが土だらけ。
おまえがついていながら何たることだと、怜美も連帯責任で、支店長室での大説教となっている。
怜美、怒鳴っている支店長にバレないように、小さくため息をついて春奈を横目で見る。
あのあと野良猫は、ひとしきり春奈にマーキングして気が済んだのか。
また来いよ、と言ってるような顔をして、元の茂みへ帰っていった。
完全に恋に落ちてる春奈を残して。
怜美は目が特大のハートになってる人間の実写版を、生まれて初めて見る羽目になった。
放心状態の春奈を引きずって支店に帰ってきたけれど。
銀行への帰り道。
あの子が欲しい、と春奈が泣く。
だがおそらくは公園の生き物。彼には彼の生活がある。もういちど行っても再会できる保証はない。たいていは野生動物との出会いは一期一会で、二度とは会えない。
春奈が泣く。
仕事も何もかも捨てて、あのまま彼と逃避行すればよかった、と。
怜美がなだめてすかす。
仕事が終わったら公園にもう一度行こう。キャリーバッグも用意して。
もしまた会えたら運命だから。その時は保護したらいい。
バッグもなしに猫を保護するのは、猫にとって危険すぎるから止めろ、と。
文字どおり、腕をつかんで力づくで引きずって帰った。
午後は仕事にならないのはわかりきっていた。
午後の仕事が始まる。
カウンターに座る春奈からは妙な若草と土の匂いがする。
周囲の女子行員たちが変なものを見る目をくれているが、春奈の変人ぶりは皆も知っているせいか。
注意しにくる者もない。
テラー当番ではない怜美は、別階で顧客への提案プランの設計書作成をしているが。
どうにも気になる。
トイレへ行くふりをして、一階ロビーを遠い廊下からのぞく。
春奈の背中がカウンターに見える。
ふわり、と。
春奈の背中が傾く。
やばい、と怜美が飛んでいく。
泣き腫らした目で、春奈が床にうずくまっている。
カウンターの背後の管理職席で、窓口課の課長が困っている。
怜美が課長へ小声で、早退します、と告げる。
たかが体調不良で休める業界ではない。課長は渋い顔をしている。
それでも怜美は、課長も周囲も無視して、抱きかかえるようにして春奈をロビーカウンターから連れ出す。
近所のペットショップでキャリーバッグを買う。
どれでもいいと適当に選ぼうとしたら。
この世の終わりのような顔で泣いていた春奈が急に顔をあげる。目をらんらんと光らせて。
「彼には赤が似合うわ」
赤のLLサイズを買って、いきなりペットショップを飛び出す。
豹変ぶりに驚く怜美が、必死で後を追う。
走る。
歩道橋を駆けあがり、駆けおりて。
スタバのある方角へ。
彼と出会った、あの花壇へ。
枯葉に足をとられて転ぶ。
気にせず立ち上がり、また走る。
おでこから血が出ているが、春奈は気がついてない。
息を切らせて、走る。
花壇の前で。
もう息もできない。へたりこむ。
這って、花壇へ行こうとする。
物音はない。
彼は去ったのか。
春奈が絶望的な顔になる。
あたりの茂みを探して回ろうと土まみれの体をはたいて起き上がろうとする。
そして。
ガサッ、と、春奈の後ろの茂みから、音がする。
猫の足音が。
やっとのことで怜美が追いつく。
春奈の足から落ちたハイヒールを持って。
そして、見る。
まだタグも取ってない新品のキャリーバッグに押し込められた巨大な茶トラ猫。
おそらく彼は、良い遊び相手を見つけた程度に思っていたのだろう。まさか誘拐されるとは思ってなかったのだろう。キャリーに閉じ込められて、こころなし不機嫌になっているように見える。
春奈は両手でがっつりキャリーを抱きしめ、腫れた顔にもかかわらずハレルヤが聞こえてきそうな笑顔になっている。
怜美を見て、ハレルヤがボリュームアップする。
「先輩、数日でいいので匿ってください。うち、寮だから。ペット禁止なんです」
怜美、目が点。
握っていた春奈のハイヒールがぽとりと地面に落ちる。
無計画にもほどがあるだろう。
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